24. その誓いを確かにするもの
2019/01/26 改稿しました
いつか必ず自分を好きになる。そんな答えは考えもしていなかった。町へ乗り込むまでは本当に、プリーナのことしか考えられなかったから。この場で彼女に思いを伝えるうち、初めて答えにたどり着けた。
怪物を殺すだけの化け物に近づいても、臨んだ道を外れたわけではないと。醜く映るのは今だけなのだと。それを気づかせてもらった。
だからきっと、救われたのはぼくのほうだ。
無念なのはプリーナを守り切れなかったこと。もう彼女はこの町にはいられないだろう。マリターニュの民を守るべく立ち上がった彼女が、そのために町を追いやられる。それがどうしようもなくやるせなかった。魔族であるぼくとの関係も察せられてしまった以上、こればかりは覆しようがない。
板張りの屋根から見下ろす広場にはたくさんの人々がいた。
プリーナとぼくとを頻りに見比べる老婆、状況が分からず青ざめる子ども、ひたすら目を丸くする青年、警戒を崩さない騎士たち。一度は逃げ去った人も多かっただろうに、いつの間にか数は増え、少なくとも百は超えるであろう人々が広場と中央通りに集まっていた。プリーナと魚人の死体の周りにだけ、ぽっかりと穴が開いたような空間が作られている。
その中に、これまで声を発さずにいた一人の少女が踏み出してくる。
「――プリーナ、様」
毛織のケープを羽織った赤毛の少女だった。糸のように細い目を精いっぱいに見張り、びくびくと震えながら、ぎこちない足取りで進み出る。
「勘違い、なさらないでください。プリーナ様は……醜くなんかないですっ」
体は震え、視線は定まらず、それでも、少女は近づいていく。血まみれで座り込んだままのプリーナに、まっすぐ歩み寄っていく。
血に濡れた髪が風に鈍く揺れる。そこに包み込むように腕が回された。
少女がプリーナを抱き寄せていた。
「……エラリア、無理をしないで」
「していません」
「でも、こんなに震えているわ」
「いいんですっ。あ、あたしにはっ、プリーナ様を傷つけてしまうことの方が、ずっと辛いから! だから……だからっ」
泣きじゃくってしまった少女の体に手を回し、プリーナは優しく擦る。どんな顔をしているかは少女に隠れて分からなかった。
騎士たちを従える馬上の男性――マリターニュの領主ロワーフ・ワマーニュは、じっと押し黙り娘を見守っていた。彼はプリーナを捕らえたりはしない。そんな気がした。けれど何もせず民を不安に陥れる真似もしないのだろう。そうなるとやっぱり、プリーナはここから出ていくしかない。
でも、彼女は今も愛されている。少なくとも三人からは。そこに恐怖が混じっていようと、立場ゆえに救えなかろうと、それだけは確かだった。
――さて。それが分かった以上、のんびりしているわけにもいかない。
改めて広場の人々を見下ろす。その中に先ほどから気になる影があった。黒いローブを羽織、フードを目深に被った女性。目に映る人々の中でただ一人、人の群れに紛れるように顔を隠している。
別にまだ、彼女が犯人と決まったわけじゃない。ひとまず当たりをつけただけだ。
犯人というのは、先の騒ぎを導いた者のこと。あくまで推測に過ぎないけど、石壁を破った魚人はその犯人によって送り込まれたものだと見ていた。
理由は単純。先の魚人はあまりにも弱すぎた。ぼくは戦いを最初から最後まで見たわけじゃない。それでも今の状況はおかしかった。
魔族の中でこの町は、強力な戦力が集中することで知られている。そこに単独で乗り込むこと自体が信じがたいことだ。これがガラード――あの包帯ぐるぐる巻きの怪物のように力と自信を兼ね備えた魔族であったなら話は変わる。けれどあの魚人はプリーナに傷ひとつ与えられないまま死んだのだ。この町の戦力は未だ集結し切ってすらいないのに、たった一人に敗れ去った。
と来れば、魚人は騒ぎを起こすためだけに送り込まれ、犯人はその隙に町に忍び込んだ――そんな可能性が頭をよぎるのは至極自然なはずだ。実際ぼくは町に侵入できている。
もちろんプリーナと話している間には、そんな考えに至る余裕なんかなかったわけだけど。
何にせよ、プリーナとのやり取りを見られていたなら裏切りの可能性を知られたことになる。プリーナが人々の敵にでも回らない限り疑いは免れないけど、そんなことは絶対に起こり得ない。
つまりはこれまでと同じだ。また一体、魔族を殺すだけ。
ぼくはフードの女性に視線を送る。否、叩きつける。こっちはお前に気づいたぞ。そんな素振りを見せつける。
考えすぎであったならそれでいい。町での戦いは避けたい。けれどもしローブの女性が魔族なら――。
さあ、どう出る。視線で問いかけるぼくに、女性は初めて動きを見せた。
その手がフードにかかり、やわらかな髪を、強張った顔を――ぴんと張った長い耳を、露わにする。
女性はローブも脱ぎ捨てた。周囲の目などもはや気にしない。真黒な布に隠れていた豊満な体が、胸元の開いた性的なドレスと共に現れる。
息を呑んだ。ここに魔族がいるとは思った。それがローブの女性かもしれないとも思った。だけど。
その正体までは、予想していなかった。
血の気の引いた肌、紫のドレス、長い耳、柔らかく大きな胸。その姿には、嫌というほど見覚えがある。
ぼくが唯一気を許した魔族。一番殺したくない魔族。今のぼくの、一番の壁。
右も左も分からないぼくに優しくしてくれて、頭を撫でてくれて、命すら救ってくれた。彼女は魔族とは思えないくらい優しくて、包み込むように温かい。だからぼくは、憎むことを先延ばしにしてきた。
でも。
彼女もまた、人の尊厳を踏みにじる醜悪な魔族なのだ。
「メニィ――」
狼狽を隠せないぼくに、人々はようやく異変を察知した。そこにいるのが魔族なのだと、人を殺せる化け物なのだと気づき、けれどそのあまりの近さに逃げ出すことすらかなわない。救いだったのは、彼女の意識がぼくに釘付けになっていたことだろうか。
「お聞かせください、お坊ちゃま」
メニィは問うた。怯えるように、恐れるように、震えを殺した静かな声で。
それは裏切りの確認だろうか。敵か味方かの判別だろうか。どちらも否だ。
彼女の問いはたった一つ。求める答えもまた一つ。
魔族にはとても似合わない、けれど、メニィらしい問いかけだった。
「ワタクシはまだ、お傍にいられますか?」
ぎゅっと、体の内側を引き絞られるような感覚に陥る。
そんな言い方は反則だ。人の死を何とも思わないくせに。どうして彼女はサーネルにだけ、こんなにも優しいのだろう。
……でも、だからこそ、ちょうどいい。
「ごめんね」
メニィを目がけ一直線に腕を伸ばす。メニィは難なく飛び退き躱した。土煙が撒き上がる。それをきっかけに、動けずにいた人々がようやくその場を離れ始めた。わずかの時人の波ができ、プリーナ、赤毛の少女、ロワーフと騎士たちのみが広場に留まる。メニィはやっぱり彼らのことなんて気にも留めていなかった。
腹をくくり、身構える。このままじゃ変われない。彼女のことは殺したくない。今まで殺した誰よりも、はるかに高い壁だった。けどここでやり過ごして他の魔族だけ狙おうとすれば、必ずどこかで行き詰まる。たとえ何度励まされても、何度立ち直っても、ぼくはまた死者の幻にうずくまることになるだろうから。
そんなことは許されない。だってぼくは世界を救うんだから。自分を好きになるって、プリーナに誓ったんだから。
だからここで、幻を乗り越える!
そのためには。
「これが答えだよ」
「――」
「今から君を、殺すね」
そう。それしかなかった。
「貴様ら! 人の町で好き勝手に……!」
「待ちなさい」
騎士たちが動き出す。それを制するように、血にまみれた少女が立ちはだかった。
「邪魔をさせるわけにはいきません」
「な……何故です! やはりあなたは!」
「この戦いはきっといつか、世界の命運に関わることになります。だから――」
「何をわけの分からないことを」
「良い」
「ロワーフ様!」
馬上の領主は騎士たちの言葉を遮り、愛する娘――血にまみれても決して変わることのない少女に、力強い眼差しを向ける。それはいつもプリーナが見せる凛とした碧い瞳にそっくりだった。
「お前の言葉を信じよう」
領主がそう言ってしまえば、騎士たちは従う他にない。ぼくとメニィの戦いは、誰にも邪魔されることなく行われることが約束された。
屋根の上から広場に降り立つ。メニィは恐怖に強張り切った顔で立ち尽くしている。死への恐怖ではないだろう。彼女はここに至ってもなお、ある種の期待を忘れていない。
ぼくはそれを潰さなきゃいけない。彼女の気持ちを踏みにじらなければならない。それでようやく、始まりに立てるのだから。
プリーナとの誓いを、確かなものにできるのだから。
進み出る。メニィは引かない。身構えもしない。
それでいい。却って好都合だ。無抵抗の敵を殺せたなら、迷いなんて二度と生じない。
でもぼくは言っていた。鼻面に皺をよせ、獣のように歯を剥いて。
「どうした。魔術を使えよ」
武器を取れよ。抵抗しろよ。戦ってみせろよ。
最期くらい、魔族らしく振る舞ってみせろよ。
そんな懇願は無意味だ。理に適っていない。まだ迷っているのだ。踏みだせていないのだ。だからそんな言葉を口走る。
でもそれでいい。だから戦う価値がある。迷う気持ちを表に出し、ここで全てを吹き飛ばす!
その引き金を弾くように、最後に目を剥き言い放った。
「ぼくはお前を殺せるぞ、メニィ!」
戦いの幕は上がった。これは世界を救うため、プリーナとの誓いを守るための、ひどく小さな――強く確かな第一歩だ。