23. 奇跡だったんです
坂道を駆け上がる。
驚きから解放されたぼくは、ヘレナを追って町の真反対に来ていた。
その先にあるものと言えばサーネルの寝床だ。崖を沿って走る坂道を、洞穴目指して駆け上がっていた。
――カップラーメン、食べたことありますか?
孤児院の前で、ヘレナはそういった。
ただのラーメンじゃない。カップラーメンだ。あれはこっちの世界にはないはず。仮にあるならいきなりその名を出す意味もないし、滑稽なほどに驚いたぼくを見て納得したような態度を見せるはずもない。
確かめたんだ。ぼくが『向こうの世界』から来たことを。でもどうして、そんなことを彼女が?
決まっている。ヘレナも『向こうの世界』から――。
洞穴に入る。いた。ヘレナはベッドの上で座り込んでいた。
まさかこんなところで、こんな突然に見つかるなんて。元の世界へ帰るための糸口が。
「ヘレ……キャシィさん。あなたは」
はっと口をつぐむ。すすり泣きが聞こえてきたから。
泣いている。ヘレナは声を押し殺し、苦しげに泣きじゃくっていた。
なんで……そういえばさっきも涙を見せていた。何かを怖がって、ひどく怯えているみたいに。
でも、少し違う。さっきのは恐怖で、今のは悲しみだ。それがまた余計にぼくを混乱させる。
「あ、あの」
声をかけようか散々迷って、なんとか一言切り出す。でも返答はなく、その先は続けられなかった。
どうすればいいんだろう。分からない。どうして泣いているのか、本当にこれっぽっちも原因がつかめない。ぼくがこの世界の人じゃなかったことが問題なのだろうか。でもそれって、ヘレナからしても仲間が見つかったようなものだと思うのだけど。
「えっと、もし何か……」
「やめて!」
悲鳴に近い声が飛んだ。ぼくの肩がびくりと跳ねる。
「サーネル様の声、やめて」
「え、どうして……あ」
慌てて口元を押さえる。
ヘレナが振り向き立ち上がった。怒らせたかと身を強張らせると、彼女はぼくの体に抱き着き。
号泣した。
まるで幼い子どもみたいに、遠慮のない大声を上げる。サーネル様、サーネル様と何度も彼の名を呼び、ぼくの体を強く抱く。
その涙はあまりに激しく惨たらしくて。彼女の泣く声を聴きながら、いつしかぼくも頬を熱く濡らしていた。
二年前まで、太陽の町はキャシィという一人の少女によって救われていた。
だがある日、魔族が町を見つけ出し忍び込む。魔族はよりにもよってキャシィに目を付けた。
それが扱ったのは知性ある者に幻を見せる魔術。キャシィは突如幻の中に放り込まれ、その中で幾度となく命を絶たれた。そのうち少女は心を壊し、人形のようにぴくりとも動かなくなった。
魔族は倒された。しかし少女を救う術はなく、町の誰もが絶望に頭を抱えた。
その時だ。サーネル・デンテラージュが現れたのは。
サーネルは死んだ魔族より先に町に入り込んでいて、起こった全てを見ていた。キャシィが天井の大岩を光らせていたことも知っていたのである。
――その娘を救ってやる。
孤児院の扉を吹き飛ばして現れた彼は、ウナにまずそういった。それから、キャシィを救う代わりに町にいさせてほしいと持ち掛けた。
そして。
壊れてしまったキャシィの中に、ヘレナが呼ばれた――。
「それが、この町の救世主だったキャシィの最期です」
長い時間をかけ泣き止んだヘレナは、彼女たちの事情について話し始めてくれた。ベッドの上に座り、こちらに背を向けたまま、ぽつり、ぽつりと。
ぼくはそこまでの話を聞いて、思わず問う。
「それじゃあ、あなたをここに連れてきたのは――」
こくり。ヘレナは頷く。
「サーネル様です」
はっきりと、ヘレナは答えた。
それは、つまり。ぼくをここに呼んだのも――。驚きのあまり、ふらりと壁に手をついた。
「あたし、向こうで死にかけてたんです」
ぼくは顔を上げる。薄闇に慣れた目はヘレナの背中が小さく震えるのをはっきり捉えた。
「お父さんに殺されかけて……死にたくない、死にたくないって。そしたらサーネル様の声が聞こえて……無我夢中で助けを求めたら、ここに来てました」
当然最初は戸惑ったという。世界の事情、自分に起きたこと、これからどうすればいいのか。何ひとつ分からない状況で、ヘレナにはただ怯えることしかできなかった。
「サーネル様も最初はすごく怖かったんです。あたしを呼んだのは『実験』のためだって。命令を聞かなきゃ死んでもらうって、何回も脅されました」
彼の命令は幾つもあったという。キャシィがそうしたように、大岩を毎日光らせ続けること。体調に変化がないか逐一報告すること。自身の正体を町の者に話さないこと。できる限りキャシィと同じものを食べて生活すること。
最初はとにかく怯えてばかりで、サーネルからも孤児院の皆からも逃げるように過ごしていたらしい。けど、しばらく過ごすうちに周りが見え始め、ウナたちの愛情に気づくことができた。それからは少しずつ皆と打ち解けていくことができたようだった。
「孤児院の皆は、あたしが元のキャシィみたいになれなくても愛してくれました。あたし、ここに来て初めて、優しくされることを知ったんです。他にもいっぱい、楽しいこととか大変なこととか、たくさんたくさん教えてもらいました。
ここに来られてよかった。皆に会えてうれしかった。だから、サーネル様に何度もお礼を言いました。サーネル様はただ実験をしただけだって言ったけど……でも」
ヘレナが振り返る。薄闇の中で赤い瞳がきらりと揺れる。
それから彼女は、胸に広がる感情をそっと撫でるように目を閉じ、微笑むのだった。
「あたしにとっては、どれだけ願っても叶いっこない――この町を照らす太陽みたいな、奇跡だったんです」
ヘレナは話を終え、しばし黙り込む。ぼくも今の話を受け止めるため、少しの間沈黙に身を預けた。
ヘレナが向こうの世界でどんな風に生きどんな目に遭ったのか。それに関しては想像するしかない。確かなのは、ヘレナはここへ来たことで救われたらしいということ。
これで納得した。だからサーネルは救世主と呼ばれたんだ。
ウナによれば、サーネルもいつしかヘレナたちと打ち解けたという話だった。そのきっかけがヘレナであったのかまでは分からない。
でもきっと、彼女の気持ちはサーネルに届いていた。そして彼もヘレナを愛した。だからこそサーネルは、命を賭してまで魔王に立ち向かおうとしたのだ。
それはわかった。ただ、全ての説明は終わっていない。ヘレナの涙の意味をぼくはまだ知らなかった。
引っかかっていることが一つある。
「さっき、キャシィさんの最期、って言いましたよね」
心を壊したキャシィの中にヘレナが呼ばれた。それが『キャシィの最期』だと、ヘレナは確かに言っていた。
少女はひざを抱えるように自分の腕をつかみ、ぎゅっと力を入れる。とても苦しげに俯き、それでも彼女は答えてくれた。
「キャシィはもう戻らないんです。サーネル様が言ってました」
ぼくは目を見張る。いや、分かっていた。推測はできていた。でも実際に告げられると、やっぱり驚かずにはいられない。
「戻らない……って」
ヘレナはそれ以上何も言わない。おそらくはそれこそが答えだった。
つまり、キャシィは死んだのだ。
じわじわと、お腹の底からこみ上げるようにぼくの中で事実が浮き上がってくる。
ヘレナの魂が入った時、体の持ち主は死んだ。
それならサーネルは?
さっきヘレナは泣いた。恐怖に慄きながらぼくの正体を確かめ、ぼくが別の世界から来たことを知ると悲しみに暮れた。
まるで、かけがえのない誰かが失ってしまったみたいに。
ここまで来たら、もう理解せざるを得ない。
ぼくがこの世界に来た時点で、サーネルは――。
ぼくは彼の残した意志なのだろうか。ヘレナとの約束を守るため、魔王を討ち果たし世界を変えるための、最後の抵抗だったのだろうか。
サーネルは人殺しだ。たくさんの町を襲い、多くの命を奪ってきた。だから彼に同情はしないし、いい奴だとも絶対に思わない。
だけど。一人の少女を想い、自由を与えるためだけに戦ったその意志は本物だ。命をかけてでも手を貸す価値がある。やることは変わらないのだけれど。
魔王を倒す。結局はそこに行き着くんだ。
「キャシィさん。ぼく、絶対に魔王を」
「ヘレナ、です」
少し怯えの見える、物陰から覗き込むような声に遮られる。
「ヘレナって、呼んで欲しいです」
立ち上がった彼女は、自身の服をぎゅっとつかみ、恐る恐るいった。
「サーネル様の残してくれたもの、皆みんな、大事にしたいんです。だから、あたし」
「うん、いいよ」
ぼくは微笑む。緊張をほぐすためじゃない。心から嬉しくてぼくは笑った。
そうだ、ぼくだってそうしたかった。元の世界を知る仲間にようやく出会えたのだ。大事にしたい。大切にしたい。だったらやるべきことは決まっている。
「友達になろう、ヘレナ」
手を差し出す。これがぼくの気持ちだ。
ヘレナは目を丸くしてその手を見つめた。やがて頬を緩め、わずかに腕を上げる。
二人の手が、交わった。
*
翌朝。子どもたちが起きだす音で目を覚ます。
寝転がったまま目を開け、ぼんやりと視線を動かす。皆がそれぞれにベッドを降り、伸びをしたり声を掛け合ったり。
それを眺め、気づくとぼくはうとうとしていた。まだ眠い……。
次に目を開けた時、視界にいきなり影が落ち、ぼくの頬にさらりと髪がかかった。
「良い朝よ、サーネル」
プリーナの笑顔がのぞき込む。なんと、おでこにキスをされた。
「お、おはよう」
裏返った声でぼくはいう。一気に覚醒した。
「そっちはそれで起きるのか。楽なもんだな」
朝から不機嫌そうな声でミィチがいった。あちらはヘレナを揺さぶり起こしている様子。
「おい、起きろ」
「やだ」
「やだじゃない」
「いやぁだ!」
駄々っ子みたいな声が響く。ぼくとプリーナは目を丸くした。
「ああ、ついに発動したのかい。しばらくは我慢してくれると思ったんだがねえ」
「おい、いいのか。プリーナたちが見てるぞ」
「いいもん」
「……ヘレナ?」
「!」
ぼくが呟くとヘレナはいきなり起き上がった。呆気に取られるミィチを押しのけ、
「ラージュ!」
ぼくに飛びついてきた。
「うわっ? ら、らーじゅ?」
「べろべろべろべろ」
「ひっ?」
いきなり顔を舐め回された。
なんだこれ。何がどうなってるんだ。
「おはよう、ラージュ!」
びっくりするほど明るい笑みを見せられてぼくは目を丸くする。
「ラージュはね、デンテラージュのラージュだよ!」
「は、はあ」
「べろべろべろべろ」
ぎゃああああああ! また舐められた!
「あ、あの! ねえミィチ!」
「あ?」
「この人だれ!」
「ヘレナだろ」
いやいや!
「何がどうなったらこうなるのっ?」
なんか凄いべろべろ舐められてるんだけど。
「ヘレナは人見知りだからな。やっと慣れてきたんだろ」
「そういうレベルじゃないと思うな!」
あ、でもそういえば、初対面の時も出会い頭に舐め回されたような。
「ラージュ、おはようって言ってない」
「お、おはよう」
「んふー! おはよう!」
ぼくの胸におでこを擦りつけると、今度は隣のプリーナに顔を向け、頬に軽くキスをする。直後ベッドから飛び降り、元気に手を振って外へ走り去っていった。
「驚いたわ。昨日まで話しかけても来なかったのに」
確かに驚いた。ヘレナが本当はあんな元気で甘えん坊な子だったなんて。
そういえばヘレナって九歳の子どもなのだった。昨日まではあんまりそう見えないところもあったけど。
でも、新たな一面を見せてくれた。これはきっと、打ち解けられたってことでいいんだよね。
「何があったかは知らないけど、ずいぶん懐かれたみたいだな。っていうかあいつ起きられるんじゃないか」
ミィチからもお墨付きをもらえた。言葉だけにならないか不安だったけど、ちゃんとぼくたちは友達を始められたらしい。それが分かって、今さらながらぼくの心は弾みだした。
ただ、一つ問題がある。仲良くなれたのはうれしい。飛びついて来る姿も子どもらしくてとても愛らしかった。ただ、である。
べろべろ舐められて、顔がよだれまみれだ。
……うん。顔洗ってこよう。