35. 別れの空
花畑の中に見慣れた背中が見える。
温かみのある金の髪が、こぼれる砂のようにさらさらと揺れていた。
花々の間を縫って歩き、ぼくは彼女のそばに立つ。
「この景色ともお別れなのね」
プリーナは横顔で目を細め、天井の大岩を見上げた。地底の空は、今日も変わらず晴れていた。
「また来よう。いっしょに」
「――ええ」
「ぐえ、ぐえ、ぐえ! ぐぐえええ!」
ティティが孤児院の手前で騒いでいる。ぼくたちは目を合わせて笑った。
「そうね。ティティもいっしょよ」
地上へ運んだきりどこへ行ったのか分からなくなっていたティティは、コンズを倒してぼくが雄たけびを上げていた時に戻ってきた。我ながらだいぶ目立つ感じだったし、目印になったんだろう。それが昨日のこと。
それから一晩、町でゆっくり休ませてもらい、今朝変わらず輝く大岩を拝ませてもらった。
おかげですっかり回復した。プリーナも既に魔術を使えるまでになっている。だから今日、この町を発つことにしたのだった。
名残惜しくはある。でもそれはいつ離れても同じこと。何よりヘレナのために、一刻も早く地上を平和にしなくちゃいけない。
「でも、ちょっと残念だわ」
「……そうだね」
プリーナの視線の先、小さな山の上を見る。たくさんの紐が寄り集まったような、奇妙な形の木があった。角のように尖った先端には大きなつぼみが付いている。
「どんなお花が咲くのかしら。ああ、ここにも『扉』みたいなのがあればいいのに! そうしたら毎日だって覗きに来るわ!」
「いいね、それ」
ここを拠点にできるし旅の荷物も置いておけるし便利なことがいっぱいだ。……なんてロマンのない考えが浮かび口をつぐむ。こういう時「きゃあ素敵!」と言ってもらえるような、香り高い言葉を返せる紳士になりたい。
「サーネル! プリーナお姉ちゃん!」
孤児院から子どもたちが飛び出してきた。遅れてウナとヘレナも顔を出す。
「上に行っちゃうってホントっ?」
「やだよ。ここにいればいいじゃん」
子どもたちの不安そうな眼差しを受け、ぼくたちは頷いた。
「騒ぎも収まったし、十分休ませてもらったからね」
「ええ。だから行かなくちゃ」
「やだー!」
銀髪の男の子が花畑に入り、ひざに飛びついてきた。遅れて他の子たちも駆け寄る。ぼくは一人一人の頭を撫で、笑いかけた。
「また戻って来るから」
「それまで待っていてね」
「絶対! 絶対だよ!」
「約束だからね!」
何度も念押しされて、笑って答えながら涙が出そうになった。この子たちは純粋に、心から別れを惜しんでくれている。寂しい思いをさせておいて自分勝手な話だけど、その気持ちが本当に嬉しかった。
「ラージュ!」
子どもたちの奥からヘレナが走ってくる。鮮やかな赤い髪を揺らし、飛びついてきた。ぐずっ、と耳元でヘレナが鼻をすする。
あれ? 泣いてる?
「えっとその、ごめん! 急な感じになっちゃって! もっと早く言っておくべきだったよね!」
慌てて謝ると、ヘレナはぶんぶんと首を振った。
「あたし、ラージュを助けてあげられない。ラージュがこれからいっぱい戦おうとしてるのに、力になってあげられない。だから……ごめん。ごめんね」
「ヘレナ……」
負い目を感じることなんて一つもないのに。ヘレナだって寒さをこらえて町を守るんだ。その辛さを和らげてあげられないのはぼくも同じだ。
「ねえヘレナ。聞いて」
プリーナが凛とした眼差しをヘレナに向ける。
「わたしたちには帰る場所がなかったの。二人ともよ。でもここにきてそれが得られた。魔族との戦いは厳しいわ。どんなに強く誇りと覚悟を持っても、待っていてくれる人がいなければきっと心が折れてしまうでしょう。あなたがここを守ってくれるから、わたしたちは戦えるのよ」
彼女のまっすぐな瞳には、無理に慰めようという焦りの色がない。色付けされていない本当の想いをそのまま伝えているのだ。そんな彼女の声だからこそ届く。
ヘレナはぼくから離れると、自身の服をぎゅっとつかみ、頷いた。
「分かった。あたし、絶対町を守るから!」
その言葉にぼくたちも強く頷く。
ヘレナの表情から影が消える。ぼくはほっと笑みを浮かべ、今度はウナに顔を向けた。
「……サーネル」
彼女の顔も暗かった。気になったけど、とにかくまず言わなきゃいけないことがあった。
深く、頭を下げる。
「プリーナを助けてくれて、本当に、ありがとうございました」
心からの感謝を告げると、ウナは複雑そうに視線を逸らす。
「やめておくれよ。礼を言いたいのはこっちだってのに。アンタのおかげでヘレナも町も助かったんだよ。それに……わしはアンタに酷いことを言っちまっただろう。感謝されるような立場じゃないさね」
「そんなこと! あれはぼくが皆を騙したからで」
「そういう話じゃあない! わしはたとえ一時でもアンタを疑っちまった。本来ならアンタに顔を向けることすら許されないんだよ!」
「おばあちゃん!」
ぼくは叫んで言葉を遮る。飛び出し、ウナを抱きしめた。
「……なんだい。まだそう呼んでくれるのかい」
「当たり前だよ! だって嬉しかったんだ。今まで何度も何度もいろんな人たちに拒まれて、辛くないって自分に言い聞かせてきて、でもここに来て、初めて魔族でも家族みたいに受け入れてもらえて……。
だから、皆とは笑ってたいんだ。せっかくいっしょにいられるのに、苦しんでいてほしくないんだよ。勝手すぎるお願いかもしれないけど」
ぼくはしばらくウナから離れなかった。やがて彼女はため息を漏らす。
「わしも耄碌したかねえ。二度も家族を悲しませちまうとは、全く情けないよ」
ぼくの両肩に手を置き、身を離す。それから男らしく豪快に腕を組んだ。
「だが物事にはケジメってもんがある。このまま何もなしに許されたんじゃあ心から笑ってやれる自信も湧かんさね。ここはひとつ、何かびしっと命じてくれないかい」
その提案には正直あまり納得がいかなかった。そもそも遺体を壊して皆を騙したこっちが悪いのだし、彼女は最終的にぼくを信じてくれたのだから。
でも、一旦のお別れを前に欲が出た。
「そ、それじゃあ」
小さな声でぼくは言う。
「その……頭を、撫でて……もらえると」
ちらとウナの顔を見上げると、呆けたように目をぱちくりとしていた。
ふっと、笑う。
「そういうことじゃなかったんだがねえ……まあ、本人からの頼みだ。良しとしようかい」
頭に手を置かれる。そっと撫でられると、胸の中がじわりと温かくなった。
祖母によく似た、だけど性格は全然違う、ぼくの新しいおばあちゃん。
絶対にまた戻ってこよう。胸の内で決意を固くした。
ぼくとプリーナ、ティティは孤児院の前を去り、今度は町に向かった。
丘を越えた先に町長が待っていた。どうやらぼくたちが発つことをウナから聞いていたらしい。
「色々とお世話になりました」
「とても素敵な時間をもらったわ」
二人で頭を下げる。町長はいつもの鋭い目つきをわずかに緩めた。
「はて。わしが何かした覚えはないが」
「ここにいることを認めてもらいました。町で買い物することまで。それに、あの魔族を倒せたのも町長のおかげです」
「礼を言われるほどのことはしておらぬ。感謝すべきはわしらの方だ」
ウナと同じことを言う。魔族を受け入れることがどれほど大変なことか、この世界に広がる光景を見れば明らかだ。それでも彼らは当然のように町に置いてくれて、ぼくたちを救ってくれた。
それなのに、ぼくは。
「町長。いずれ必ず、罰は受けます」
「む?」
「でも少しだけ待ってください。絶対に戻ってきますから」
「サーネル……」
「待て。罰とは何のことだ」
ぼくは俯き、自分の掌を見つめる。
「昨日、処刑台の前でぼくは、殺された人の体を……壊しました」
町長は目を閉じる。わずかな沈黙ののち、いった。
「罰を与えるつもりはない」
「でも、それは」
「あやつはこの町の平和を常に案じておった。ヘレナを犯人と疑った時もそうだ。見当の外れることを誰より強く願い、町の救われる道を模索しておった。同時に犯人を憎み、その打倒を強く望んでもいたのだ。
お主はこの町を守り、仇をも討ち果たした。ならばあやつが、お主を讃えぬ道理がなかろう。あやつのためにも胸を張ってはくれまいか。お主は紛うことなく、この町の救世主だ」
町長は老いを感じさせない動きで頭を下げ、それから――驚くほど優しい目をして微笑んだ。
不意を突かれて泣きそうになる。ぼくなんかがこんなに感謝ばかりされていいのだろうか。
「この町はお主と共にある。魔王との戦の折には、必ずや助太刀致そう」
「――え?」
ぼくは固まる。あまりにさらりと言われたから、一瞬その意味に気づかなかった。
「まあ、まあ! やったわサーネル! やっとわたしたちにも味方ができたのね! この旅は無駄ではなかったのだわ!」
いっしょに戦ってくれる……ということでいいのだろうか。
こちらから切り出そうと思っていたことではあった。だけどまさか本当に、しかも向こうから共闘を望まれるとは思ってもみなかった。魔王と戦うことはぼくを受け入れてくれたこととはわけが違う。
「ぼ、ぼくには、皆さんの命を保証できません。それでも……戦ってくださるんですか?」
「無論だ。全ての者が出るわけにはいかぬが――わしは必ず参じよう」
町長は一切の迷いもなく答えた。
また涙が出そうになる。だけどそれは堪えて、ぼくはきゅっと口を結んだ。
さっきよりも深く頭を下げる。長く、長く。全身全霊で感謝の気持ちを込めて。
こうしてぼくたちに新たな仲間が加わった。サーネルを信頼するミィチたちを除けば初めての味方だ。
その一歩はぼくにとって、得た戦力以上に強い意味を持つ、大きな希望の光だった。
「――む」
町長が身を翻す。無言で遠くを見つめ、宝石を手にする。
「どうかしたんですか?」
「何かが来よった」
直後、遠くで崖が爆発する。わずかに地面が揺れ、町の方からざわめきが聞こえてくる。
「な、何っ?」
よく見ると、爆発が起きたのは地上へつながるところだった。
「まさか、上から誰かが……?」
ごくりとつばを飲む。もし魔術も使えぬまま人が落ちたとすればまず命はない。確かめるのには勇気がいる。だけど――落ちてきたのが魔族で、これから町を襲うつもりだったとしたら。
「プリーナ、ティティ! ここにいて!」
ぼくは念力で飛び出そうとする。だけどその前に、立ち上った煙の中から影が出てきた。
「!」
影はう凄まじい速さで宙に身を投げ出し――明らかにこちらへ向かってきていた。
その姿が露わになる。人間だ。麻の服を身に着けた黒髪の大男が、五体満足に飛んでくる。
彼はぼくらを少し飛び越え、砲弾のごとき迫力を放ちながら着地する。
「まさか、こんな場所にいたとはな」
ぼくは彼を知っている。彼の剣を知っている。
その次元を超えた腕力を、魔族をも殺す究極の斬撃を知っている。
彼は魔術を使えない。けれどただの馬鹿力でそれを凌駕した。
一度は魔王を包む闇を切り裂き、その素顔を晒させた。
常識外れもいいところの、おそらく人類最強の戦士。
彼にあえて肩書きをつけるなら、そう――勇者と呼ぶのがふさわしい。
「ようやく見つけたぞ。サーネル」
黒い瞳が無機質にぼくを見る。
遍歴騎士マイス・ラムプルージュ。魔王に敗れた彼が再び、傷のない体でぼくの前に現れた。