16. 舐めないで
「出口が見えたな。いいか、人目がないか慎重に確認しろよ。出たらすぐ小川に降りろ」
洞窟の中を歩いていた。ミィチの指示を聞きながら迷いなく道を進む。洞窟から顔を出し、広がる花畑に人がいないか念入りに確かめた。
「大丈夫、いないみたい」
「よし」
花畑の端、一段低くなった地面を流れる小川に降りる。身を隠しながら歩き出した。
「プリーナ。もう少しだからね」
ミィチといっしょにティティの上で寝ている彼女に呼びかける。ずいぶん待たせてしまった。
「まだ気を抜くなよ。こんな場所だ、よそ者なんてまず来ない。知らない顔の奴を見たらまず魔族の可能性を疑う。変装はほぼ無意味と思った方がいいぜ」
ミィチによれば、サーネルはここ二年ほどこの地底に通っていたらしい。その際一部の人間からは安全を認められ滞在を許された。けどそれはあくまで「一部」であって、全ての人間というわけではないのだった。
これまでのことを思えば理解者が一人いるだけでも十分。加えてプリーナの安全が確保できればこれ以上ありがたいことはない。
最悪プリーナは見つかってもいいようだ。外を流れる噂なんて聞こえてこないから、プリーナの正体がばれることもないとのこと。
「どの道、孤児院に来るやつなんて決まった人間ばかりだけどな。前からサーネルを知ってたやつだけだ」
「孤児院?」
「ああ、言ってなかったか。これから向かう場所だよ」
ぼくは目をぱちくりとする。もっと人の寄り付きにくい、例えば町のはずれに隠れるように建つ小屋とか、そんな場所を想像していた。
でもそれは半分正解で、孤児院は町のはずれ、丘を越えたさらに奥に建っていた。
「ここが――」
予想と違うのは場所のわりに景色が明るいことだろうか。丘と崖に挟まれたそこには、またしても色とりどりの花畑が広がり、赤みを帯びた石造りの建物を囲んでいる。
「ああ! お客さんだぁ!」
孤児院から小さな子どもたちが駆け出てくる。たちまち八人がかりで囲まれ、ぼくは目を丸くした。
「あれぇ! サーネル!」
「ミィチも! おかえりー!」
「おう。ってこら、離せ離せ。病人なんだ」
元気に飛びつかれ、ララとリリ――魔族の子どもたちを思い出す。ちくりと痛む胸をごまかすように、ぼくはあいまいに笑った。
「違うんだ、ぼくはサーネルじゃ」
「ぼくだってー! 変なのー!」
「ん? なんだお前、やっぱりサーネルじゃないのか」
「えっ、いや今のはそういう意味じゃなくてっ」
ぼくはあたふた弁解しながら、頭の片隅で孤児院に注意を向ける。
あの中に例の少女もいるのだろうか。
魔王の息子が大切にしていたヘレナという少女……気になる。魔王の息子を変えたかもしれない人なのだ。天の使いを思わせる聖女のような人に違いない。
なんてことを思っていると、建物の中からもう一つ、子どもたちより少し大きな人影が現れる。
「サーネル……様?」
ぼくははっと目を向けた。鮮やかな赤の瞳と視線が合う。
そこにいたのは、激しく燃え上がるような赤い髪をした少女だった。真っ赤な髪と瞳、それに大岩の光を受けて肌も赤みを帯びて見える。これでもかというほど赤いのに、暑苦しいというよりはどこか涼しげな、ふしぎな空気の少女だ。
もしかして、この人がヘレ――。
ぺたり。
――ナ?
一瞬だった。気づくと頬をぺたぺたと触られ、くんくんと臭いを嗅がれていた。鼻先がぶつかるほど顔を近づけられ、まじまじと目を見つめられる。その間もひたすら無言で頬をすりすり撫でられる。
声を出す余裕もなくされるがままになっていると、少女はふいに舌を出し――。
べろりと、ぼくの首筋を舐めた。
ぎゃ、ぎやああああ!
心の中で叫ぶ。驚きすぎて動けない。
違う、絶対違う! この人はヘレナじゃない!
と、そこで初めて少女の動きが止まった。
「あなたは……誰……?」
こっちの台詞だよっ。
「あれ、でもサーネル様だ。おかしいな。どうして」
少女はきょとんとして、はっと閃いたように目を見開く。
って、舐めないで! 舐め直さないで!
「でも肌の味はサーネル様なんです。なのに汗が。なんだかちょっと違ってて、でも……」
ぎやああああああ!
それから舐められること一分。ようやく納得したか、少女はぼくから遠ざかった。
今度は何故か宝石を構えられてしまっているけど。
「あなた、サーネル様のお体に入ったんですかっ」
なんで今ので分かるの?
隣でミィチがくつくつと堪えるように笑った。
「さすがにヘレナは話が早いな」
「……え?」
ヘレナ? この人が?
ぼくの視線に気づき、ミィチは愉快そうにうなずいた。
「ああ。そいつがヘレナだ。驚いただろ」
「じゃあ、本当に」
まさか、いきなり顔を舐め回してくるなんて……。
「ミ、ミィチ、サーネル様がっ」
「後で話すよ。先に中に入れてくれ。病人がいるんだ、オレもだけど」
「う……うん」
「病人だ病人だぁ!」
「寝かせろ寝かせろー!」
花畑を子どもたちが駆けていく。ミィチは苦笑し、ティティから降りた。
「オレは歩ける。プリーナはお前が運べ」
ミィチはそういって、ふらふらと建物へ向かう。言われるまでもなく、ぼくはプリーナを抱えた。
ヘレナは困惑ぎみにぼくたちを見比べていたけど、やがて孤児院へ入っていった。
その場にもう一人の女性が現れたのは、その直後のことだった。
「あら、帰ってきたのかい? ……その子は?」
ややしゃがれたその声に、ぼくは孤児院の主人が帰ってきたのかと思った。でも振り返って相手の顔を見ると、そんな思考は全てどこかへ消え去ってしまった。女性の顔が、ぼくにとってあまりに衝撃的だったから。
おばあちゃんに似ている――その女性に対してぼくが抱いた印象は、それが全てだった。