3. 山間に潜む地獄
満月を背景に山の連なりが見える。さらにそれを背景にして、数体の巨大な目玉が浮遊していた。それら全ての瞳孔を、ぼくの肩から四方八方に伸びた手がわしづかみにする。
目玉の魔族たちは必死になって暴れた。けどサーネルの腕力、握力を前に、できたのはせいぜい身じろぎ程度。その哀れな抵抗も今、終わる。
肩から伸びた計七本の腕の先で、全ての目玉が弾け飛んだ。
ぼくは敵が完全に息絶えたのを見てとると、後ろで尻もちをつく女性へ顔を向ける。
「怪我はないか」
「ひっ、ひぃぃ!」
が、声をかけた途端、裏返った声をあげ走り去っていく。
「行っちゃった」
「今回ばかりは……無理もないと思うわ」
さっきまで女性がいた、そのすぐ傍でプリーナが苦笑する。
まあ、確かに。ぼくも逆の立場なら泣き叫んで逃げていたことだろう。
「それにしても、一人で出歩くなんて」
マイスのように強いならまだしも、あまりに不用心すぎる。実際ぼくたちが見かけた時にはあの目玉たちに囲まれて捕まえられる寸前だった。
「きっと誰かの病気を治したかったのね。このあたりでは特別よく利く薬草が採れるから」
「なるほど……一応、ぼくたちも持っておく?」
「もうあるわ」
プリーナは少し離れたところで待っていたティティの近づき、首に提げた布の袋に手を入れる。
「これよ」
取り出されたのは絹糸のように滑らかな、細い草の束だった。ずっとしまわれていただろうに全く乾燥していないように見える。
「すごいね。用意してたんだ」
「当然です。マリターニュの町では簡単に買えるものですもの」
言われてみれば納得できることだ。この近くで採れ、ある程度保存も利くとなればプリーナの住んでいた町に出回るのは不思議じゃない。
何故ならここはマリターニュの領地内なのだから。
「あの人のことを言うなら、あなたもよサーネル。わざわざマリターニュに戻ってくるなんて」
「ごめん。どうしても寄っておきたい場所があって」
いや、違う。寄っておきたいじゃない。寄っておかなくちゃいけないんだ。
あそこには未だ苦しみ続けている人がいる。本格的な戦いが始まってしまう前に、どうしても蹴りを付けておく必要があった。
「それはもう分かったけれど……どこのことを言っているの?」
「もうすぐ着くよ」
ぼくは胃の奥から広がる痛みに顔を歪め、山の方を指さした。
思い出すのは目を輝かせたメニィの顔。震えあがりそうになる唇をぎゅっと噛みしめる。一度ゆっくり息を吐いてから、ぼくはひどく低い声で言うのだった。
「この辺りに地獄みたいな村があるんだ」
*
焦げた臭いのする土地を、骨と皮だけでできたような人々が震えながら耕している。
そこは山間のごく小さな村だった。空には終始魔族らしき黒い鳥たちが飛び回り、誰かが倒れそうになるたび甲高い鳴き声を上げる。
人々は泣いていた。呻いていた。老人もいれば子どももいる。恐ろしいのはその誰もが自我を失っていないこと。幾らかの村や集落を見てきたから分かるけれど、この村は苦しみの質が違う。細く長く、ゆるやかな痛みを与え続けている。心が壊れる一歩手前、そのぎりぎりを見極めて。
こうして見ると『彼』の管理能力の高さは異常だ。心も含めて生かさず殺さず。言うのは簡単だけど生半可なことじゃない。メニィによる丹念な教育のせいもあるのだろう。
『彼』は優秀だ。だからこそ、本来ならいち早く殺しておくべきだった。それなのに。
「こんな、ひどい……」
隣でプリーナが呟く。そうだ、ひどい。これはあまりに見るに堪えない。だからぼくは情けなくも逃げ出してしまった。
そう。この山間の村で、ぼくは初めて魔族の真の醜さを知ったのだった。
「兄貴ィ! 来てくれたんですかい!」
目を剥く。視界の端に、まんまるとした巨大な影が映った。
「……ボン」
「お久しぶりでヤスぅ! 会いたかったでヤスよォ!」
飛び跳ねるようにして近づいてきたのは巨大な団子のような魔族だった。直径三メートルほどの胴体に丸っこい手足がついている。『彼』こそがボン。この地獄の管理者だ。人相の悪い骨ばった顔をちらりとプリーナへ向けると、わざとらしいほど大げさに首を傾げる。
「兄貴ィ? そいつァなんですかい?」
プリーナが肩をびくつかせて構えるのをさっと手で制す。当惑の視線に頷きを返した。
「気にするな。それより話がある。上で飛び回っている鳥どもを下ろせ」
「わっかりヤしたァ、待っててくだせェ! ――オイッ、オマエ等ァ! 降りて来やがれ! さっさとするんだよォ、また焼かれてェのかァ!」
ボンの怒号でカラスにも似た黒い鳥たちが一斉に集まってくる。全部で五羽。今の感じから、ボンより立場は下と見て間違いない。
戦力的には問題なさそうだ。それこそ五秒もあれば殺し切れる。
けど、できるのか?
ぼくはずっと、ここへ来ることを避けていた。意識したわけじゃない。マリターニュで魔族を殺して回っていた時、この村に寄ろうなんてことは頭の片隅にも思わなかった。
それが問題だ。この村をぼくは恐れている。魔王を殺すと誓ってからさえ逃げ続けてしまうくらいに。愛した人の肉を喰らうあの青年を――涙を流しながらも自分を止められない彼の姿を思い出すたび、体の芯が震えあがって止まらなくなるから。
できるのだろうか。ぼくに。
「サーネル」
プリーナがぼくの握りしめた拳に触れる。どうやら震えていたらしい手から、すっと力が抜けていく。
そうだった。もうあの時とは違うんだ。
「あー! あーーー! 触った! 触りやがった!」
ボンが急に声を上げ、こちらに指を差しながら向かってきた。視線の先はプリーナだ。
ぼくは手の中で小さく火花を散らす。
「オイ女ァ! 人間の分際で兄貴に気安く触ってんじゃねェ! 二度とふざけた真似ができねェように焼き焦がしてやる! 手を貸せェ!」
ボンがプリーナへ手を伸ばす。
その瞬間。
「黙れ」
ぼくはボンの足を掴み、破砕した。
「ひぎゃああああっ?」
「プリーナに触れるな」
ボンが大きな音を立て盛大にすっ転ぶ。同時にぼくは腕を五本生やし、驚いて飛び立とうとする鳥たちをつかんだ。即座に破砕する。
ボンは激しく声を上げながらのたうち回る。体型のせいか破損した足を抱えることもできずに悲鳴だけを上げ続ける。
「酷ぇ! 酷ぇよお! なんでこんなことするんだよォ!」
その声をぼくはひどく冷めた思いで聞いていた。
……なんだ、こんなものか。
散々怯えてきたけど、蓋を空ければ大したことはない。結局この魔族も、殺すべき相手の一つに過ぎなかったわけだ。
彼の頭のそばに立ち、しゃがむ。額に軽く手を添えて、事態を理解し震え上がる彼に語りかける。
「ねえ、ボン。君はこの村をどう思う」
「……? そ、そんなの最高に決まって」
「最低だったよ。ここまでつまらない光景、ぼくは観たことがない。これはその罰だ」
ボンは目を見張る。殺されると察した瞬間よりも青ざめ、必死の形相で抗議する。
「そ、そんな……! だって、だって姐さんは……!」
言い負かすつもりは毛頭ない。ぼくはゆるく首を振り、掌に力を込める。
「魔王の息子サーネル・デンテラージュとして言い渡す。君の仕事はここで終わりだ」
「待って」
今まさにボンの頭を破砕しようという瞬間、肩に、手を置かれた。
プリーナだった。頬を赤く染め、とろけた表情で息を乱している。
「ごめんなさい。もう我慢できないの」
そうか。彼女にとってこの地獄は許せないものであるのと同時に――。
ぼくは頬をゆるめて腰を上げる。今さらボンに興味はない。直接手を下す必要もなかった。
「いいよ。ごはん作って待ってるね」
軽く手を振ってその場を離れる。プリーナも多分、見られていたくはないだろうから。
山の向こうまで響きそうな大絶叫を背に、ぼくは水と山菜探しに出る。
さて。
村人たちには何を作ればいいだろうか。