19. 頭を撫でる手
暗くて明るい、不思議な感覚に包まれる。ぼんやり寝息を聞いていた。
ぼくの寝息だ。
ぼくは寝ている。それを自覚する。なんとなしに、感覚的に、自分が眠っていることだけを心得ていた。
風の音が聞こえる。そうしながら、目の裏にはおばあちゃんの姿を見る。
畳の部屋でおばあちゃんのお腹に飛びつき、そっと頭を撫でられている。何か口を動かしているけど、なんと言っているかは分からない。窓辺の風鈴も音を立てずに揺れていた。
でも、聞こえる。風の音と水滴の落ちる音。冷たくて、どこか寂しい。
目の前の笑顔はこんなにも温かいのに。おばあちゃんの目じりに浮かぶしわがぼくは大好きなのに。
耳の奥で水滴が落ちる。その時、ざっと砂の擦れる音を聞いた。
「!」
目を剥いて飛び起きる。気づくとぼくは、洞穴の中で細身の人影を睨みつけていた。
どうやら、夢を見ながら外の音を聞いていたらしい。昨日今日は寝ている時でさえ気配に敏感になっているようだ。
でも誰だろう。ウナでもヘレナでもないように見えるけど。
声を出さず睨み続けていると、先に人影の方が口を開いた。
「……魔族」
男の声だった。人影は怯えたように逃げ出してしまう。顔をよく確かめる暇もなかった。
ぼくはしばらく呆然と洞穴の入口を見つめていた。突然のことに頭が追い付かない。
「――まずい」
呟いて、初めて危機を察知した。
*
赤みがかった岩の空を見上げ、ミィチはめいっぱい大あくびする。
「教えてくれたっていいだろう!」
そう言って横の崖に拳を打ち付けるのは町の青年。ヘレナに想いを寄せる詩人だ。
「キャシィは確かに言ったんだ! 愛する人がいるって! そうじゃなかったらキャシィは確実になびいていたのに!」
詩人はヘレナに想いを告げ、迷う素振りもなく拒絶された。以来ヘレナの「愛する人」を探し続けていたが一向に見つからないからとミィチに聞きに来たのだった。ミィチがサーネル探しに出る少し前のことである。
「キャシィ、ね」
「う、うるさいうるさい! とにかく教えてくれ! そいつはどこにいるんだ、どんな奴なんだよ!」
「聞いてどうするんだ?」
「悪い奴じゃないか確かめるだけだ! 変な男に引っかかってるならボクが……」
「この町に変な男なんているか? お前の他にさ」
「そ、それは……ってどういう意味だよ!」
ミィチは適当にあしらいながら、時折まじめな顔で詩人を見やる。それは相手にも気づかれないくらい瞬間的なもので、本気で警戒心を覗かせた時の仕草だった。
ミィチは観念したふりをしてため息をつく。
「今はいないよ」
「……どういう意味だ?」
憐れみの表情を作って見せると、詩人はそれまでとは打って変わって顔をこわばらせた。
「分かるだろ。もういないんだ」
低い声で、静かに答える。
この世界において、死というのはひどく身近だ。こんな手を使うのはミィチにとっても気分のいいものではなかったけれど、サーネルの正体を探られるよりはずっとマシだった。
「そうか……そういう、ことだったのか」
詩人は強く拳を握り、震えるように俯く。
そして強く、目を上げた。
「だったらボクが、元気づけてあげなくちゃな!」
「は?」
言うが早いか、詩人は花畑を駆けていく。その背中を目をぱちくりとして見送り、ミィチは深くため息をついたのだった。
――そして今、ミィチは孤児院のベッドの上で詩人のことを思い出していた。
「あいつ、まだヘレナにべったりだったりしないよな……?」
ヘレナには突き放せと言ってあったけれど、ちゃんとわかっているかどうか。
「いや、まさかな」
もう十日以上も経っているのだ。元気づけるといったって、いつまでもベタベタくっ付くつもりではないだろう。逆に疲れさせて嫌われるだけだ。そのくらいのことは彼も分かっているはずだ。
冷や汗をだらだら流しながらミィチは頷き、寝た。
*
ぼくは洞穴を飛び出す。人影を追い、周囲に視線を走らせる。
今やってきたのは孤児院の人じゃなかった。ということは、サーネルの味方でもない。しかも正体に気づかれている。
このままではまずい。町の人たちに、魔族が来たと知られてしまう。
でもどうして? ここに人が来ることはまずないと聞いていたのに。
頬を両手で挟むように叩く。考えるより先に動く時だ。ぼくは必死に人影を探した。
いた。人影――細身の男はまだ坂道を駆け下りている。彼を止めればひとまず事態は収められる。ただ走っているだけの人になら追いつくのは容易い。
ぼくは大きく一歩踏み出し、男めがけて跳び――。
「……え?」
そして見た。
男の走る先に、二十を超えるであろう人々が待ち受けるのを。
宝石を構え、光を放ち、迎撃の準備を整えているのを。
ああ……またこれか。瞬間的にぼくは悟る。
やっぱりウナたちも、ぼくを受け入れてくれたわけじゃなかったんだ。
サーネルと打ち解けたなんて言ってたけど、それもきっと全部嘘だ。本当は今でも怯えていて、こうして罠にはめる機会を待っていたんだ。
分かっていたことだ。警戒もしていた。がっかりすることも悲しむこともない。傷つく理由がぼくにはないから。
しょうがない。まだ安静にさせていたかったけど、洞穴で寝ているプリーナたちを連れて、この町を出よう。大岩とはお別れだ。
「殺せ!」
人々が叫ぶ。直後足元から岩の槍が飛び出した。寸でのところで躱し、ぼくは崖を飛び降りる。
まずは彼らの足止めをしないと。何もせず逃げ出すのは危険すぎる。
けど、まだ策がなかった。
ここではツワードたちにやった手は使えない。重さをなくした腕の群れで飲み込んでも、屋外では簡単に跳ねのけられてしまう。あの時は腕の逃げ場のない室内だったからこそ自由を奪えたのだ。
かと言って大質量のままに潰してしまうわけにも……。
人々が駆け迫る。鉄や岩の塊を生み出し、こちらへ向け一斉に射出する。むき出しの岩の地面に降り立ち、ぼくは掌を構え防御の準備をした。
しかして魔術の塊が降り注ぐ。
瞬間、ぼくの体が何かに引っ張られた。
「あんたたち、やめないかい!」
声が響く。ぴたりと攻撃の手がやんだ。
ぼくが引き寄せられた先にいたのは、ミィチとウナだった。ぼくの体は何度か地面をはねて回転し、ようやく止まる。
「それはわしの客だ。手を出すことは許さないよ」
「ウナさん! どういうことですか!」
「なんであなたが魔族を庇うんだ!」
「黙りな! まだ暴れる気なら二度と治療してやらないよ!」
水をかけるようにぴしゃりと言うと、人々はびくりと固まった。
……なんで。
ぼくはウナの顔を見上げる。なんで彼女が助けに来るんだろう。罠にかけられたんじゃなかったのか?
それなら何のためにプリーナを治療して、ぼくを油断させて……。
吊り上げた目をふと緩め、ウナは微笑む。
「心配しなくても町を壊される心配はないさね。何せこの坊やは二年も前からここに通い詰めてるんだからねえ」
「二年っ?」
「なんで今まで黙っ――」
「む?」
ぎろりとウナに睨みつけられ、人々はまた黙った。
「こいつは大丈夫だ。オレも保証するよ」
ミィチがいう。
「もっとも、町の救世主を信じられないっていうなら話は別だけどな」
ヘレナのことを持ち出されるとますます人々の顔色は悪くなり、それ以上追及する者は現れなかった。
「……あ、あとできっちり説明はしてもらいますよ」
「分かってるさ、うるさい男どもだねえ。さあ帰りな。これから子どもたちにごはんを作るんだよ」
ウナがしっしっと手で払うと、人々はすごすごと退散していく。その様子を見ながらぼくは立ち上がった。
本当に助かってしまうなんて。
信じて、いいのかな? この人たちのこと。
ふらりと体が揺れた。急に力が抜け、立ったばかりで座り込んでしまう。
あれ……どうしてこんなに体が重いんだろう。それに、眠気も。
いつの間に、こんなに疲れていたんだろうか。魔族の体は疲れ知らずなはずなのに。
「こりゃあずいぶん……あんたも酷いもんだねえ」
ウナがいった。ぼくの頭に、手が置かれる。
「え……?」
「気が休まることがずっとなかったんだろう? あんたはここへ来たばかりの子どもたちと同じだよ。どんなに気楽そうにしてる時でも、いつも何かに怯えて警戒してるんだ」
頭を撫でられる。そっと、優しく。
顔を上げると、ウナは険しく眉根を寄せていた。そこにあるのは笑顔ではないけど、怒りや憎しみでは決してない。悲しそうに、涙をこらえるように――まるでぼくの送ってきた日々を想い、苦しんでくれているかのように。彼女は優しく、ぼくの頭を撫で続ける。
それは、庇ってもらった事実よりも、味方だという言葉よりもずっと明確で。
彼女の痛みが、心が伝わってきて――熱く、胸に染みてくる。
胸が、痛い。目の奥がじわりと熱くなる。口元が震えだして、何故か呼吸が苦しくなった。
「辛かったろうねえ、苦しかっただろう。わしにはどうしてやることもできない。けどねえ、この町にいる間だけは、わしが庇っていてやるからねえ」
何も感じていなかったのに。そのはずなのに。
胸が強く痛んで。声が漏れるほど苦しくて。
頬を、涙が流れていた。
ああ……この人は本当に、ぼくを受け入れてくれるんだ。
赤い岩に覆われた大空の下で、ぼくはようやく、彼女を信じることができたのだった。