9. 祝福する魔法陣
塔のような形をした赤い岩を見上げる。ようやくすぐそばまでたどり着いた。
傍らにはもう一つ大岩があった。そこにツワードの仲間の一人が近づき、ローブの内で宝石を光らせる。相撲でもするみたいに踏ん張ると、岩を持ち上げ真横にずらしてみせた。
「ここか」
岩の乗っていた場所には大きな穴が隠されていた。底の深さは四、五メートルほど。さらにそこから横へ向かって通路が伸びているようだ。てっぺんから縄が垂らされていて、それで上り下りするらしい。
「追っ手があった以上、拠点の場所は移さなければなりません。この中には旅の資金や保存食などを保管してあります。ここを発つ前に、それらを運び出したいのです」
ツワードは言いながら穴の底へ降りていく。中に用意されていた松明に火をつけ、こちらへ頷いてみせた。ローブを着た仲間たちがそれに続き、ツワード以外の彼らはさっさと先に行ってしまう。
上にはぼくとプリーナ、ノエリスにミィチ、それとティティが残った。次に降りたのはぼく。プリーナを待つつもりでいたら、先に行こうとツワードに視線で促された。頷いて彼とともに歩き出す。彼女たちもすぐに追いつくだろう。
地下通路を進む。思ったよりも広い。穴の形もきれいな円になっていて、明らかに人工的に作られたトンネルであった。この様子なら拠点を移すのは難しくないだろう。
「サーネル様。先ほどのお話ですが、魔王になるつもりはないというのは」
ツワードがどこか言いづらそうに切り出す。ぼくは前を向いたまま答えた。
「真だ。信じられぬかも知れぬが」
「ではあなたは……人々を救うためだけに、戦っておられるのですか?」
「形の上では、そうなるであろうな」
ツワードは黙り込む。沈黙の中、しばらくトンネルを進み続ける。
途中、彼がひどく小さな声で呟くのを聞いた。
「……そんなことは、認められない…………」
声から滲む色の中に憎悪のようなものを感じ、ぼくは視線だけを隣に向ける。ローブの袖から覗く手が、強く握りしめられているのを見た。
「ところで、サーネル様」
けど、ぼくがはっきりと振り向いた時、ツワードの顔には今まで通りの芝居がかった表情が現れていた。
「ヒサーチュという町をご存知ですか」
「いや、知らぬな」
「そうですか。やはり」
トンネルの突き当りに至り、立ち止まる。左の壁に布がかけられていて、その先に部屋か通路が続いているようだ。
布を押しのける前にと、ツワードの表情を確かめる。「やはり」と言った彼の声に、ただならぬ気配を感じたから。
心からの安堵や押し殺された怒り、破裂寸前の歓喜――様々な感情がないまぜになって、今まさに解き放されようとしている。
ぞっとして後ずさり、ぼくは初めて背後の気配に気づいた。
「聞きましたね、あなたたち」
「はい。はっきりと」
黒いローブの者が二人、手を伸ばせば届く距離に立っていた。
「何だというのだ、ヒサーチュという町に何があると」
「詳しいお話は後ほど。まずは先へお進みください」
「く……」
ぼくは彼らから後ずさるような形で布に近づき、押しのける。その先にだだっ広い空間が広がるのを見ると同時に、息を飲んだ。
足元に、魔法陣があったから。
「貴様ら!」
察するべきだった。プリーナと遠ざけられた時点で。
彼らの狙いは――ぼくだ。
「今です、皆さん!」
ツワードの声で、まずそばにいた二人がぼくを突き飛ばす。すさまじい腕力に逆らえず大きく転ばされ、魔法陣の上に尻もちをついた。そこにはさらに三人が待機していて、魔術を放つ準備をしていた。
魔法陣が光りだす。銀色の輝きに身を包まれ――異常なまでの冷気に抱き込まれた。
まずいと焦ったぼくの額を固く鋭いものが貫く。少し離れた場所から弓を放たれたらしかった。
ただの弓なら傷はすぐ消える。でも、頭に刺さればほんの一瞬、意識が薄くなる。
ぼくが再び窮地を知った時、既に体のほとんどは厚い氷に覆われていた。
「こ、れは……」
「先ほど尋ねたヒサーチュ。あれはあなたが壊した町のことですよ、サーネル。そして、私やノエリスが生まれ育った土地でもあります」
全身の熱が奪われる。脳が危険信号を放っている。生きるための力が、瞬く間に失われていく。
「あなたの善意は偽物だ。奪ってきた命の重みも知らない者に、この世界を救わせるわけにはいかない!」
まるで舞台上の台詞のような言葉だ。だがこれは演技ではない。
まるで観客たちに見せつけるような、疑う余地もない怒りの発露だ。だがこれは演技ではない。
ツワードは今、芝居がかった曲者の仮面を取り払い、あふれ出す激情をもって宣戦布告したのだった。
*
長かった。赤く燃えた町の光景を目の裏に浮かべ、ツワードは思う。
まぶたを開けると、そこには確かに仇敵がいる。魔法陣の上で尻もちをついたまま、首から下の全てを氷漬けにされていた。
人のような姿をしながら、肌は死体のように青ざめている。勇ましく切れ長の眼、真っ白で芯の通った髪、ぴんと張った長い耳。全てうわさの通りだ。
何もかもを失ったあの日からずっと追い続けてきた仇敵が、ツワードの眼前で怯えた顔を晒していた。
その額に、触れる。
「私の魔術は二つあります。一つは煙を出す魔術、もう一つは先ほど森でお見せしたものです。彼にはショックを与えて意識を奪うために使いましたが、あれは本来の用途ではありません」
「があああああっ?」
サーネルが反射のように唐突に叫びだす。ツワードが魔術を使い始めたからだ。
「暖かさ、物に触れた感触、快楽、痛み――私の知るありとあらゆる感覚を、より強く鮮烈なものとして送り込める。それが私の力です」
当然、サーネルに与えるのは痛み。これは謂わば、心を折るための魔術だ。
町でさっさと殺してしまわなかったのはこれが理由。死ぬより強烈な苦痛を、より長くよりしつこく与え続けるためだった。
「やめろおおおお!」
分厚い氷が強烈な光を放つ。激しく瞬きながら幾度となく破裂音を響かせた。
おそらくサーネルの魔術だろう。掌に触れただけで多くのものを破砕するという強力な魔術だ。
だが、分厚い氷は砕けない。それどころか傷一つ付かなかった。
「無駄ですよ。巨大な魔法陣を用いた三人がかりの魔術です、並大抵の力で砕けるものではありません」
どさり、と重たい物の落ちる音がした。後ろを振り返ると、気を失った金髪の少女とノエリスの姿があった。
「プリーナ……!」
「こっちは片付いたよ。後はゆっくり壊すだけだね」
松明に照らされた彼女の顔に先ほどまでの明るさはない。だが、これが彼女の本当の顔というわけではない。町を失うまでの彼女は、確かに道中のような明るさを持っていたのだ。
喪失が私たちを歪めた――彼は胸の内でその事実を再確認し、世界を救うとのたまった魔族へ再び痛みを与える。
サーネルが叫びを上げるたび、彼の頭ががくがくと痙攣するたび、胸のすくような思いがした。それと共に、終わりが――生きる意味を失う瞬間が迫るのを感じ、冷たい風が首筋を撫でる。
彼らの敵は魔王ではない。サーネル・デンテラージュただ一人だ。終わったからといって魔族を殺さぬわけではないだろう。まして自害など選ぶべくもない。しかし、この先には喜びのない、抜け殻のような生のみが待っていることは明白だった。
「ノエリス、お前! まさかプリーナを!」
サーネルが叫ぶ。わずかに口調が変わった。
「驚きましたね。喋る余裕が残っていたとは。もう少し感覚を強めてもよさそうだ」
「答えろ、ノエリス! 答えろよ!」
ノエリスは息をつく。冷め切った眼でサーネルを一瞥し、背を向ける。
「人間は殺さないよ。あなたと一緒にしないで」
「……そう、か」
ツワードは目を見張る。
ありえない。驚きと恐れに、後ずさりそうにさえなった。だが、退かない。魔術を使い苦痛を与え続ける。
それでもサーネルは変わらなかった。この状況で……痛みと死の恐怖で押し潰されるべき状況で、彼は少女の無事を安堵した。人の心を持たない怪物のはずなのに!
その時だ。彼の額に触れた手が突如として弾かれたのは。
サーネルの額から、腕が生えていた。
「そんな、馬鹿な。情報では肩や足からと」
仲間の一人が呟く。ツワードは弾かれたように声を飛ばした。
「氷だ! 氷で頭を凍らせ……」
しかし、その声よりも、魔法陣を囲む三人が反応するよりも速く、伸びた腕が地面に突き刺さる。
正しい模様を失った魔法陣はたちまち力を失い、サーネルを覆う氷が砕かれる。
「首だけでは何もできぬと思ったか、愚か者め。復讐がしたいのならば、初めから全てを凍らせて終わりにするべきだったのだ」
口調が戻る。それが何を意味するのか分からないまま、何故かツワードは安堵する。そのことに疑問を持ちながら、しかし考えている余裕もなく、彼はただ、迫りくるサーネルを見返す。
「欲を出した貴様たちの負けだ。――出直せ」
サーネルは言い残すと、プリーナを抱え去っていく。
「ま、待て!」
それを追おうとした次の瞬間。彼らが見たのは、視界の全てを埋め尽くすほどの、洪水のごとき腕の群れだった。