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世界を救えば別だよね?  作者: 白沼俊
一. 消えぬ幻の章
35/137

23. いつか必ず

2019/01/26 改稿しました

 サーネルが町の異変に気付く、わずか前。


 プリーナはまだ事件の起きていない町の広場を歩いていた。人々が行き交い生活品を売り買いする広場は、どれほど厳しい状況にあっても明るく賑やかだ。それはきっと、国同士が合流してどれだけ人が増えたとしても変わらないだろう。一人一人が折れかけても、活気ある生活はたちまち人々を立ち直らせてくれる。それを彼らに与えるのが、町の最大の役割なのだ。


 その邪魔だけは、したくなかった。


 フードで金の髪を隠し、いつもは出している二束のお下げもマントの中にしまって、罪人のように顔を伏せる。この愛すべき情景の中で醜い自分を晒したくなかった。ぞっとするほど暗い表情に振り向く人は多かったけれど、それが誇り高き領主の娘と気づく者がどれほどいただろうか。


 足取りは重い。けれど確かめなくてはいけない。エラリアはあの後ちゃんと帰れたのか。まだどこか知らない場所を彷徨っているなら、プリーナが探しに行かなくてはいけない。


 顔を見ても言葉を交わすつもりはなかった。これ以上あの子を怖がらせたくないから。エラリアの無事を確認できたら……その後、どうしたらいいだろう。どうしてあげるのが正解だろう。追い出してしまうのは違う。悪いのはプリーナだ。でも。プリーナが逃げ出せば、彼女はきっと自分を責め傷ついてしまう。


 胸が鉛のように重たくて、息が苦しい。じわりと涙が滲んだ。


 ああ、遠い。今のプリーナは、あまりにも遠い。


 顔を覆って泣き叫びたいのを必死に堪えて、すっかり打ちのめされたようになりながらワマーニュ邸に向かう。


 その横を、何か慌てた様子の民が通り過ぎていった。


「兵を呼んでくれ! 誰でもいい! とにかく戦える人を!」


「はい? どうかしたんですか?」


 近くにいた若い兵士が呑気な声で尋ねる。走ってきた太鼓腹の男はじれったそうに足踏みすると、怒鳴るように答えた。


「門の向こうで衛士が揉めてるんだ! 相手は魔族かもしれねえ!」


「なんだって!」


 兵士が目を剥き、人々がざわめく。プリーナも足を止めた。


「――魔族」


 振り返る。中央通りの向こうにある門は、今は何事もないように閉ざされている。けれど今の話が本当なら、何かが起きてからでは遅い。


 あれほど重たかった足が弾かれたように動き出す。


 お腹の奥が疼いて、頬が火照ったように熱くなる。それを感じるたび胸がずきりと痛んだ。やっぱり遠い。遠すぎる。愛する人々が危険に晒された時ですら、高鳴る鼓動を抑えられない。


 でも、それでも。今は戦わなければ。


 狼狽うろたえて立ち止まる人々の間を駆け抜け、マントの中で宝剣に手を添える。目深に被ったフードの中から、じっと門を睨んだ。


 その時――視界の端で、毛織のケープを羽織った赤毛の少女が息を呑んだ。


 顔を向ける。プリーナもまた、息を呑む。


 エラリアがいた。帰ってきてくれていた。


 わずかな時、視線が交差する。赤毛の少女は恐れるように目を見張り、視線を逸らした。


 ぐっと唇を噛み、再び前を向く。エラリアにこれ以上醜い姿を見せたくない。でも、それでも。


「ごめんなさい、ごめんなさい……」


 ああ、遠い。なんて遠い。こんなに離れてしまったら、きっともうたどり着けない。このまま一生醜いままだ。


 鉄の門が爆ぜる。崩された石壁の奥から、土煙を吹き飛ばし、三メートルを超える巨大な魚人が現れる。その手の中で、首だけになった衛士が息絶えていた。


「ゲヒヒッ」


 緑色の肌を固い鱗で覆った魚人は、痙攣するように笑うと衛士の首を投げ捨てる。


 悲鳴が上がり、人々が一斉に逃げ出した。その流れに逆らうようにプリーナは走る。敵襲を知らせる鐘が鳴り、兵士の怒鳴り声が町に響いた。


 太鼓腹の男の訴えは本当だった。魔族が町に侵入してくるなんていつ以来のことだろう。魔族にとってもこの町は脅威なのだ。騎士たちを日々外へ向かわせていてもなお戦力は申し分なかった。何のつもりでこんな無謀をしでかしたか知らないけれど、たった一体ではマリターニュは潰せない。


 とは言え全ての兵が緊張状態を常に保つわけにもいかない。いざ戦う時になって疲れ果てていては元も子もないからだ。武具の装備と移動も考慮すると、全ての戦力が駆けつけるには多少時間がいる。それまでプリーナたちは民を守り抜かなければならなかった。


 鉄板を付けた長衣をまとう兵士たちが飛び出す。こちらの数は六。プリーナを含めれば七体一だけれど、経験上非常に苦しい状況だ。


 それに解せない。どんな無謀な輩でも、戦力の集まった町に単身で乗り込んでくるなんて。よほど強さに自信があるのか、それとも――。


「一気にかかれェ! 下手な動きを取らせるなァ!」


 兵士たちの選択は速攻。民たちを背にして、相手がどんな卑怯な攻撃を仕掛けてくるかも分からない。であれば相手が動く前に叩くしかなかった。


 中央通りを門から見て、最初に貫く大きな広場――市場を開くために設けられたはずの場所で、剣と魚人の鱗が激しく打ち合う。が、兵士たちはたちまち力負けし、ただ魚人が身じろぎしただけで吹き飛ばされた。


 周囲の建物が盛大に崩れる。人々のどよめきが町を支配した。


「イヤぁ! 助けてぇ!」


「子どもが! 子どもがいないんです!」


「逃げろ! とにかく逃げるんだ!」


 今この時、人々の平穏は失われた。賑やかな町が、活気にあふれた生活が、ほんの一瞬で崩れ去る。


 だというのに。それでもやはり、お腹の奥が疼いてしょうがない。


 プリーナは駆ける。短剣を逆手に持ち、両手を前に突き出す。柄に散りばめられた宝石たちが一斉に輝き熱を帯びる。


 広場を突っ切ろうとする魚人の前に飛び出した。けれど魚人は止まらない。ゲヒゲヒと痙攣するような笑いを続け、訳のわからない言葉を呟きながら歩いてくる。


 やはり奇妙だ。何かおかしい。いくら魔族でも魔術に対しての警戒を怠る者などほとんど見たことがない。よほど強いのか、それともよほどの阿呆なのだろうか。


 わからないけれどやるしかない。プリーナは足を止めた。短剣はより一層輝きを増し――またたきの後、青白い火柱を放った。


 魚人に炎が直撃する。三メートルを超える体が業火に包まれた。


 魚人が叫ぶ。頭を抱え地面に倒れ、じたばたと暴れ出す。けれどそんなことで魔術の炎が消えるはずもない。焼かれた皮膚がバキバキと無惨な音を立てた。


 騒ぎの理由を知らず駆けつけた者や逃げ遅れた者たちが魚人の様子に釘付けになる。ざわめきは少なく、魚人の次の行動を恐れるように固唾を飲む。


 反撃はない。奇妙な予感は杞憂だったのだろうか。そんなことよりもプリーナは、まともな感情も持っているように見えなかった魚人が痛みにのたうち回る姿に心を奪われていた。悲鳴を聞くたびぞくぞくとした感覚が背筋を走り抜ける。追い打ちをかけるように火を見舞い、さらなる叫びを上げさせた。


 息が熱い。全身がむずむずする。いけない。ここは町だ。人々がいる。皆見ている。それなのに、欲望が膨れ上がって、体が勝手に前に出てしまう。


 体の疼きは昨日取り払ったはず。けれどもう関係ないのだ。今のプリーナはたとえどんな時でも苦しむ声を聞けば昂ぶりを抑えられない。それが殺してもいい魔族のものであれば尚更、我慢が利かなくなってしまう。


 やがて魚人が動かなくなる。プリーナはその巨体を踏み、腹まで上がる。そこから滑り落ちるように首元へ降り、逆手に持った短剣を魚人の眼球に突き刺した。また悲鳴が上がるけれど、焼け焦げた中身がボロボロになった体は満足に動けない。


 ここまでだ。ここまでならばまだ、トドメを刺しただけに見えるだろう。これ以上はいけない。分かっている。でも、この疼きは止められない。濡れる唇は隠せない。


 前までなら何とか堪えられただろう。けどダメだ。ついにここまで来てしまった。離れて離れて遠ざかって、プリーナはここまで醜くなってしまった。


 子どもが見ている。商人が見ている。兵士が、魚人が――エラリアが見ている。


 広場の中には今、プリーナと魚人を遠巻きにした人々が集まっていた。そこには見慣れた侍女の姿もあり、さらに遠くから馬の駆ける音まで押し寄せる。


 ワマーニュ邸のある方角からだった。やって来たのは三十を超える騎士の行列と――。


 ああ、どうして。後ほんの少し遅れてくれるだけでよかったのに。


「またお前は、戦ったのだな」


 プリーナの父にしてマリターニュの領主、ロワーフ・ワマーニュであった。


 勇敢な父は白く光る鎧と青のサーコートを身に纏い、若々しく凛とした視線を馬の上から落とす。その眼差しに憂いが混じった。


「……ああ、お父様」


 戦わないでほしい。危険に飛び込まないでほしい。父の気持ちは痛いほどに伝わっている。プリーナを愛し、身を案じ、胸を痛めてくれる人。虫のいい話だけれど、戦いに身を投じる時、そうした思いもまた力を与えてくれていた。死ぬわけにはいかない、悲しませるわけにはいかないと思えるからこそ切り抜けられた窮地もあった。


 そしてそれも、この時までだ。


「――どうか、わたしを見ないで」


 その声は届いただろうか。


 手が勝手に動く。プリーナは魚人の顔を切り裂いた。額を、頬を、全部がぐちゃぐちゃになるまで何度も何度も。青い血が飛び散り体を染めても、それを舌で舐め取りながら愉しみ続ける。


 後ずさる者がいた。顔を歪める者がいた。プリーナはそれらを見ていない。快楽を貪り、溺れて、もはやそれしか頭にはなく。それでも足りず、さらなる刺激を求めて延々と剣を動かす。散々それを繰り返した後、最後にもはや原形のない唇にキスをした。


 もう血まみれだ。それが心地いい。快楽の余韻にたっぷりと浸り、甘く熱い吐息を漏らす。


 そうしながら理解もしていた。もうこの町にはいられないことを。絶命した魚人を見下ろし、甘いような苦いような、曖昧な笑みを作る。


 死体の首元から腰を上げる。誰かが尻もちをつき、誰かが嘔吐した。プリーナはフードを被って俯き、彼らから目を背けた。


「ば、化け物……」


 沈黙の中に声が一つ。プリーナはわずかに瞠目どうもくし、一層深く顔を伏せる。


 そこから少しずつざわめきが広がった。


 おぞましい。なんてことを。狂っている。恐ろしい。見てはいけない。鬼だ。殺される。気持ち悪い。逃げろ。人間じゃない――。


 嫌悪や恐れ、軽蔑の感情が、寄り集まった虫のようにびっしりと這いまわり、プリーナの身に襲い掛かる。目をつぶっても耳を塞いでもそれらは執拗に体の中へ入り込み、内側から凌辱した。


 体は震え、呼吸もままならない。その中でプリーナはわずかに顔を上げた。やめておけと心が何度も警鐘を鳴らす。だが視線は動く。確かめずにはいられない。


 糸目の侍女と目が合った。ケープを羽織った赤毛の少女、エラリア。彼女は途端に青ざめた顔でびくりとし、視線を逸らす。


 馬の上の父と目が合った。この世に生まれ落ちた日からずっと、変わりなく愛し続けてくれた人。彼は視線を逸らさなかった。けれどその顔には動揺がありありと浮かび、身動きひとつ取れずにいる。無理もないことだ。やがてその口がわなわなと開く。


「プリーナ……なのか?」


 その声は震えていた。魔族に襲われた時でさえ狼狽ひとつ見せない勇敢な父が、今この場で、恐れの感情を隠せずにいた。そんな姿を見たのは生まれて初めてと言っていい。父の背中を一つの理想としたプリーナにとってそれは、何よりも強烈な衝撃であった。


 ああ、もうダメだ。これ以上は耐えられない。愛する人々からの嫌悪がこれほどまでに苦しいことだとは知らなかった。せめてこれを知らないまま、どこかへ逃げられていたらよかったのに。


 逆手に持ったままの短剣を持ち上げる。首元へ近づけ、一度止めた。


 ざわめきは止まない。嫌悪は止まらない。プリーナの身を凌辱し続ける。


 涙があふれ、苦い笑みがこぼれた。


 ぎゅっと唇を噛み、柄を握る手に力を込める。


 ――その時だった。


 全てを丸ごと吹き飛ばすような、暴力的な破砕音が広場にとどろいたのは。




「うるっさいんだよ、お前らァ!」




 ざわめきが止まる。嫌悪が途切れる。全ての視線が一つの場所へ根こそぎ持っていかれる。


 夕日で赤らんだ白い髪が揺れる。身を包むのは汚れた布が一枚のみ。けれどその有り様すら気高く見せるほど、その少年はたくましく生気に満ちている。


 彼は一際大きな二階建ての宿屋に立っていた。屋根を踏みしめ、右腕を掲げ、掌からは何故か煙が上がっている。


 表情は険しく、そして力強い。切れ長の眼は大きく見開かれ、プリーナが見たこともない獰猛な光を放っていた。


「サーネル……? どうして、あなたが」


「伝えに来たんだ」


 声が響く。ざわめきはない。誰もが一人の少年に目を奪われる。


 サーネルは腕を下ろす。ぐっと拳を握りしめ、大きく息を吸いこんだ。


 そして与えた。プリーナがずっと聞きたかった言葉を。


 ずっと求めていた、救いを。


「君はちゃんと、近づいてる!」


 強い風が吹いた。


 何のことかなんて聞くまでもない。今の今まで、ずっと悩み続けていたことだから。


 愛する人のため戦える人になりたい――そんな理想から遠ざかっていく怖れを、サーネルには話していたから。


 でも……プリーナは目を伏せる。もう、遅い。


 けれどそんなことでサーネルの声は止まらなかった。


「ぼくは君の生き方が好きだ! その強さが好きだ! 君はぼくたちが戦う理由を同じだって言ったよね。それはそうだよ。だってぼくは、君みたいに生きたくて、戦おうって決めたんだから!」


 そこでようやくざわめきが戻る。先ほどとは違う形で。


「なに、どういうこと?」


「魔族とプリーナ様がどうして」


 プリーナは力なく微笑んだ。


「だったら……ごめんなさい。わたし、あなたのお手本にはなれない。あんまりにも、遠ざかり過ぎてしまったから」


「いいや。近づいてる」


 サーネルは断言した。プリーナは言葉に詰まり、それでも何とか言い返す。


「遠ざかったの」


「近づいてるよ」


「遠ざかったの!」


「じゃあ君は今、誰のために戦ったんだよ!」


 プリーナはまた声を詰まらせた。その時、騎士たちがはっとしたように動き出し、怒号を上げて魔術を放った。火の球や細く尖った鉄の塊が一斉にサーネルを襲う。


 それを彼は、片手をかざすだけで破砕した。


「邪魔をするな!」


 しんと静まり返る。勇敢なはずの騎士たちでさえびくりと固まる。


 彼の視線がプリーナへ戻る。けれどそこに視線は返されなかった。


「でも、わたし……キスを、したわ。疼きを堪えられなくて、焼いて切り裂いた相手の唇を……わたしはこんな血まみれで、醜い……」


「関係ない!」


 プリーナは弾かれたように目を上げた。喉が裂けてしまうんじゃないかというほどの大声だった。サーネルは屋根の上に立ったまま、さらに叫ぶ。


「君は皆のために戦ったんじゃないか! 愛する人たちを守りたくて、考えるより先に飛び出したんだろ! それのどこが遠ざかってるって言うんだ! 何百回だって言ってみせるよ。君はちゃんと、近づいてる!」


 ああ、どうして。ほんの少しの言葉だけで十分だったのに。


 どうして、あなたはそんなに――。頬を熱が伝い、ずっと強張っていた頬が、わずかばかりほころんだ。


 短剣を下ろす。フードを取り払う。


「ねえ、サーネル。聞かせて」


 そしてプリーナは、尋ねた。


「あなたは自分を、好きになれたの?」


 サーネルが目を見張る。獰猛な眼光が消え、よく知る少年の顔が現れる。


 彼は笑って息をつき、ゆるく首を振った。


「まだ全然だよ。はっきり言えば、前よりもっと嫌いになったかな。でも――」


 風が髪を撫でる。心に平穏を流し込むような、やわらかで優しい風が。


 今度こそ胸を張って、サーネルは答えた。


「いつか必ず、好きになるから」



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