10. 深い噛み痕
鬱蒼と生い茂った木々が視界の端を高速で流れていく。
ぼくはティティの背中に乗り、森の中を移動していた。後ろではプリーナが眠っている。落っこちてしまわないよう、わき腹から生やした腕で抱きかかえた状態だ。繊細な金色のお下げは完全にほどけ、吹き付ける風に激しくなびいていた。
ツワードたちの拠点を飛び出しティティを見つけると、ぼくはひとまずその場を離れることにした。町からの追っ手がいつ来てもおかしくないからだ。ノエリスの粘着液の魔術はそれほど長くは保たないという。「分」という概念がないため正確な時間は分からないけど、少なくとも一時間以上効果が続くようなことはなさそうだった。
それに、留まる理由はない。彼らとはお別れだ。
「ぐえー!」
ティティがいきなり奇声を上げる。意味はないらしい。木々の間を器用に進みつつ、大きくしゃくれたクチバシで時折飛び出す羽虫や動く植物を食らっていった。お腹を満たしながら走り続けるたくましさは見習いたいところだ。
「んん……」
後ろでプリーナが声を漏らす。横目で振り返ると、寝ぼけ眼で視線を返してくる。
「サー……ネル?」
「起きた?」
わずかに息を乱しながら笑いかける。
プリーナはとろんとした表情で流れる景色に見をやると、はっと目を見開いた。
「サーネル、逃げて! 近くに何かが……あら? わたし、どうして」
「もう片付いたよ。ノエリスもツワードも、皆あの穴の中に置いてきた」
「どういう……こと?」
「君を襲ったのはノエリスなんだ。ぼくを殺すのに邪魔だったからあらかじめ意識を奪っておいたんだよ」
「待って、話が飛びすぎていて……」
プリーナの眩暈をこらえるような仕草に、ぼくは一度呼吸を落ち着ける。多少時間は経ったはずだけど、動揺が抜け切らないらしい。
ぼくは自分の見たもの聞いたものについて順を追って話した。拠点の中で罠にかけられたこと、サーネルこそがツワードたちの仇敵であったこと、魔術による拷問のこと、気絶したプリーナをノエリスが運んできたこと、復讐のためにできた隙のおかげで逃げ出せたこと。
「あなた一人を殺めるためだけに徒党を組んでいたというの? まさか、あの人たち全員?」
ぼくは無言をもって肯定する。プリーナは嘆息を漏らすと、はっとしたように目を上げた。
「でも、おかしいわ! 町ではあなたを助けたのに!」
「簡単に死なせたくなかったんだよ。ぼくのことを、それほどまでに憎んでたんだ」
「……まただわ」
今にも泣きだしそうな震えた声で彼女はつぶやく。
「また、あなたは仇にされるのね。サーネルが人を殺めるはずないのに。ああ、なんて酷い……こんな仕打ちはあんまりだわ! 襲われた人々を助けて、魔王を倒すために声をあげて、その見返りがこんな……。ねえ、サーネル。人の手を借りるのは諦めましょう。これ以上はあなたが傷つくだけよ!」
プリーナはついに涙を目に浮かべた。ぼくは視線をそらし、前を向く。そろそろそんなことを言われるんじゃないかと思っていた。
「まだだよ。できることは残ってる。ここで止まるわけにはいかない」
「でも!」
「ありがとう、プリーナ。けど平気だよ。元々、皆に信じてもらったり、愛してもらったりなんてことは望んでないんだ。ぼくには傷つく理由がない」
そう、ぼくは自分を許すために戦っている。自分は生きていていいのだと、強く信じるために立ち上がったんだ。信頼や感謝なんて、もちろんされたら嬉しいけど、こっちから望むべきものじゃない。だから、こんなことで傷つくのはおかしな話なんだ。
「だけど、そうだね。今のやり方がよくないのは確かかもしれない。魔族を憎む人からしたら騙し討ちし放題だし、そうじゃなくても共闘しようなんて思えるはずがないんだ。彼らの方から手を伸ばしてもらおうなんて考えが甘かった。これからはもうちょっと……」
ふいに全身の筋肉が軋むように痛み出し、声が詰まった。
「ね、ねえ。あなた、汗がひどいわ。それに息も」
彼女の指摘の通りだった。さっきから汗が止まらないし、呼吸もうまくいかない。乱れに乱れた息は徐々に弾むようになって、喉がひゅうひゅうと音を立て始める。ぐらりと体が揺れ、ティティの頭に寄り掛かった。
「サーネル!」
「さっきの……ダメージが……」
周りの音が遠ざかる。どうやら今度は、ぼくが気を失う番らしい。
魔術で氷漬けにされた時、体がかなり損傷していたのだ。見た目には分かりづらいけど、ここに来るまで本当は何度も倒れそうになっていた。
何度も呼びかけてくるプリーナの声を遠くに聞き、ぼくは意識を――。
それからどのくらい経っただろう。
薄っすらと目を開けると、真っ暗な視界の向こうに知らない天井があった。驚きはしない。いつものことだ。
ぼんやりと熱を感じる。ぼくの手を誰かが握ってくれていた。
見なくても分かる。この手はプリーナだ。
起き上がろうとしてぼくは呻いた。全身を鋭い痛みが突き抜ける。それで気を失う前のことを思い出す。
「サーネル! よかった、起きたのね!」
「ごめん。心配かけて」
「本当だわ! 急に倒れてしまうし、寝ている間もずっと苦しそうだし……このまま目を覚まさないんじゃないかって……」
大げさ、ではなかったのだろう。腕や足がまだ時々痙攣する。だいぶ長く気を失ったみたいなのにこの調子なら、眠っている時はもっと酷かったんじゃないだろうか。
彼女はもう町には帰れない。ぼくがいなくなったら一人になってしまう。ひどく心細い思いをさせたに違いない。
油断や慢心は捨てなければと、固く誓った。
「……ごめん。本当に」
「もういいわ、目を覚ましてくれたんですもの。それよりお腹は空いていないかしら? 干したクシンが残っていたの。持ち切れなかったか忘れて行ったのね」
クシン? 魚、だったっけ?
忘れていったということは、ここは壊された家とかではないらしい。彼女の言い方からすると、移民でみんな出払ったのかもしれない。
でも食欲は出ない。ゆるく首を振った。その動きでまた神経に針を通されたような痛みが走る。
「そう……。でも、お水くらいは飲んだ方がいいわ」
背中に手を回され、ゆっくり身を起こされる。水筒を唇にあてがわれ、少しずつ水が口に入る。
「ありがとう。楽になったよ」
「うそ。まだ息が荒いわ。無理はしなくていいの」
「うっ……ごめん」
再び横になる。さっきより微かに部屋の中が明るくなってきた。まだ薄暗いというにも及ばない程度だけど。夜明けが近いのかもしれない。
「ずっと起きてたんだよね。ぼくはもう大丈夫だから」
「いいえ、何度かうとうとしてしまったわ。まだ平気よ」
「うそ付いたって分かるよ、そんな眠たそうにしてたら。無理しないで、ゆっくり休んで」
「……ごめんなさい」
繰り返しのようなやり取りに気づき、一瞬、二人して面食らう。ぼくたちは顔を合わせてくすりと笑った。
隣でプリーナが横になる。気のせいか、彼女の息が少し乱れているように聞こえた。
「ねえ、サーネル」
「何?」
「ツワードたちは、どうなったの?」
意味はすぐに分かった。罠にかけられて逃げ出してきたのだ。ツワードたちと交戦することになってもおかしくはなかった。
でも、大丈夫。
「みんな無事だよ。町の兵士と鉢合わせてたらどうなるか分からないけどね」
本当だった。彼らの拠点を去る時、ぼくは大量に生やした腕で彼らを飲み込んだけど、押し潰してはいない。
あの時ぼくは、体の重みを魔術で減らして、棉のように軽くなった腕を使っていた。あれは命を奪うためではなく、拠点内を埋め尽くして身動きを取れなくするために放ったのだ。重さがなければ威力は限りなく落とせるし、腕が脆くなったりはしないから簡単には壊せない。時間が経って腕が干からびてきたら動けるようになる。そういう仕組みだった。
「やっぱり、あなたは優しいのね。あなたが人を殺めるところなんて絶対に想像できない。なのにどうしてあなたに、恨みばかり集まらなくてはいけないのかしら」
ぼくは板張りの天井を見つめる。話すべきだろうかと一瞬考えた。プリーナは知らないのだ、ぼくが本当のサーネルではないということを。サーネルの過去とぼくという人格が噛み合わないのは、だから何の不思議もないことなんだ。
だけど、今はまだ話せない。ぼく自身よく分かっていないことを上手く説明できる気がしなかった。それに。
本当の自分を……ただ弱いだけの自分をちょっとでも知られるのが、なんだかとても嫌だった。やっぱりぼくは、心底自分が嫌いなんだ。そんなものを彼女に見せたくはなかった。
そうだ、勘違いしちゃいけない。慢心なんてもってのほかだ。どれだけ魔族を倒しても、それはあくまでサーネルの力。ぼく自身が強くなったわけじゃない。
魔王を倒して、世界を救って初めて、強い自分を見つけられる。そう信じたから戦い続けているんじゃないか。
だからそれまでは。自分を認められたその時までは話せない。寂しいけど、こればかりはしょうがない。
そんな風に一人で考え込んでいるうち、隣から衣擦れの音が聞こえてくるのに気付いた。何故だかプリーナがもじもじと落ち着きなく腿を擦り合わせている。息も荒いし、もしかして彼女も怪我が……と思ったところで、ようやくあることに思い至った。
失念していた。ぼくが苦しげに呻いているのを、彼女はずっと看てくれていたのだ。
「ごめんね、気づけなくて」
無理矢理に起き上がり、彼女の頬に手を当てる。そう。苦しんでいる者をじっと見ているしかできないなんて、プリーナにとっては生殺しでしかない。
指摘すると、途端に彼女の息が艶っぽくなった。抑えきれないように飛び起き、ぼくを押し倒す。でも、そこで金縛りにあったように動かなくなった。
両腕を立てたまま、プリーナは必死に衝動を抑えていた。
「ぼくの前では我慢しなくていいんだよ」
「ダメ……ダメよ。あなたを傷つけるのは嫌」
「平気だよ。ちょっとの傷ならすぐに治るから」
「ダメ! 絶対に嫌よ!」
「いいから」
彼女はふるふると首を振る。その背中に手を回し、ぼくは抱き寄せた。
「プリーナのこと、ちゃんと受け入れたいんだ。魔術を使われたら困るけど、それ以外なら平気だから」
プリーナの熱を感じる。熱い息が耳にかかってくすぐったい。やがて彼女は耐えられなくなったように、一言だけ呟いた。
「じゃあ……噛ませて」
頷くより先に、柔らかな唇が肩に触れる。
確認するように、一度だけ彼女は顔を上げた。
「いいよ。噛んで」
言った直後、硬い歯が肩を這う。そして――。
「んっ……ぐ……!」
間違えて声を押し殺してしまったけど、どんどん歯が食い込んできて、痛がろうとしなくても自然と声が大きくなる。
それから気が済むまで――たっぷり十分くらいは噛まれ続けて、ようやく解放された。さすがに疲れてぐったりと両腕を投げ出した。
「ああ……ごめんなさい。わたし」
「ううん、嬉しかったよ」
部屋はまだ薄暗い。でも互いの顔は見えるようになっていた。だから伝わっているはずだ。これが本心からの言葉ということは。ぼくは再び起き上がり、プリーナと抱きしめあった。
そんな光景を他人に見られているなんて、少しも考えないで。
「ずいぶん変わった趣味してるよな、お前ら」
思考が固まる。体も固まる。プリーナも同じく。
「追いかけてくるの大変だったんだぜ。おかげで昨日から寝てないんだ」
聞き覚えのある声がする。少年の、けれど大人びた落ち着きのある声。
恐る恐る視線を向けると、そこにはやはり見覚えのある姿があった。背の低い小動物のような――にもかかわらず、自信に満ち溢れて堂々とした立ち振る舞い。顔立ちはうさぎを思わせ、瞳は冷め切ったような灰色をしている。
置いてきたはずだった。彼らの拠点に閉じ込めたはずだった。
でも、そうだ。彼は――彼だけは、あの場にいなかった。彼だけは、追ってくることができたんだ。
ぼくは構える。プリーナも短剣を取り出す。その少年はにやりと笑った。
部屋の入口に、ツワードたちの仲間の一人――ミィチが立っていた。