14. 矢が落ちる
主従関係というのは、ある種絶対的だ。生活のあらゆる場面で露わになり、頭を離れる瞬間はほとんどない。
けれどエラリアにとっては些細なことだった。それがなくとも彼女は、仕える人を変えるつもりなどなかったから。
それが燃える恋のようなものなのか、やわらかな家族愛に類するのか、はたまた主従でのみ生まれる特殊な感情なのか、彼女には分からない。さしたる問題ではなかった。まっすぐな思いでさえあれば、気持ちの正体を知る必要などないと信じていたから。
でも――。
足元で、びちゃりと嫌な音がした。
エラリアははっとする。地面に落ちた角のカップから、湯気の立った蜜酒がこぼれていた。
「ああっ、あたし、また! ごめんなさいっ、今すぐ新しいのを持ってきます!」
町で市場の開かれたある日のこと。いつものように店を見て回りたいと言い出したプリーナについて来ていた。ところがそこで、彼女のために買った蜜酒をこぼしてしまったのだ。
近くの水路でカップを洗い、あらためて蜜酒を注いでもらう。そこから戻るとき、またしても落っことしそうになった。
「お、お待たせしましたっ」
「ありがとう。でもいいのよ、そんなに慌てなくても」
「ですがっ……はい。ごめんなさい」
ふいにエラリアは押し黙り、自身の手を握りこむ。活気あふれる市場の中、一人だけ深く俯いて目に涙をにじませた。
「プリーナ様。あたし、考えてたんですけど」
「えっ? ど、どうしたの? どこかぶつけてしまった」
「そうじゃなくてっ、その……」
ますます深く下を向き、わずかに身を震わせる。それを見てプリーナは口を閉じ、エラリアが話し出すのを待ってくれた。
なんて優しい人なのだろうと赤毛の少女はいつも思う。動きの遅い彼女の話をまともに聞いてくれるのは、同い年の使用人を含めてさえもプリーナとロワーフだけだった。
「ごめんなさい、あたし……いっつもこんなことばかりで……。あたし、プリーナ様にこれ以上ご迷惑をおかけしたくないです。だから……」
勇気を振り絞って顔を上げる。
すると、
「これ、持っていて」
「へっ? は、はいっ」
蜜酒の入ったカップを持たされ、目をぱちくりとする。
その頬を両手で挟まれた。
「愛しているの」
「……え」
真摯な眼差しでプリーナはいった。二束のお下げをわずかに揺らし、軽く背伸びする。
額に唇が触れた。
「プリーナ様っ?」
「エラリア、あなたは知るべきだわ。わたしがどれだけあなたを想っているか」
眼差しのまっすぐさは変わらない。エラリアには黙るしかなかった。
「ねえ、お願い。どうか悲しいことを言わないで。あなたの代わりを用意されるくらいなら、蜜酒を一生飲めなくなる方がずっと良いもの。大切なお母様の短剣だって迷わず手放してみせるわ」
エラリアは口元を震わせる。その瞳から、涙の線が流れた。
「……ごめんなさい」
その後は大泣きだった。一人で思い詰め閉じ込めてきた気持ちが爆発し、止められなくなってしまった。
この記憶は、きっとプリーナにとって特別なものではない。彼女は当たり前のようにエラリアを愛してくれた。だから嬉しく、誇りに思うのだ。
でも――。
プリーナがマイスと名乗る騎士と共に旅立った後。エラリアたちは聞いたのだった。
彼女がマイスを裏切ったと。
プリーナはあろうことか、実の母を殺めた魔族を庇い、その仲間となった。それはすなわち、マリターニュを裏切ったことであるとも言えた。単なる魔族を庇うこととは意味が全く異なるのだ。
「……そうか」
食事の席で報せを耳にしたロワーフは、たったそれだけ呟いたという。
その心中を聞かされた者は一人もいない。けれど誰もが痛いほど、領主の気持ちを察していた。
もしもそれが許されるのなら、たとえ妻の仇を迎え入れてでもプリーナを取り戻したい。血のつながったたった一人の娘を、何を犠牲にしてでも抱きしめてやりたい。
領主はそう思っているだろうと、町の誰もが考える。
そしてそれは、きっと正しい。
*
高く築かれた石壁の上で、闇が揺れる。
「――プリーナ様?」
わずか前まで仕えていた少女の名前を耳にして、エラリアは細い目をめいっぱいに見開いた。
プリーナに何かがあった。だから人々の手を借りに来た。サーネルはそう言っている。
プリーナを助けてほしいと、彼は言ったのだ。
詳しい事情は分からない。もっと話を聞くべきなのかもしれない。それでも。
考えるより先にエラリアは踏み出していた。
助けたい。どんな事情であれ、プリーナの危機なら助けたい。心の底から少女は思った。無意識のうちに緑の宝石を光らせる。
そして飛び上がろうとした時。
「従うと思うか!」
背後から声が上がった。
騎士の一人だ。剣と宝石のついた鎧を装備し、騎士が駆けつけてきた。
「プリーナ様はマリターニュを裏切られた! 助ける道理はない!」
「――え」
「そうだ! 裏切り者は去れ!」
「ちょっとでも顔を出してみろ! 炎を見舞ってやる!」
人ごみから次々と怒号が上がる。恐ろしい怒りの渦に、エラリアのひざはたちまち震えてしまった。
どうして、こんなに……。プリーナは町の皆から愛されていたはずなのに。
だからこそ、なのだろうか。それともロワーフの心労を思ってのことか。エラリアは混乱した。
「それよりもお前だ、サーネル! アミーシャ様の仇、今こそ討たせてもらうぞ!」
騎士が魔術の炎を放つ。それはサーネルの手で簡単に防がれてしまったけれど、声を上げていた人々に攻撃を促す狼煙となった。
間断なく打ち出される無数の攻撃に、エラリアは後ずさる。それでも首を振って立ち止まり、出ていこうとした瞬間ひときわ大きな怒号を聞いてまた足がすくむ。それを繰り返すうち、サーネルが再び頭を下げた。
「どうか頼む! 命がかかっているのだ! このままではプリーナは、死んでしまうかもしれない!」
その言葉で、ほんのわずかな時攻撃の手が止まる。エラリアは口元を覆った。
「誰でもいい、医者を……治療の心得のある者を連れてきてほしい」
誰も答えない。代わりに、誰も怒りの声をあげなくなった。
静寂がその場を支配する。サーネルは人々の答えを待っていた。
「残念だが、それはできない」
口火を切り、もう一人の騎士が現れる。兜からブロンドの髪を覗かせるその男は、マリターニュで最も信頼された騎士だった。
「そうだ……もうプリーナは敵だ!」
「アミーシャ様の死を忘れた裏切り者よ!」
口々に上がる答えに、石壁の上の影はしばし動きを止める。
それから、絞り出すように言った。
「――そうか。邪魔をした」
壁の向こうへ姿を消す。はっとした騎士は新しく作られた正門を開けさせ、兵士と共に討ちに出た。
エラリアはそれを眺めながら、ぼんやりと宝石を握る。
「プリーナ様が……亡くなる?」
呟き、ぶるりと震える。そんなことは――それだけは、あってはならない!
そうだ、ロワーフはこれを望んでいただろうか。否。あり得ない。
思い出すのは父に飛びつくプリーナの姿。旅から戻るたび「お父様!」と飛び切りの笑顔を浮かべ、小さな子どものように父に抱き着くのだ。
ロワーフは領主として、娘の立ち振る舞いには気を配っている。けれど、その時だけは必ず抱きしめ返すのだ。そうして毎回しばらくすると、思い出したように咳払いをして、軽く頭を撫でる。
その光景が答えだ。エラリアは確信した。
宝石を光らせ、ふわりと浮き上がる。石壁を越え、草原を見下ろした。走っていくサーネル、それを追う兵士たちを見つける。
「待って。待ってください!」
エラリアは叫ぶ。プリーナを助けたい。その一心で。
兵士たちの上を通り過ぎ、声の届くであろう距離までサーネルに追いつく。そして再び呼び止めると、一瞬、サーネルが止まったように見えた。
「あたしが! あたしがプリーナ様を助けます! だから!」
めいっぱいの力をこめ、叫ぶ。サーネルが振り返る。彼女の声は、確かに届いていた。
しかし。
矢が落ちた。エラリアとサーネルの間、草原の上に。まるで巨大な石壁のように、二人の間に突き立った。
「それは許さぬ」
その声にエラリアは固まる。振り向くのにひどく時間を要した。
「エラリアよ、戻れ。魔族に手を貸すことは、このロワーフ・ワマーニュが許さぬ」
サーネルを追う兵士たちの先頭に、いつの間にか領主がいた。馬上からエラリアを見下ろし、無表情に弓を下ろす。
「ロワーフ……様? で、ですがっ、プリーナ様が!」
「知った上で言っているのだ」
冷たい目をした領主は、事も無げに答えた。
「魔族と共にあるならば誰であろうと魔族と同じこと。プリーナはもはや、我がマリターニュの民などではない!」
目を見張り、どこまでも冷酷なその顔を見つめる。
脳裏によみがえるのは、かつての父娘の姿。それから、悲しみをひた隠す領主の姿。
エラリアは膝をつき、泣き出した。大声で、自分が分からなくなるくらい激しく。
涙にゆがむ視界の中で、サーネルは身をひるがえす。それを追う領主たちの背中は、どうしても見ることができなかった。