1. 角のカップ
夜空の下を澄んだ水が流れる。そこからわずか離れた坂の上に人気のない家屋が数軒建っていた。
屋根が落ち空の剥き出しになった家屋の隅で、ぼくは頭を抱えて座り込んでいた。
「どうしようどうしようどうしよう……!」
何分も前からずっと同じ言葉を繰り返している。ぼくは二つの巨大勢力を敵に回した。人類と魔族だ。魔王の前でマイスを助けたはいいものの、そんな行動は予定になく、当然そこから先の作戦など用意できていなかった。
魔王に対する水面下での裏切りは終わった。今は明確な敵同士。サーネルの立場を利用して得られた優位も過去のものだ。
これからどうしたらいい? 追っ手は来るのか? 魔王を倒す方法は?
……ぼくに勝機なんてあるのか?
「サーネル」
「!」
声にがばっと顔を上げると、いつの間にかプリーナが立っていた。大げさな反応にくすりと笑い、ぼくの頭をそっと撫でる。
「そんなに怯えないで。わたしがついているでしょう?」
頭に触れる優しい熱が、重くなった胸をじわりとほぐす。泣きそうになりながら、こくりと頷いた。
「それと、疲れている時に考え込むのは良くないわ。ほら、来て」
手を引かれ立たされる。家屋を出ると、川のほうで火が焚かれているのが見えた。その傍では怪鳥が寝ている。指差してプリーナが振り向く。
「しっかり休んでたくさん食べて、考えるのはその後にしましょう」
魔王城でのことはプリーナにも話した。けれど彼女は動じることなく自分のペースを守り、ぼくを安心させてくれる。心強い反面、なんだか余計に自分が情けなかった。
考えてみれば人間と魔王の敵対は今に始まったことじゃない。人々からしてみれば「これくらいで慌てるな」といったところなのかもしれない。
川まで降りると、焚き火の上に鍋が吊るされていた。ぐつぐつと音を立て食欲をそそる匂いを漂わせている。
プリーナが蓋を開ける。湯気が一気に膨れ上がり、その奥から肉と草のスープが覗く。
「りょ、料理だ……!」
「え?」
生肉や生のキノコとは明らかに違う。お腹ではなく心を満たすための『料理』がそこにあった。
これには地の底まで落ちたテンションも跳ね上がるというもの。目を爛々(らんらん)と輝かせ、まずは大いに息を吸い匂いを堪能する。
「美味しい! 美味しすぎるよプリーナ!」
「まだ食べてもいないのに」
プリーナが笑いを堪えた様子でお玉を取り出し、角のカップにスープとお肉を入れてくれる。
「サーネルったら小さな子どもみたいね。はい、どうぞ」
「い、いただきます!」
カップとフォークを受け取りグイッとスープを口に入れる。
「――!」
暖かい、そしてやっぱり美味しい。スープは出汁の深みと謎の塩気が絶妙だし、じっくり煮込まれた柔らかな肉は味が染み込んで噛むたび旨味があふれてくる。恐ろしい、これが文明の力。もう生肉には戻れないよ。
「泣くほど喜んでもらえるなんて思わなかったわ」
「だって……だって……!」
プリーナは苦笑しながら、鍋から小指の先ほどの球をすくう。お玉に入ったそれは、深緑色をした石ころのようだった。
「それは?」
「バラ玉よ。煮込むと塩気の利いた出汁が出てくるの。これ一粒で二、三十回は使えるから、旅の必需品ね。二十粒は持ってきているからしばらくは美味しいスープが飲めるわ」
それが美味しさの秘密というわけか。さすが何度もマリターニュを旅しただけあって、プリーナは色々知っている。
そういえば、鍋もよく見るとふしぎな材質をしている。見た目は大理石みたいだけど……触ってみると表面は柔らかい。そのわりに芯はしっかりとしていて、生きた動物にでも触れているみたいだ。サーネルの寝室にあった謎の皮を思い出すけど、それともまた感触が違っていた。
「って、サーネル! 火傷してしまうわ!」
「え? ああ、大丈夫だよ」
掌を見せ笑ってみせる。プリーナは息をつき苦笑した。
「そうよね、ごめんなさい。つい人の感覚で」
「ううん、ありがとう」
人の感覚、か。気付けばぼくもずいぶん……まだこの体になって十日も経っていないはずなんだけど。
……と、魔術で生やした足が干からびてきた。腕はもう治っていたけど、叩き斬られた足は未だ膝より下を魔術で補っている状態だ。片足ずつ生えかわらせた。
「足、痛む?」
「今は平気だよ。斬られた時はさすがに痛かったけどね」
「そう」
「それより、早く食べよう」
プリーナの碧い瞳に陰が差す。だからぼくは努めて明るくいった。
ぼくみたいなやつのために、わずかでも辛い顔をして欲しくなかったから。
その後はスープを注いだカップを二人交互に飲み、体を温めた。ワマーニュ邸のある町でもこうして二人で蜜酒を飲んだけど、中々こそばゆい気持ちになる。カップを手渡すたび目が合うのが照れ臭くて、でもそんな時間がとても嬉しくて、気づけば互いに笑みが止まらなくなってしまった。
「はあ、お腹いっぱい。眠くなってきちゃった」
食事を終え、ぼくたちは焚き火のそばに転がっていた流木に並んで腰かける。
お下げをほどき、さらさらの金の髪を櫛で梳くプリーナを横目に、パチパチと音を立てる火を眺める。
その視線を、どうしても動かせなかった。
「サーネル? どうかしたの?」
「へ? あー、その。身軽そうに見えて、けっこう色々持ち歩いてるんだね。剣とか櫛とか、バラ玉とか。それに鍋まで」
「鍋はティティに持ってもらったの」
「ティティ? ……ああ」
ぼくたちを運んでくれた怪鳥のことらしい。なんとも肝の据わったことに今はぐっすり眠っている。戦いに巻き込んでしまっておいて怪鳥呼びを続けるのもいい気はしないし、これからはぼくもティティと呼ばせてもらおう。
「それで、どうかしたの?」
「……えっと」
何故か心を読まれている。顔に出したつもりはないんだけど。
問いに答えるように、ぎゅるぎゅると盛大にお腹が鳴った。食べた直後にこれはさすがにプリーナも予想しなかったようで、固まって目をぱちくりとする。
「ご、ごめん。足を斬られてからやけにお腹がすいちゃって。せっかくいっぱい食べさせてもらったのに」
プリーナは息をつく。頬を両手で挟まれた。
「えっ? あ、あのっ?」
「変な遠慮はしないで。これからは一緒に旅をしていくんですもの、わたしのことは家族と思って接して」
「家族っ?」
それはつまり、結婚とかお嫁さんとか奥さんとかそういう――? いや待て違う絶対違う。
やわらかな掌の感触がくすぐったくて目が回る。そうだ、これがいけない。『異性』を感じるとすぐ取り乱してしまうのが悪いところだ。そう、ぼくたちは家族。歳で言えば姉弟といったところ。つまりプリーナはぼくのお姉ちゃん――。
「それはダメだよ!」
ぼくは半ば息を乱して立ち上がった。いくらプリーナでもお姉ちゃんと呼ぶことだけはできない。そこだけは譲れない。
「ぼくたちは従姉弟! そう、従姉弟なんだ! それなら何も問題ない! いいよね!」
「え、ええ……」
困惑ぎみの首肯を得られたところで、はっと我に返る。ぼくは何を口走っているんだ。
少し冷静になったところで、またお腹が鳴った。プリーナが口元を緩める。
「食べ物、探しに行きましょうか」
それからぼくたちは川魚や鳥や獣を狩り、片っ端から焼いていった。二人の魔術を使えばあっという間のことだ。大食漢が十人いても食べきれるか怪しいくらいの量を貪り尽くし、さらに川の水をたっぷり飲んでようやく満腹感を得られた。
「ふぅ、もう動けないよ」
再び起こした焚き火のそばで横になる。プリーナはそばに座り、興味深そうにお腹を触ってきた。
「どうなっているのかしら。お腹の中に別の世界でも広がっているの?」
「そんなはずはないんだけど」
魔族の体なんだ。科学的に考えたってしょうがない。とりあえず栄養補給は完了したし、あとはゆっくり眠るのみ。
「あ。ここで寝たら風邪引いちゃうかな」
「そうね。一つだけ壊れていない家があったみたいだから、今夜はそこで休みましょう」
ぼくはともかくプリーナは人なんだから、もう今までみたいなでたらめな休み方はできない。けど、良いことなのかもしれなかった。人らしい生活をしたほうが心も安定していられるだろう。
「本当に、プリーナには助けられてばかりだよ」
焚き火に照らされながら呟く。プリーナは驚いたような顔をして、ほっとしたように微笑んだ。
「よかった。追いかけてきたはいいけれど、足手まといになってしまうんじゃないかって、とっても不安だったの」
「そんなこと」
「でもね、やっぱり助けられたのはわたしの方。森で魔族に襲われた時も、町へ乗り込んできてくれた時も。もしあなたが来てくれなかったら、わたしはきっとあの場で自分を殺めていたわ。わたし、あなたに二回も救われてるのよ」
ぼくはゆるく首を振った。
「あの時だって、本当に救われたのはぼくのほうだよ。プリーナと会えてなかったら、ぼくも自分を殺してたと思う」
プリーナはくすりと笑う。金のお下げが軽やかに揺れた。
「わたしたち、お互いに命の恩人なのね」
「――そうだね」
なんだか胸がくすぐったい。自然と彼女へ手を伸ばしていた。
手を繋ぎ、焚き火を消して。ぼくたちは坂道を上がっていく。
これからどうするべきかはまだ分からない。でも、プリーナと一緒なら戦っていける。それだけは確信できた。
プリーナは町へ帰れない。優しい父と健気な少女とは会えなくなってしまった。
だけど、そう。世界を救えば。
ぼくとプリーナで世界を救えば、きっとまた町へ戻ることができる。
たとえ目を覆いたくなるような性癖があっても。魔王の息子と繋がりがあっても。
「……世界を救えば別だよね」
だからぼくは今度こそ、逃げるわけにはいかない。プリーナのためにも、何度くじけたって立ち上がらなくちゃならなかった。
次に相対した時こそ、ぼくが魔王を殺すんだ。
夜空を輝く満月を睨み、ぼくは改めて胸に誓うのだった。