29. 観客たちの叫び
例の魔族が負傷者を抱えて出てきた、という報せを受けたのは、まだ朝も早いうちのことだった。
「負傷者の数は」
「三人です。その中に、先ほど町長が監視に送った者も……」
窓や入口から中の見えない家々を迅速に一軒一軒訪ねながら、町長は話の詳細を聞く。
また街中で事件を起こされることを警戒していたが、犯人は変化をつけてきたらしい。だが、耳にした話をまとめると疑わしいのは――。
「息はあるのか」
「あ、す、すいませんっ。そこまではっ」
負傷者を目にして焦ったらしい。報告に来た青年は取り乱しながらへこへこと頭を下げる。
「もしかしたらあの魔族、犯人を見たかもって……それで、町長が話を聞かれれば素直に話してくれるんじゃないかと」
「なるほどな」
町長と共に話を聞いていた壮年の男が頷いた。
「だが魔族の言うことを信じていいものかどうか」
町長はうなり、足を止めた。
「鵜呑みにはできぬ。だが、ふむ――耳を貸す価値はあろう。町の者の言葉と同程度にはな」
「……そうですね。もし生きた負傷者を運び出したのなら、魔族が犯人と言うことは考えづらい」
「まずは魔族から崖の奥で起きたことを聞き出すしかあるまい。わしが向かおう」
町長たちは頷き合う。魔族――サーネルが入っていた空洞のある方角へそれぞれ足を向ける。だがすぐには飛び出さなかった。
今に動き出そうという寸前、異様な叫び声が聞こえてきたのだ。
「うああああああああああああ!」
雄たけびとも悲鳴とも取れる感情の爆発。どこで叫んでいるかもわからないのに、まるですぐ目の前に獰猛な獣を前にしたかのような迫力だ。
「な、な、な、なんですか今のっ?」
青年はたまらずしりもちをつき、周囲の人々も恐怖に硬直する。
次の瞬間、町長は走り出していた。ようやく声の位置に当たりがついたのだ。
尋常ではない何かが起きようとしている。今のはその前触れだ。そう、町長の直感が訴えている。
全身から汗が噴き出す。数年ぶりの感覚だった。
*
ぼくがミィチたちを町に運びこんだ時には、すでに騒ぎは始まっていた。
簡単に言えば、大声だ。泣いたり叫んだり怒鳴ったり、ともかくどこかで誰かがひたすら声を上げている。
ミィチたちをウナに任せ、ぼくはすぐ声の方へ駆けた。あまり揺らさないよう慎重に運んできたから時間がかかってしまった。
騒ぎはさほど遠くないところで起きていたらしい。早くも頭を抱えて叫ぶ女性の姿が見えた。周囲には人が集まっているようだけど、あまりの狂乱ぶりに誰も近づけないようだった。
「殺してぇ!」
初めてまともに聞き取れた言葉はそれだった。一瞬自分を殺してと訴えているのかと思ったけど、どうやら違うらしい。
大きく剥かれたその目は、まっすぐ一人の少女へ向けられていた。
赤い髪の――真っ赤な瞳の少女、ヘレナに。
どくん。心臓が跳ねあがる。嫌な汗が体中から噴き出した。
女性はヘレナを指さし、怒りに満ちた表情で睨みつける。そして、再び叫ぶのだ。
「殺して! キャシィ・クリスターニュを、殺してぇ!」
なんだ。何を言っているんだ。ぼくは思わず足を止める。けど全速力で走っていた体は簡単には止まらず、宙に投げ出され、思い切り転倒した。
「お、おいおい」
人だかりの中から声が上がる。
「何を言ってるか分かってるのか。キャシィはこの町の救世主だぞ」
「そ、そうよ。それを殺せだなんて」
「もしかして犯人に何かされたのか? 魔術で攻撃でもされて」
犯人……? そうか、彼女はコンズに攫われたうちの一人なんだ。事情を呑み込もうとしつつぼくは立ち上がる。
はっとした。
そういえばコンズは、ヘレナの姿に変身して――。
「彼女の願いは正しい」
人だかりの奥で誰かが言った。直後、ふらふらと頼りない足取りで熊のように大きな男が現れる。よほど疲弊しているのか、彼は息を切らせてひざをついた。
「あんたは確か、行方不明になってた……」
「僕の妻は、その女――クリスターニュに殺された」
「なにっ?」
人々がどよめく。幾多の視線が一つに集まる。
ヘレナは瞳を揺らし、首を振りながら後ずさった。
「ち……違います、あたし」
「おーい! 大変だ!」
さらにもう一人、ぼくが走ってきた方から女の人が駆けてくる。
「また人が襲われたって! 今度はオベーヌが!」
「オベーヌ? 彼ってさっき、ヘレナといっしょに」
「ああ、町を歩いて……」
「まさか、僕の妻と同じように、彼のことも!」
「そうよ……だから言ってるじゃない! 犯人はキャシィなのよ! キャシィを殺して!」
人々の表情が変わる。顔の中に暗い影を落とし、ぞっとするような怒りを覗かせ、一斉にヘレナに視線を向ける。
ぞわりと背筋を悪寒が走った。この空気はまずい。
「違う……知らない。あたし、知らないです」
ヘレナの声などもはや人々は聞いていなかった。すぐに襲いかかろうとはしない。けれど誰もが彼女を仇と定め、警戒心を剥き出しにしていた。
ぐっと拳を握り、覚悟を決める。
「ヘレナ!」
彼女の名を叫び、その手を掴む。有無を言わさず駆け出した。
今は会話が成り立ちそうにない。ああいう空気は旅の中で何度か味わったけど、今回はひと際異常だ。
振り返る。やっぱり何人か追ってきていた。まさかこの町でも逃げ出す羽目になるなんて。そんな雑念に首を振った時だった。
「やめぬか!」
水をかけるような声が響いた。ぴたり、と人々が足を止める。
町長だった。騒ぎを聞きつけやってきたらしい。
ぼくも立ち止まろうとしたけど、町長はこちらに背を向けたままで言った。
「今は行け」
「は、はい!」
頷き、ヘレナと走り出す。
いったい何が起きたのか、あまりにも唐突過ぎて全てを飲み込みきれない。ヘレナの手を引きながら、ぼくは必死に頭を動かした。
町を襲った事件で行方不明になっていた人が現れて、ヘレナが犯人だと叫んで、皆がそれを信じて――。
そうなったのは何故だったか? そうだ、コンズがヘレナに化けて人を襲っていたから、まるでヘレナが犯人のように映って――。
そうか。やっと理解した。この騒ぎはコンズの起こしたものだ。
さっきコンズは、ミィチを気絶させただけで良しとした。その理由もやっとわかった。今までの事件は、虐殺そのものを愉しむものではなかったんだ。あの魔族はこれを――ヘレナを陥れることを目的として、全ての事件を起こしていたんだ。
つまりコンズは初めから、ヘレナを犯人に仕立て上げるためだけに事件を起こしていた。
その証拠が彼ら行方不明者の出現だ。コンズが攫ったであろう彼らが突然現れたということは、コンズが敢えて解放したということ。このタイミング、オベーヌという人を襲った直後に逃がしたのも、彼女への疑いをより強くするための策に違いなかった。
どうしてコンズがヘレナを陥れるのか? その理由は分からない。人を甚振り愉しむやつらの気持ちなんて分かるわけがない。魔族のすることはいつだって理解不能だ。
どうしてさっきコンズを逃がしてしまったのか。あの時倒せてさえいればきっと、ヘレナに怖い思いをさせずに済んだのに。
「ラージュ、痛い……」
「あっ、ごめん!」
手を強く握り過ぎたらしい。慌てて離す。一度足を止め、うしろを振り返った。
今はもう孤児院手前の丘の上、まばらに生えた木々の中にいる。追ってくる人はいない。町長のおかげだろう。
とりあえずは、彼らが落ち着いて話を聞いてくれるのを待つしかない、か。
ぼくはヘレナが犯人じゃないと知っているし、真犯人だって見ている。ヘレナの姿に化けたことまで分かっているんだ。だからちゃんとそのことを話せば――。
そこまで考えて、ぼくは愕然とする。
信じてもらえるだろうか。魔族であるぼくの言葉を。
いや――信じてもらえるわけがない。魔族の言うことに耳を貸す人なんていない。ウナたちは分かってくれるだろう。でもそれだけじゃダメだ。町の人たちを納得させられなければ、ヘレナを守ることはできないのだ。
隣を見る。ヘレナは震えていた。それは寒さによる震えじゃない。一目でそうだと分かるほど、ヘレナは恐怖に青ざめていた。
「あたし、分からないよ……なんであたしが犯人なの?」
ヘレナは怯えた声で言い、頭を抱えしゃがみ込んでしまう。
大丈夫、きみの疑いは晴れるから――そう言ってあげたかったのに、ぼくは言葉をかけられなかった。
そして。
その日の昼。ヘレナの処刑が決まった。