22. カップラーメンの味
扉を開けると、むせ返るような血の臭いが鼻を突いた。
当時は食事の途中であったらしい。足を踏み入れた部屋の床には乾いた粥やしなびた草がこびりついている。当然、血も。
殺された若者の家だった。町長は手に提げた灯りで染みだらけの部屋を照らす。窓には内側から板が打ち付けられ、錠前の鍵なしでは立ち入れないようになっていた。
解体された遺体は既に埋められている。だが散乱した家具や血の染みはそのままにしてあった。
「待っておれ」
目を閉じ、一言。しばし黙したままその場に立った。ある時ふいに目を上げると、身を翻し部屋を出る。
ささいな儀式だ。必ず首を持ってくるという、しごく簡潔な誓いをしてきた。
調査は難航している。仇に繋がる手掛かりはもちろん、若者の妻も見つけられていない。
だが、一つだけ言えることがあった。ほぼ確かなことだ。
犯人はまだこの町にいる。
人の身をわざわざバラバラにしておいて、どこに隠すでもなく放置したのだ。そんなことをする目的は「相手を痛めつけること」、あるいは「誰かに見せつけること」のどちらかでしかあり得ない。
前者なら次なる事件を起こすべく町にとどまっている可能性が高い。後者でも人々の反応を見るために残っているはず。
……こんなものは、魔族に多くのものを奪われた老いぼれの経験則でしかないのだが。町長は家の建つ丘を下り、傍目には分からぬほど微かな自嘲の笑みを浮かべた。
そういえば、あのサーネルという少年も魔族だった。だが町長はあれのことを特別疑ってはいない。
何故ならあれは、人間であるから。
町長は気づいていた。あれが他の魔族とは明らかに違うことを。そしてまた、人に近しい心を持つことを。
思い出すのは初めて対面した時のこと。脅しとして彼の喉元に手の先を突き付けたあの時――あれの手もまたこちらを向いていたのだ。
ほとんど反射的だったといっていいだろう。彼自身気づいた風ではなかった。そして多くの戦いを重ねてきた経験から、こちらの死に直結する何らかの魔術を放とうとしていたことは明白だった。
だが、少年は踏みとどまった。
こちらを傷つけないように、命を奪わないように、すぐにでも放てるはずだった魔術を止めたのだ。それも、自身ですら気づかない、無意識のうちに。
町長はそれをよく知っている。数多くの仲間たちが見せてきたものだ。敵を殺す瞬間、わずかに生じるためらい。結果攻撃の手が止まり、逆に命を奪われる。そんな光景を何度も見てきた。それをあの魔族は見せたのだ。
人の死を――否、あらゆる生き物の死を何とも思わない魔族にはあり得ないことだった。
あれは魔族などではない。その魂は、魔族のそれでは決してない。他者の死を悼み、痛みを自分のものとできる――まさしく町長の知る人間そのものであった。
様子見は必要だ。しかし町長の見込みが正しいと確信できた時には、町全体として彼を歓迎するのも悪くない。今はまだその時ではなかったが、それが町長の本音だった。
*
プリーナが空になったお椀を差し出す。そこに手早くおかわりが注がれる。
食欲旺盛な子どもたちに混じり、プリーナはものすごい速さで食事を平らげていった。彼女の体調はみるみるうちに回復していく。とはいえいつ襲われるとも分からない長旅に出るにはもう少し時間が必要だろう。
「はー、お腹いっぱい。美味しかったわ!」
満足そうに息をつき、プリーナはいった。金の髪は以前のように二束に結ばれさらりと垂れている。ウナが紐をくれたのだ。彼女はやっぱりその髪型が一番安心する。
それはいい。食事をさせてもらえるのはありがたいし、まるで当たり前のように歓迎してもらえることにも感謝が尽きない。ただ。
「あの、ウナさん。……今朝のことなんですけど」
「ん? ああ、ミィチから聞いたのかい」
まだ町で起こった事件について、ウナのほうから切り出されていなかったのだ。質問攻めにされる可能性を多少なり警戒していたから、まったく話題に触れないのは予想外だ。
ミィチの言った通り、いきなりぼくたちが犯人扱いされるようなことはなかった。町長が話しかけてきたり監視の目が増えたりすることすらなく、何事もないままにその日の夜を迎えた。もっとも、太陽は出たままだけれど。
困った事態というわけでは決してない。ただ少し肩透かしを食らった気分だった。何しろこの町に来るまでは事件がなくても襲われるのが当たり前で、人里にいる間はほとんど常に緊張状態といって良かったのだから。
「それで、その……町長はなんて言ってるんですか?」
それでもやっぱり、ぼくが真っ先に疑われるであろうことは理解していた。ぼくは魔族というだけでなく昨日見つかったばかりのよそ者でもある。これで疑うなという方が無理な話だ。
「犯人は必ず見つける。そう言っていたよ」
「ぼくのことは何か」
「いいや、一言も。何もしちゃいないなら気にすることはないさね」
それだけ言うとウナは口を閉じ、視線で子どもたちを示した。ごはんに夢中な子もいればきょとんと首をかしげる子もいる。ぼくは察して話を止めた。
ところがプリーナにはまだ言いたいことがあったらしい。目を上げると力強く言い放った。
「わたし、犯人を捜すわ」
碧い瞳が凛と光る。言い出すとは思っていた。だけど。
「やめとけよ。慣れないやつが嗅ぎ回っても引っ掻き回すだけだぜ」
ミィチがいう。理由は違うけどぼくも賛同した。
「そうだね。ここは任せた方がいいと思う」
「でも」
「犯人が分かった時は協力しよう。誰も傷つけさせないように」
それが一番確実だ。だって、魔族であるぼくの言葉なんて信じてもらえるわけがない。犯人を名指ししたところで真犯人は別にいると思わせるのがオチだ。それこそ、ぼくが犯人ですと名乗り出た方がまだ真実味が出るだろう。
ぼくの同行者であるプリーナも似たような扱いをされるはず。今までを思えば火を見るより明らかなことだ。
だからここは、彼らの中で犯人が確定するのを待つ。それが一番確実なのだ。
「ま、軽く協力するくらいが一番ちょうどいいだろうな」
「そうさね。いざって時はこの子たちを守ってくれるかい?」
「――ええ、もちろん」
「約束します」
ぼくとプリーナははっきりと答える。
ずっと黙ってごはんを食べていたヘレナは、やっぱりそれからも黙ったままで、ぼくたちの決定には特に口を挟まなかった。
木のスプーンを持つ手は、犯人への恐怖からか微かに震えていた。
全員の食事が終わり片付けが済むと、やがて明り取りの窓に布がかけられ就寝の時間がやって来る。特大のベッドの上に孤児院の皆で並んで寝るのである。
朝から働きいっぱい遊んだ子どもたちはすぐに眠り、次いでプリーナとミィチが寝息を立て始める。ウナは時折寝苦しそうな声を上げるけど、なんだかんだ数分で寝付いている。
「んん……」
最後に眠るのはぼくかヘレナだった。これに関しては単純に皆の寝つきが良すぎるのだ。今夜も突然もぞもぞと起き上がるヘレナをぼくだけが見やることとなった。
「あの……来てもらえますか」
暗い部屋の中、あらぬ方へ顔を向けヘレナがいった。誰に声をかけたのか一瞬分からなかったけど、起きているのはぼくだけだしと、遅れて身を起こす。
ヘレナはこちらを確認するでもなくさっさと外へ出ていってしまった。慌てて追いかけ扉を開けると、赤らんだ花畑が目に飛び込んできた。
「えっと、ぼくですよね?」
念のため尋ねる。ヘレナは背を向けたままで答えてはくれなかった。
否定しないってことは間違いではないのかな? 首をかしげていると、はっとするほど鮮やかな赤い髪が、吹き付けた風に強く揺れた。ヘレナは突然ぶるりと震えあがり、その場にしゃがみ込む。
「大丈夫ですかっ?」
それにもヘレナは答えない。けど、ようやく横顔がこちらを振り返った。
泣いていた。燃え上がるような赤い瞳には涙が浮かび、歯はがちがちと音を立て、よく見れば肩や腕も目で見て分かるほど震えている。今まさにナイフを突きつけられ死の恐怖に慄いているような――気の毒になるほど怯えた表情をしていた。
「えっ? あ、あのっ、なんでっ?」
ぼくは軽くパニックになる。わけが分からなかった。何で泣いているんだろう。いやそれより、こんな時はどうしたらいいんだろう。
けれど彼女は、ぼくの助けなんていらないとばかりにきっと唇を結び、一人で立ち上がった。
「聞きたいことがあったんです。あなたに……ずっと」
ようやくヘレナは口火を切った。真っ赤な瞳には覚悟の光が灯っていて、でもそれは頼りなく揺れて、消えては浮かんでを繰り返す。
それでも少女は自身の手をぐっと握り締め、顔を上げた。
そして。
「カップラーメン、食べたことありますか?」
「――え」
ぼくは固まる。
それからわずかに目を見張り、少しずつ、大きく、大きく――傍から見たらきっと滑稽なくらい、両の目を見開いた。
その反応で十分だったのだろう。ヘレナはそっと目を伏せると、何も言わずに踵を返し、町の反対へ歩き出す。それからはもう、一度も振り返ることはなく、ただの一度も立ち止まらなかった。