1. 作り物の太陽に捧ぐ
激しく燃え上がるような「赤」が揺れていた。
地下深く。底知れぬ闇が覗くはずの奈落の底は、暖かな光に照らされている。
そこは地獄のごとき谷の底と繋がる巨大な空洞であった。冷たくごつごつとした岩で囲まれた、ある種世界から切り離された場所だ。
でこぼことした大地には草木が茂り、花が咲き乱れ、少し先には石造りの町がある。わずかに赤みを帯びたその土地からは、時おり人々の笑い声が響いてくる。とても地底とは思えない、人の意思と気配に満ちた一つの世界が広がっていた。
そんな町を、はるか高く崖の上から見下ろす少女がいた。燃えるような赤い髪をふわりと揺らし、明るく光る赤い瞳を笑みに細める。彼女は祈りを捧げるように手を組み合わせると、ゆっくりとまぶたを閉じた。
「今日もお願い」
顔を上げる。両手を伸ばす。その先――空洞の天井にきれいな球の形をした大岩が嵌っていた。それは暖かな光を纏い、やわらかな温風を放っている。
少女の手が岩に触れると、ほんの微かに揺らめいていた光がはっきりと確かなものに変わっていった。
こうして地底は照らされる。熱と光と生命の恵みを与えられる。
この広き空洞において天井を空とするなら、大岩は大地を照らす太陽だった。
淡く輝く小さな太陽を前に、赤い髪の少女は再び手を組み合わせる。
「サーネル様――」
小さく呟く。愛でるように、焦がれるように、大事に大事に、桜色の唇を動かす。
少女は目を閉じ、天井を――その先の地上を見上げる。今もなお戦っているであろう、最愛の魔族を思い浮かべて。
「ずっと、待ってますから」
彼女の名はヘレナ・フローレス。魔王の息子に愛を捧げた、とある一人の救世主だ。
*
「名乗るのが遅れたな。サーネル・デンテラージュ」
マリターニュの誇る最も大きな町。石壁に囲われた土地の中央を走る広々とした一本道。その真ん中で、鈍色の鎧に赤いマントを纏った大男が、四メートルをも超える規格外の大剣を肩に担いでいる。
真黒な瞳は感情の色を帯びず、地面に這いつくばるぼくをひたすら冷たく映していた。
「私は遍歴騎士、マイス・ラムプルージュ。お前の父を倒す者だ」
ついに現れた。いつか出会うだろうとは予感していた。魔王を倒すと豪語する戦士の存在を。そして、ぼくの正体がばれれば命が狙われてしまうであろうことも。まさか一目でばれてしまうとは思わなかったけど。
全身の皮膚がピリピリと悲鳴を上げる。逃げなきゃ。そう思うのに立ち上がれない。
体が……治らない。
振るわれた大剣を受け止めた時、衝撃で胸が大きく陥没していた。それが一向に治らないのだ。剣を受ける時、腕を生やして身代わりにしたはずなのに。
あの常識外れな剣が魔術によって造られたものだったとして、それでも直接斬られなければ体は治ってくれるはずだった。魔族の体は魔術でしか壊せないのだから。にもかかわらず、治らない。明らかな異常事態に全身が警報を上げていた。
大男――勇者マイスは大剣を天に掲げる。
きっと勝利の宣言とは違う。戦いの意思を示すようなものでもない。もっと単純な――これは、そう。
攻撃前の予備動作に過ぎなかった。
暴風が吹きつける。すさまじい圧力を伴って、勇者の大剣が振り下ろされる。
脳裏によぎったのは肉体が爆ぜるイメージ。風船が割れるように呆気なく霧散する自身の姿。
揺るぎのない死を確信したその時、後ろから首根っこを掴まれた。
「させないわ!」
強引に引っ張られ、地面を転がる。驚いて顔を上げると、先ほどまでメニィと戦っていた広場に戻っていた。背後では空間が裂け穴ができている。その傍でプリーナが目を険しくしていた。
柄に宝石の散りばめられた短剣が彼女の手の中で強く光る。直後、二束のお下げを縛る紐が弾け飛んだ。彼女の顔や髪にこびりついた血がみるみるうちに浮き上がり、赤い霧となって消えた。
騎士たちとロワーフを挟み、一本道の向こう、マイスへと視線を突きつける。その瞳には、いつもの凛とした力強い光が蘇っていた。
「サーネルを手にかけることは、わたしが許しません」
ただしそれも一瞬のこと。
次の瞬間プリーナの目は、驚きと恐怖に見開かれていた。
マイスが大剣を片手に構え、こちらへ向け一直線に跳躍してきたのだ。
「……!」
「なんだ、お前は」
狙われたのはプリーナだった。
一切の躊躇もなく、剣が横薙ぎに振られる。
――その時、声が上がった。
「待て! マイス!」
ぴたりと剣が止まる。遅れて強烈な風が突き抜けた。金の髪がかかる首筋を汗が伝う。
刃はプリーナの寸前、首に当たるぎりぎりのところで静止していた。
「私の娘だ。剣を下ろせ」
こちらへ馬を歩かせロワーフ・ワマーニュが告げる。勇者を止めたのも彼だった。
マイスはロワーフを見返す。表情一つ変えなかったけれど、あっさり従いプリーナに頭を下げた。
「ご無礼を」
「プリーナ様!」
赤毛の少女が駆けて来て、彼女に飛びついた。涙目になりながらプリーナを見上げ腕や首に触れる。
「お怪我は……! ああ、なんてことを」
「大丈夫よ。ありがとう」
プリーナは少女の頭を撫でる。優しく笑いかけてみせると、すぐに毅然とした表情に変わりマイスへ向き直った。
「お願い。サーネルには手を出さないで」
ぼくを庇わなくていい。危険だ。そう言おうとしたのに怪我のせいで呼吸がままならず、上手く声が出なかった。
幸いマイスがプリーナを襲う心配はないらしい。再び剣を向けるようなことはせず、視線だけを向ける。
「何故です」
「彼は他の魔族とは違う。決して人を殺めるようなことはしないわ」
その時、初めてマイスの顔に表情らしきものが宿った。わずかな変化であったけど、それまでがあまりに無表情であったから鮮明に感じ取れた。ふいに苦いものを噛んでしまったような驚きと不快の入り混じった様子で、微かに眉と口元を歪めていた。
「既に殺しています」
「……え?」
声を漏らしたのはぼくだったかプリーナだったか。
マイスは無表情に戻る。プリーナのそばで倒れ伏したままのぼくに、氷のように冷たい視線をよこした。
「その魔族が今までに奪った命は、とても数え切れるようなものではありません」
「――」
血の気が引いていくのを感じていた。
我ながら呆れたものだ。考えもしなかった。
「あなた方はこの男の正体を知らないようだ」
この体の本来の持ち主――サーネルは魔族なんだ。それが一度も人殺しに手を染めていないはずがない。
「この男こそ、世界を破滅に追い込まんとする大魔王――」
そして今、この体はぼくのものだ。けど与えられたのは体だけじゃない。
「ブラムス・デンテラージュの子息なのです」
そう。ぼくは魔王の息子になったのだから。
サーネルの過去――彼がこれまで犯してきた罪の全ても、今だけはぼくのものなんだ。
「魔王の……息子だと?」
ロワーフが目を見張る。馬上からぼくを見下ろし息を呑んだ。
無理もない反応だ。人間全ての仇であるような存在の息子――そんな者を突然前にして何も思わない人がいるはずもない。ましてそれが、娘が先ほどまで言葉を交わしていた相手であるならば尚更だろう。
でもプリーナは違う。何せ彼女は。
「承知の上です。それだけを根拠に罪を暴いたつもりになっているのなら話になりません」
そう。彼女は全て知った上でぼくといっしょにいてくれたのだ。
けど、それはサーネルが人を殺していないと信じているからの話。
きっとそれもここまでだ。
「殺せ」
低い声で、誰かが言った。
プリーナがゆっくりと顔を動かす。
「……お父様?」
「マイスよ。そやつを殺すのだ」
呟いたのはロワーフだった。
「待ってお父様。誤解しないで」
「殺すのだ!」
一切の拒絶を許さない、断固とした口調。けれど娘の姿を見失ったわけではなかった。ロワーフはぐっと唇を噛んで乱れた息を鎮めると、落ち着いた声でプリーナに伝えた。
「よいか、よく聞けプリーナ。そやつは魔族だ。他の化け物どもと何も変わらぬ」
そしてロワーフは、ぼくが最も恐れていた事実を告げる。
せっかく得られた理解者を――かけがえのない友人を奪い去る、決定的な一言を。
「我が妻は――お前の母は、そやつに命を奪われたのだ」