25. 一歩
2019/01/26 改稿しました
――そんなの、許すに決まってるじゃないですかぁ。
きょとんとした声が耳の奥で響く。
何故いま、その言葉を思い出すんだろう。
ぼくの命を守るため、お姉ちゃんは死んだ。これじゃまるでお姉ちゃんを殺すために生まれてきたみたいだと、四年以上も自身を憎んだ。その一方で、生きることへの許しを求め続けていた。
それを最初にくれたのが、メニィだ。
サーネルとしてでもない、ぼくの事情を明かしてなお、彼女はぼくを許してくれた。あの時どれだけ救われたか、言葉では言い表せない。
メニィは優しい言葉をくれた。やわらかな肌の温もりをくれた。命さえ救ってくれた。彼女がいなければぼくは今、ここにはいない。それでなくても見知らぬ世界に対する絶望感は拭えなかっただろう。
魔王城に連れて行かれてから、彼女の心を知った。サーネルがいなくなってどれだけ心配したのか。きっと母が子の死を恐怖する時と同じくらい、彼女の体も震えていた。その愛は本物だ。魔族とは残虐で冷たいだけの化け物とばかり思っていたのに、メニィは時々、ただの優しいお姉さんのようだった。
そして今。
紫のドレスを身に纏った彼女は、ぼくの裏切りを前にしてこう言った。
まだお傍にいられますか、と。
裏切りを糾弾するわけでもない、醜く囃し立てるわけでもない。ここに至った理由すら問わず、彼女はサーネルとの繋がりを手放さないことだけを願った。
なら――。
両手を握りしめ、開く。騎士たちとロワーフ、プリーナ、赤毛の少女のみが見守る広場にて。メニィとぼくは向かい合う。
「どうしたんだよ。なんで魔術を使わない」
「……ワタクシは」
「やらなきゃお前が死ぬんだぞ!」
「…………」
「――わかったよ」
自分が殺されるかもしれないと知ってもなお、それでも彼女が向かってこないのなら。
ぐっと唇を噛み、飛び出す。
「もういい。そこで立ち止まってなよ」
ぼくの正体は明かさない。
真実は明かさない。
あくまでもサーネルとして。
「爆ぜろォ!」
最低の裏切り者として、メニィを葬る。
掌を振るう。魔力を込め、火花を散らした。
後は触れるだけだ。それだけで、全部丸ごと吹き飛ばせる。
なのに。それなのに。
まただ。また、ぼくの手は止まった。
クヌールの時と同じだ。掌はメニィに触れず、頬の寸前でぴたりと固まっている。
彼女は動いていなかった。ぼくの意思に身を委ねるように、棒立ちのまま身を晒している。
「――どうされたんですぅ?」
冗談めかすように首を傾げる。困ったような笑顔だった。
「う、うるさいっ」
今度こそ頭を掴んだ。けど、彼女の頭は爆ぜなかった。
「この、この! なんで! なんで死なないんだよ!」
魔力は込めているのに。掌は十分熱いのに。
叫ぶ。叫ぶ。けど砕けない。殺せない。
「お坊ちゃま……」
頭を掴まれたまま身じろぎもせず、メニィは呟いた。
哀れむような声に胸を引き絞られる。どうして今、君がそんな声を出すんだよ。
ぼくは揺らいでばっかりだ。プリーナの前で誓ったのに、また同じことを繰り返そうとしている。クヌールを殺せなかった時のように、迷う気持ちに押しつぶされようとしている。魔王を殺すと言い放ちながら、目の前の魔族一人倒せない。
呼吸が乱れる。ついに掌がメニィから離れた。
「……お優しいですねぇ。お坊ちゃまは」
「うるさい」
「嬉しいですぅ。ワタクシのために、そんなに思い悩んでくださって」
「そんなんじゃない! 甘く見るなよ、お前なんかすぐに……!」
掌を振るおうとする。けど、ぴくりとも動かない。
その腕を、メニィが取った。
「お手伝い、しますかぁ?」
「……!」
全身の毛が逆立つ。
目に浮かんだのは獣人の少年。動かせないぼくの腕を取って、自身の頭へ引き寄せ死んだ。
ぼくは慌てて手を振り払う。
「やめろっ、ふざけるな! お前を殺すのはぼくだ! 勝手なことするなよ!」
「そうですかぁ。どうしたものでしょうかねえ……?」
気づけばメニィはいつもの調子だ。こちらの殺意は消えていないのに、柔らかな笑みを向けてくる。この期に及んで愛を忘れない視線に焦りを一層刺激される。
しばらく彼女は物思いにふけり、それからぱんと手を叩いた。
「あぁ、いいこと思い付いちゃいましたぁ」
ぞわりと背筋に悪寒が走る。ひさしぶりの感覚だった。
メニィの顔が歪む。にたぁ……と粘着質な笑みが浮かび、全身から毛虫の群れのごとき悪意の塊があふれだした。
「見たところぉ、お坊ちゃまのお仲間はあの人間ひとりのようですねぇ」
粘り気のある視線が、同じ広場で固唾を飲む血まみれの少女――プリーナを捉える。
ぼくは咄嗟にその前に立った。
「お前……!」
メニィは笑みを深めた。
その体がゆっくりと仰け反っていく。キシキシと、あり得ない音を立てて。
「あれがいなくなればぁ、お坊ちゃまがワタクシを殺す理由もぉ」
そして、跳んだ。
「なくなっちゃいますよねえ」
限界まで引き絞られた矢のごとく、メニィの体が一直線に放たれる。
――蘇ったのは、一人の兵士の首が吹き飛ぶ光景。あれは確か、バードといっただろうか。プリーナを逃がすためにたった一人その場に残り、文字通り命を投げ打って領主の娘を守り抜いた。
けど今、ここに彼はいない。
メニィが向かってくる。ぼくを越えた先にいる、金の髪の少女を狙って。
騎士たちは遠い。赤毛の少女では敵わない。
誰ならメニィを止められる? 誰ならプリーナを助けられる?
決まっている、ぼくだけだ。
体に力が入る。血流が勢いを増す。
そうだ、忘れていた。これは守るための虐殺だ。人々を救うための殺戮だった。
腕が動く。掌から火花が散る。メニィの動きが――見える!
手を振る。メニィがすれ違う。
わずかに、指先が触れた。
「!」
体が弾け飛ぶ感触があった。けど全部じゃない。砕かれたメニィの体はプリーナから軌道を逸らし、建物の一つに突っ込む。
出入り口の扉を豪快に打ち破られたその建物は、特に崩れるようなこともなくしんと佇んでいる。中でメニィが動く気配もなかった。
建物に入る。そこは酒場だった。幾らかのテーブルや椅子が互いを巻き込みめちゃくちゃに転がった室内で、カウンターの手前にメニィが倒れていた。紫色のドレスは赤黒く染まり、床には血だまりができている。
彼女は胴の一部を失ったようだった。けれど息はある。
ぼくはその頭を掴み店の外へ投げた。もちろん甚振るためじゃない。ここは町中だ。戦いの決着は領主たちの前で付けなくちゃいけない。何よりプリーナを安心させたかった。
外へ出る。メニィは抵抗することもなく転がっていた。広場の途中から彼女にかけて、地面にべっとりと血の道が出来上がっていた。
「上手く……いきません、でしたぁ。お強く、なられたんですねえ」
掠れた笑い。ぼくは傍に立ち、膝をつく。
もう迷いはない。守るべき人々の姿をまぶたの裏に映せば、こうも簡単に体は動く。殺戮の理由を常に胸に秘めておけば、残酷な光景に惑わされることもない。
「気を、つけて……くださいねぇ。ご自分の、お力を……取り戻されるまではぁ」
虚ろな目で空を見上げ、メニィはいった。
「うん。分かってるよ」
「愛して……おります。ですから、どうか。お坊ちゃま……」
ぼくは頷き、彼女の額に手を添える。
それから目を閉じ、最期の言葉を聞いた。
「ワタクシを、忘れないで」
メニィの頭が消し飛ぶ。血の煙が舞い、わずかな時、視界が赤で埋め尽くされる。
ぎゅっと、唇を噛んだ。
胸が疼く。お腹の奥がねじ切れるような痛みを訴える。吐き気だ。忘れかけていたはずのそれが、またぼくの中に蘇った。
ダメだ、耐えろ。乗り越えるんだろ。幻を吹き飛ばすんだろ。こんなところで参っていたら、ここから先へは進めない。
だからぼくは、笑った。
腹の底から湧き上がる震えを、声に変えて。
地獄の底からあふれ出したような、聞くに堪えないおぞましい声を上げた。
やった。殺した。殺してやったぞ。
全ての気持ちを歓喜に変えて。抑えきれない衝動を叫びに変えて。
ぼくは笑った。騎士が、ロワーフが、赤毛の少女がぞっと青ざめるのを知りながら。人々の目に化け物として映ることを受け入れながら。
それでも血に濡れた少女が、凛とした眼差しを向けてくれるから。目を逸らさず、まっすぐに見つめていてくれるから。ぼくは笑っていられた。
死者の声はもう聞こえない。お腹の痛みも消え去った。涙も出ないし、笑みも止まない。
ぼくは打ち勝った。消えぬ幻を吹き飛ばしたんだ。
これで本当にプリーナに誓える。
いつか絶対、世界を救ってみせるから。そして必ず、自分を好きになるから。
自分は生まれて良かったんだと思えるようになってみせるから。
ぼくは笑う。声を出して歓喜し続ける。迷う気持ちのほんの一欠片も残さないように。二度とプリーナを不安にさせないように。
息の全部を使い切るまで、力いっぱい笑い続けた。