8. ぼくが見殺しにした人
2019/01/18 改稿しました
無我夢中で山を駆ける。木々のせいで月の光も届かない。もはや視界には何も映らず、それでも無理やり走るしかない。怖いから。ただひたすらに怖いから、走り続けていた。
助けて、助けて。村人たちの消え入りそうな声がする。
どうか許してほしい。ぼくには初めから助けられっこないのだ。だって、ここで引き返せるならぼくはとっくに死んでいる。
そう、こんな情けない人間だから、まだ生きていられるのだ。
助けて、助けて。幻聴はまだ消えない。
何度目か耳をふさぎ、ひび割れたような声を上げる。
ふいに足が滑った。急な斜面を真っ逆さまに転がり落ちる。
背中をぶつける。頭をぶつける。落ち葉の積もった土の上に、ぐったりと横たわる。
助けて、助けて。
ああ、こんなことなら。また何もかも見捨てて逃げ出してしまうのなら。あの時、ぼくが。
「ぼくが死ねばよかったのに……」
助けて――。
その声は今、干からびた村人たちのものではなかった。ずっと昔、いつも二人で時間を過ごした、大好きだったぼくのお姉ちゃん。
ぼくが見殺しにした人。
彼女の最後の叫びが蘇り、かつての記憶があふれだす。
別に死にたいわけじゃない。けどやっぱり思ってしまう。お姉ちゃんなら、あるいは。こんな状況でも、強い意志で立ち向かえたかもしれない。ここにいたのがぼくでなければ。
薄れゆく意識は、縋りつくように遠い過去へと引きずられていく――。
*
お姉ちゃんが跳び蹴りをかましている。
ぼくは小さい頃からいじめられやすい体質だった。近所の公園とかで数人がかりで囲まれていると、決まってお姉ちゃんが現れて、助けてくれた。
「キミたち! 五体一なんて卑怯だよ! だからほら、キミ一人だけ残しといたげるから、正々堂々一騎打ちしなさい!」
結局最後は泣かされる羽目になるんだけど。
「なんで殴られてるのにやり返せないかなぁ」
「む、無理だよ……仕返し、怖いもん……」
でも、一騎打ちが終わった後の帰り道は、決まってお姉ちゃんが頭を撫でてくれるから、とても温かい気持ちになる。
三つ上のお姉ちゃんは大人と変わらないくらい頼もしくて優しくて、無茶苦茶な部分も含めて憧れの存在だ。彼女の象徴とも言える高い位置で結ばれたポニーテールは、いつも元気よく風になびいていた。
けれど――憧れの人は死んだ。
四年前の、その日。お姉ちゃんがちょうど中学に上がった年。
ぼくはお姉ちゃんを見殺しにしたのだ。
夏休みになって、ぼくたち家族はお祖母ちゃんの家に遊びに来ていた。
「お姉ちゃん、裏山に行こうよ! すっごく大きな猫が出るんだ!」
日差しのきつい昼間のこと。今よりもう少し活動的だったぼくは、ワクワクと足踏みしながらお姉ちゃんを誘った。
「おっ、いいね! いい運動になりそう!」
「いや、捕まえに行くわけじゃないからね……」
目的はともかく、お姉ちゃんは快く頷いてくれる。
早く猫に会いたいな、と顔をにんまりさせながら、ぼくらは嬉々として青々とした山へ向かった。
その顔は、一時間もしないうちに凍り付くこととなる。
山に着き、頂上近くまで登った頃のことだった。乱立する草木の向こう――急激な傾斜を下った先に、茶緑のパーカーを来た青年を見つけた。スコップを振るい、やたらに深い穴を掘っている。
ここは田舎で人が少ない。話したことはなくとも見たことはある、という人たちはたくさんいた。けれど、その青年に関しては全く見覚えがない。それにこの辺りは年寄りばかりで、好んで山を登る人自体少なかった。
もの珍しさにこっそり覗いていると、お姉ちゃんもいっしょになって見物し始める。
「何やってるんだろ……」
「しっ!」
呑気な声で呟くと、咄嗟に人差し指を立てられる。
その顔は恐怖に震えていた。
あの無茶苦茶で、どんないじめっ子も跳び蹴りでふっ飛ばしてしまった人が、ガチガチと歯を鳴らし、息をひそめている。
なんで――戸惑いながら青年のほうへ視線を戻す。
「……!」
危うく悲鳴を漏らすところだった。
ようやく足元に横たわる人間の姿に気づく。男か女かも分からない、顔を潰された死体に。その死体が今、穴の中へ放り込まれる。
息ができなかった。思考が止まり、体が完全に停止する。
肩に手を置かれる。それでぼくははっと顔を上げた。
隣を見る。お姉ちゃんはもう震えていなかった。ぼくの目をまっすぐに見て、力強く手をにぎる。
「――逃げよう」
努めて冷静な調子で呟かれた言葉に、ぼくは必死で頷いた。
そして二人で踵を返し、直後。
「っ!」
足を滑らせ、草木に体ごと突っ込んだ。
頭が真っ白になった。
「誰かいるのかい?」
青年が呼びかける。優しい声。しかし同時に、真実を知る者をぞっとさせる声だ。
二人とも恐怖に固まり、動けない。
「ははは、参ったね。いるのは分かってるんだけどなあ。ああ、そうか。怖くて答えられないんだね。――ふうん、つまり君」
声の色が、変わる。
「見ちゃったんだね?」
心臓が止まるかと思った。
青年が草木をかき分け坂を上がってくるのが、音で分かる。
一歩一歩、確実に。足を滑らせる気配なんて微塵もない。
殺される。殺される。
逃げなきゃ。もう遅い。どうしよう。助けて。
喉の奥、腹の底から悲鳴があふれそうになった時。
お姉ちゃんが立ち上がった。
「お、お姉ちゃん……?」
「大丈夫だよ。隠れていて」
「……! ま、待って」
お姉ちゃん――憧れの人は、いつもみたいににこりと笑って、軽く胸に手を当てた。
「お姉ちゃんに任せなさい」
止めなきゃ。そう思った。でも、動けなかった。
イヤだ、待って。行かないで。死んじゃうよ。
呼び止める言葉はいくつも浮かんだのに、どうしても喉が詰まって、声が出なかった。
叫び声が耳をつんざく。お姉ちゃんは山の外にも届きそうな大声をあげ、坂を一気に駆け下りる。青年は慌て、お姉ちゃんを捕まえるのが音で分かった。くぐもった声、殴打音、絶叫、殴打音、殴打音、殴打音……。
やがて悲痛な叫びはすすり泣きに変わり、それすらも聞こえなくなり。
――お姉ちゃんは殺された。