8. それはまさしく生きた怪物
歪んでいる。
土の地面が、枝が、幹が、地を這い宙を舞う虫たちの全てが歪んでいる。
そしてまた、黒い岩で造られたその城もぐにゃぐにゃにねじ曲がっていた。
「あれは――」
マイスが驚愕を露わにする。一目見ただけでそれが何であるのかを理解する。
巨大な頭をもたげたような、本来なら崩れないはずのないアンバランスさで建つその姿は、まさしく生きた怪物。禍々しく荒々しい迫力を放つそれこそ、大魔王ブラムス・デンテラージュが治める魔王城であった。
「だが、まさか……」
簡単には信じられない。
数え切れない無念を目の当たりにしてきた。多くの国が、騎士たちが探し続け、たどり着くことなく死んでいった。それが、こんなにもあっさり――。
彼らが命を賭してまで追い続けた敵の本拠地が、たった一つ『扉』をくぐっただけで現れてしまったのだ。信じられるはずがない。
『扉』の存在自体は、騎士たちの間では広く知られていた。その先へ踏み込んだ者も多くいる。しかし帰ってきた者は一人としておらず、それゆえ、「どこか遠くへ繋がっている」以上の情報がなかった。だからまさか、直接魔王城へ行ってしまえるとは考えもしなかったのである。
「サーネル、あれは」
背後を振り返り、ようやくマイスは気付く。
サーネルの姿がない。
突如現れた魔王城に気を取られた隙に、彼らは姿を消していた。
目眩を錯覚させる何もかもが歪み切った視界の中で、マイスは周囲を見回す。『扉』は閉じてしまっていて、今や痕跡すら見つけられなかった。
超重量の大剣を強く握る。生きた怪物、黒い岩の城に足を向け、マイスは歩き出す。戻ることができないのなら、否、たとえ帰路があったとしても、乗り込む以外に道はない。
単に適当な場所に閉じ込められただけかもしれない。罠にかけられただけかもしれない。
それでも、確かめる以外の選択肢などあるはずもなかった。
駆ける。木々をなぎ倒し、ぐるぐる飛び回る虫を払い除け、勇者は魔王城へまっすぐ進む。巨大な岩の門までたどり着いた時、ようやく城を取り囲むボロボロの小屋の数々を目に留めた。
「おい、人間だぜ」
「一人か? おいおい舐められたもんだな」
「随分元気みたいじゃないか。ハイマン様は何してんだい」
「また寝てんだろ。いいじゃねえか、おかげで久々に遊べるってもんだ」
魚人、獣人、巨大な芋虫に蠢く泥水。視野に収まるだけで数十にも及ぶ魔族がわらわらと集まってくる。ここが魔王城であるかはまだ分からないが、これだけでも来た意味はあったようだ。
大剣を大きく後ろへ引く。けたけたと嗤う怪物どもを前に、勇者は蹂躙を開始した。
*
木々の間を縫うように怪鳥が走る。しゃくれた顎のような巨大なクチバシを興奮に震わせ、先ほどから何事か喚いていた。
「驚かせちゃったかな」
「あれで驚かないのなら心を失くしてしまったに違いないわ!」
「ご、ごめん。相談する暇がなかったから」
ぼくたちは怪鳥に乗って、山の中を移動していた。『扉』をくぐりハイマンの森へ突入した直後、勇者が来るのを見届けてすぐに引き返したのだった。さしもの勇者も魔王城に目を奪われ、ついに去りゆくぼくらに気づくことはなかった。
「魔王城……だったの?」
「うん、そうだよ」
即答する。隠す意味もない。
「って言っても、強い魔族はほとんど出払っちゃってるんだけどね。魔王もあそこにはいないんだよ。代わりに数はたくさんいるけど、マイスさんは頑丈みたいだから。生半可な攻撃をいくら重ねたところであの人は傷つけられない。多分」
錆のない鋼鉄に虫が齧りつくようなものだ。そもそも歯が立たないものを何千匹で噛みついてもやっぱり歯は立たない。鋼鉄を凹ませるにはハンマーの一撃が必要だ。
少し不安なのがハイマンだけど、きっと同じこと。彼は規模が大きい分大軍を蹴散らす力はあるように見える。ただ、一人を相手取るには無駄が多すぎる。確実に傷を蓄積させられる相手ならまだしも、中々怪我を負ってくれない勇者に相性で勝るとは思えなかった。
だから勇者ならほぼ問題なく全てを破壊できる。そう結論付けた。これで一気に魔族の戦力を削げるというわけだ。さらにもう一つの目的も果たせる。
そもそもぼくは、ガラードとコンズに会うため魔族を殺し回っていた。世界のどこにいるかも分からない彼らを引きずり出して、唯一魔王の居場所を知っているというバンリネルと会うために。
ハイマンが死に城が潰されるほどの騒ぎになれば、いくら彼らでも駆けつけずにはいられないだろう。あるいはバンリネル本人が現れてもおかしくはない。
「『マイスさん』なのね」
「え?」
「いいえ。それにしても、まさか魔王城を囮に使うなんて驚いたわ」
「ぎりぎりまでそんなこと考えてもなかったんだけどね」
灯り虫のおかげで気づけたし、場所も分かったのだ。本当に幸運だった。
ただ、問題が一つ。斬られた足と腕を治さなくては、ぼくが勇者を招き入れたことがばれてしまう。だから今の状態で城に戻ることは絶対にできない。魔王を暗殺することが目的なのに、真っ向勝負になってしまったのでは意味がない。
早いところ怪我を治して何食わぬ顔でガラードたちと言葉を交わし、あるいは殺し、バンリネルの、そして魔王の居場所を突き止めなければならなかった。
「……あ」
「どうしたの?」
「マイスさん、『扉』開けられるのかな」
今さらながら、そんな初歩的な疑問に思い至った。
「あれって、地位の高い一部の魔族にしか使えないって聞いたのだけれど。違うの?」
「えっ? そうなのっ?」
初めて知った。魔術さえ使えれば誰でも開けるのかと。
ぼくの反応に唖然としてか、プリーナは絶句する。
「どうしよう。せっかく離れられたのに、こっちから迎えに行くなんて」
会えばまたあの大剣で襲われるに決まっている。そうなれば今度こそ逃げ道はない。魔王城へ導いたからといって見逃してもらえるともとても思えなかった。
「『扉』を通らないと外へは出られないの?」
「そんなことはないと思うけど」
森の外にはごく普通に海が広がっている。魔王城は異空間などに存在するわけではなく、地続きの世界のどこかにあるのだろう。
「それなら大丈夫じゃないかしら。彼なら海を渡るくらいどうとでもなるでしょうし、旅にだって慣れているわ」
「そうかな……?」
不安だ。あのマイスが死ぬところなんて想像もつかないけど、凄まじい筋力を維持するには相応の食事が必要だろうし……まかり間違って餓死でもされてしまったら、ぼくはきっと立ち直れない。
「ごめん。プリーナ」
ぼくはいった。
「やっぱり戻ろう」
「……助けに行っても、また襲われるだけだわ」
「分かってる」
「命を賭けて戦っても、きっと人間のようには見てもらえないのよ」
「それでもいいよ」
「――」
怪鳥は止まらない。木々の間を駆け抜け続ける。
しかしてぐるりと半回転して、来た道を戻り始めた。
「ごめん。ありがとう」
「いいえ」
前を向いたまま答える。顔は見えないのに、彼女が微笑むのが分かった。
「あなたを信じてよかった」
金色のお下げが風に揺れている。ぼくは彼女の体温を感じながら、そっと笑って目を閉じた。