21. 色めき立った小鳥たち
2019/01/26 改稿しました
……頭が痛い。
二人の女の子が瞳を揺らしていた。
白髪に褐色肌の少し痩せた子。桃色の髪に白い肌をしたふっくらほっぺの女の子。ララとリリ。サーネルをよく慕う愛らしい魔族だ。
ぼくが一歩踏み出すと、二人は一歩後ろへ下がる。でも、少しずつ近づいていた。
「サーネル、お兄ちゃん……?」
「ぼくはサーネルじゃないよ。聞いてたんだよね」
ぎゅっと引き絞られたみたいに頭が痛い。魔術で脳を揺さぶった時のダメージが残っている。お腹と背中は抉れたままだし、膝も肩も腕も片方ずつ壊されていて、本当は立っているのもやっとだった。
「や、やだよ……来ないで」
震えた声。怯えた顔で首を振り、ララが今にも泣き出さんばかりに懇願する。ちくりと胸が痛み、足が縛られたように固まってしまう。
ダメだ、惑わされるな。子どもみたいな姿に騙されちゃいけない。二人は魔族。容赦なく人間を殺し、罪悪感のひとつも抱かない化け物だ。荒野に転がる二つの死体のうち一つは、ララとリリが作ったものだった。
殺したくない。当たり前だ。無邪気に笑いかけてきた子どもたちに手をかけたいわけがない。でも――逃げられたら最期なのだ。裏切りがばれてしまったら、魔族から命を狙われて、人々を救うどころじゃなくなる。何もかもおしまいだ。それなのに体が思ったように動いてくれなくて、より一層焦りが募った。
ユニムに勝てたのは奇跡のようなものだ。運がこちらに向いていた。けど、ここで倒れてしまったらその幸運すら何の意味もなくなる。今が正念場だ。あの二人を仕留めてようやく、この危機は――。
「あれぇ! サーネルだぁ!」
声がした。目を見開く。
荒野の先。遠い山稜を背景に四つの影が歩いてくる。人の子のような姿をした――多分、魔族たち。
ララたちといっしょに来ているという子どもたちに違いなかった。
当惑。恐怖。そこから生じた一瞬の隙を突かれた。
「助けて、助けてぇ!」
「死ぬのヤだぁ! ヤだよぉ!」
「!」
ララとリリが叫び、同時に走り出す。
やってきた四人の子どもたちはぽかんとしていた。状況が飲み込めていないのだろう。ぼくはそれを利用するべきだった。
でも、面食らったぼくは焦りに焦って、この場で一番やっちゃいけない行動に出る。
「待てっ!」
ララたちを追う。手を伸ばす。すぐに追いつき、リリの頭を掴んだ。
――そう。子どもたちの前で、リリの頭を砕いてしまった。
「いやあああっ!」
絶叫。子どもたちが一斉に逃げ出す。いや、ララだけ残っていた。がたがたと震え青ざめて、地面にひざをついてしまう。
そんな姿を前にしても、ぼくは前に立つしかなかった。彼らを追う前に、ララを片付けておかなくちゃならない。
手を伸ばす。ぎゅっと唇を噛み、掌から火花を散らす。
「やだ、やだぁ! 来ないで。やめてよぉ!」
でも、できなかった。
「やだよぉ、やめてよぉ……怖いよ、怖いよぉ」
小さな体が恐怖に震える。頭を抱えて泣きじゃくる。
そこへ手を伸ばして頭を砕くなんて、できるわけがなかった。
ララが泣いている。ぼくは動けない。息が詰まって、肩が激しく上下し始める。
やめて、やめてよ。そんな反応をしないでよ。ユニムみたいに自分勝手に襲ってきてよ。じゃなきゃぼくは。
泣かないで。怖がらないで。そんな声を聴かせないで。
じゃなきゃ、ぼくは。
――そしてそれは、突然に起こった。
きっと、既に限界は来ていたのだ。プリーナに助けられて、それが少し先延ばしになっていただけで。
頭に激痛が走る。さっきのダメージだ。強烈な吐き気に襲われる。
胸がうずく。体がふらつく。息が苦しくて涙が漏れた。
そうして、ぐらりと視界が暗転した。
……あれ。なんでぼく、こんなことをしているんだっけ。
――死にたくない!
――いでえよお!
――やめてえっ!
ふいに、幾度となく聞いてきた断末魔が蘇る。目の当たりにしてきた、いや、この手でもたらしてきた死の数々が目の裏に現れる。悲鳴が、懇願が、恐怖が、激怒が――頭の中でぐちゃぐちゃに混ざって全てを埋め尽くす。
殺さないで。許さない。どうして。裏切り者。痛いよ。やめて。助けて、助けて、助けて、助けて!
――どうした。殺さねえのかよ。
「うるっさいんだよ、お前らァ!」
ぼくは左手を額に押し付けた。火花を散らし、再び頭に衝撃を与える。それでもう、何も考えられなくなった。
視界が戻る。ララはまだ泣きじゃくっている。
心は動かない。ただ、手が伸びる。
しかしてぼくは、逃げ去った四人の子どもを追い始めた。
*
海辺の岩場を子どもが逃げていた。髪の長い気の弱そうな女の子。それを人型の魔族が追っている。
髪がない。足にも腕にも毛がない。つるつるとした肌は異様に青ざめていて、目は赤一色。激しく息を吐く口には立派な牙が生えていた。あれが人間であることはまずないだろう。
プリーナは岩場に接した崖の上からそれを見下ろしていた。マントの中で宝剣に手を添える。目を閉じ息を整えた。
「やっと見つけたわ」
お腹の下の方がむずむずする。体が熱くなって吐息が漏れた。やっと。やっと殺せる。
輝きを放つ剣を抜き空を引き裂く。空間に裂け目ができ、たちまち穴ができた。飛び込み、魔族の前からいきなり姿を現す。
「ぎっ? な、なんだぁお前は!」
背後の子どもはプリーナには気づかない。必死に逃げていく。それでいい。でないとプリーナは自分の心を鎮められない。
「わたしはプリーナ・ワマーニュ。マリターニュを守る領主の娘よ」
そう。これは自分の心を鎮める作業。人々を救い続けるために支払った代償。
彼女は町を守るべく魔族を殺し、その快楽に目覚めた。お腹の疼きはいつも止まず、苦しげな声を聞けば体が熱くなる。これは呪いだ。理想の自分に近づくための、果てのない呪いだった。彼女は後悔しない。どれほど醜くなったとしても、きっと理想へ近づけるから。
魔族を殺し続ければ、きっと自分を好きになれるから。
繊細な金色をした、二束のお下げがふわりと浮き上がる。マントがなびき、宝石を散りばめられた短剣が赤い輝きを放つ。
戸惑い固まる人型の魔族に、プリーナはぞっとするほど優しく微笑んだ。
「とっても辛いと思うけれど、なるべく長く、苦しんでいってね」
赤い、糸のような炎が伸びる。それは魔族の鼻先に触れると、たちまち激しく燃え広がった。
「ぐあああっ! あづ、あづいいいっ!」
炎の中で影が踊る。これでは多分死ねないだろう。同時に体が傷んで動けなくもなる。そう調節した。
やがて火が消え、黒焦げになった魔族が倒れる。剣を逆手に構えつつ、近づいていく。
そのとき。
――よかった、プリーナ様!
声が聞こえた気がした。
「……エラリア?」
きょろきょろと周囲を見回す。岩場、海、崖、岩山……人影はない。人が隠れられそうな岩はいくつもあるけれど、まさかそこにエラリアがいるはずもないだろう。彼女は町で待っているはずなのだから。
息をつき、改めて魔族を見下ろす。今見せた隙は大きかっただろうに襲いかかってくる気配はなかった。それならもう大丈夫だろう。もちろん警戒はしつつ、黒焦げの体に馬乗りになった。
「まだ声は出せるかしら」
「ひぃぃっ?」
「――よかった」
プリーナは妖しげに笑う。短剣を振り上げ、ゆっくりと下ろした。
そこに注がれる、愛しい家族の視線にも気づかずに。
*
剣を下ろし、抜き、下ろして、また抜く。最後に細剣を置き掌を添え、頭を砕いた。
馬乗りになったぼくの下で、首なし死体が出来上がる。これで四つ目。あとは一人だ。
なんだか視界が狭い。視野の周りがやけに暗くて、黒い渦を覗きこむような感じになっている。頭も痛いし吐き気もおさまらない。でも、体は勝手に動いてくれた。
置いた細剣はユニムのもの。ちょうどいいから奪ってきた。
耳の中ではいくつもの声が響いていた。やめて、助けて。阿鼻叫喚の嵐だ。けどそれもやけに遠い。おかげで全く気にならなかった。
――見えた。最後の一人が大きな岩の陰から飛び出し逃げた。自分がどこを歩いているのかもわからないけど、あれが見えていれば十分だろう。
足を生やして一気に跳ぶ。さらさらとした赤髪の、最後の子どもと距離を詰める。魔力なんて気にしない。どうせ最後だ。あれを倒せば全て収まる。
細剣を投げつける。足に刺さって子どもが転んだ。ぼくは腰を低くしたまま滑るように着地して、同時に子どもの頭を掴む。これで最後だ。これを破砕すれば、大きな危機は過ぎ去ってくれる。
呼吸を止める。腕に力を込める。あくまで心は動かさず、掌から衝撃を――。
「?」
おかしい。放てない。あと少しなのに。これで終わるのに。どうして?
……そうか。魔力が尽きたんだ。
笑みがこぼれた。本当についていない。でも、今のぼくはどうかしている。頭も心も動きやしないのだ。
どうしたらいいだろう。何も思いつかない。何も考えられない。それがおかしくて、笑いが止まらない。
子どもがぷるぷると動き出す。これはいけない。このままじゃ殺せずに逃げられてしまう。せめてどうにか足止めを。
「……ああ、そうだ」
ぼくはひどく冷静に、子どものふくらはぎに刺さった細剣を抜いた。
「魔力が戻るまで、待ってればいいや」
それまでこの子を足止めしておこう。ぼんやりとそう考える。
視界がまた狭くなる。雑音も遠く、意識も離れていく。
その中で、ユニムの細剣だけが正確無比に振られていた。
――それから、どれほどの時間が経ったのだろう。
気づくとぼくは海を見渡せる岩山で倒れていた。
起き上がる。傍には乾いた血のこびりついた細剣。右手はまだ治っていないけど、お腹や頭の痛みは引いていた。
後ろに付いた左手にべっとりとした感触がある。振り返って、ぼくは息を呑んだ。
「――これ、は」
一瞬、それが何なのか本当に分からなかった。けど、知っている。これが何であるのか、ぼくはとうに心得ていた。
口元を押さえる。吐き気がこみ上げ、近くの崖へ走る。ぼくはこの体で初めて、実際に胃液を吐いた。
「……ぼくが、やったの?」
ばくばくと心臓が音を発する。息が乱れて、全身から汗が噴き出す。
急速に記憶がよみがえる。ぼくのしたこと。魔族の子が迎えた凄惨な最期が、頭の中の全部を押し流すようにあふれだした。
最後の子どもを追い詰めて、でも魔力が尽きてしまって。それで、ぼくは。
魔力が戻るまでの足止めとして、子どもの体をずっと――。
胃が痙攣した。何度もえずきながら、ぼくは子どもの最期を思い出す。
違う、違うよ。ぼくはあんな……あんな仕打ちまでするつもりじゃなかった。
「あ、あああ……」
遠くから声が迫ってくる。殺してきた魔族たちが。悲鳴が。怒りの叫びが押し寄せてくる。
ぼくは世界を救いたくて。人々の日々を守りたくて。ただ、それだけで。
イヤだ。もう考えたくない。ぼくは世界を救うんだから。それだけ考えていればいいじゃないか。
そうだ、そうだよ。簡単な話だ。
どれだけの死をもたらしても。阿鼻叫喚の嵐を招いても。結局最後は一言で終わる。
ぼくは歯をガチガチと鳴らしながら笑みを作って、たった一人、呟いた。
世界を救えば、別だよね?
*
空を見上げる。風にフードを剥がれた。
こぼれる砂のようにさらさらとした金の髪を揺らし、プリーナはうっとりと息を吐く。海辺の岩場で、彼女は焼け焦げた死体に跨っていた。
ひとまず欲求は満たされた。ほんのり体が熱いけど、これは余韻だ。たくさん味わい尽くしたからしばらくは平気だろう。
血まみれの体で立ち上がる。体を洗ったら町へ帰るつもりだった。
これはプリーナにとっての日常。魔族殺しは生活の一部となっている。
きっと、当たり前になりすぎたのだ。だから警戒を怠った。殺気や悲鳴ばかりを探して、愛ある視線に気づけなかった。
「プリーナ、様……」
息が詰まった。声をかけられるまで、近くに人がいたなんて思いもしなかったから。
声に遅れて足音が近づく。幼い頃から聞き慣れた真面目そうな声、軽い音。振り返るまでもない。でも、確かめずにはいられなかった。
「――エラリア」
薄緑のケープを羽織った赤毛の少女――キツネを思わせる糸目をしたかけがえのない家族が、ごつごつとした崖のそばに立っていた。
エラリアは言葉を失い、一目で分かるくらい青ざめている。でも何とか――そう、きっと何とか無理やり笑みを作って、少女は進み出た。
「申し訳ありません。ついてきてしまいました」
事情を飲みこむのは簡単だった。エラリアは本当にいい子だから、プリーナが一人戦うのを黙って待っていられなかったのだ。どうやって町を抜け出したかは置いておくとして、主人を想った故のこととはすぐに分かった。
けれど今、少女の脚は震えている。
見られてしまった。魔族を殺すところを。
殺しの悦楽に浸るところを、一番見られたくなかった子に見せつけてしまった。
声を出せない。プリーナは血の付いた剣をしまう。それから一歩――否、半歩とも言えない程度の歩幅で踏みだした。
「ひっ」
目を見張る。プリーナも、エラリアも。
今のは、エラリアの声だった。
赤毛の少女はぎゅっと自分の服を掴み、前に出る。
「あ……あの……大丈夫です。今のは誤解です。あたしはあんなの平気です。だってプリーナ様は皆のために」
けれど、その声も身体もガタガタと震えていて、プリーナが近づく度びくりと肩が跳ねる。それでも少女は前に進み、ついに互いに触れられる距離までたどり着く。
「ほ、ほら。見てください。あたしは平気です」
その目には涙がたまっていて。でも、プリーナは気づかない振りをする。
もしかしたら、本当に受け入れてもらえるかもしれない。頭の片隅でそんなことを想いながら。
「――エラリア、わたし」
恐る恐る、手を伸ばした。
「イヤぁ!」
パシリと手を払われる。
伸ばした手はその場で固まり、ひりひりと痛みを訴える。エラリアは自分の反応に驚いた様子で、ついに尻もちをついてしまった。
「あ……ああ……ごめ、ごめんなさいプリーナ様……あたし、あたし……こんなつもりじゃ」
じりじりと後退し、エラリアはじたばたと立ち上がって逃げ出す。その後ろ姿に声をかけることなんて、プリーナにはできるはずもなかった。
金の髪の少女は立ち尽くす。海の音を聞きながら、震えを堪えるように唇を噛んだ。
いつかこんな日が来るとは思っていた。自分はこんなに醜いのだ。受け入れられるわけがない。
神様には背かなかった。信念は曲げなかった。けれどもう、プリーナは人間じゃない。人から愛される日は、きっともう、訪れない。
そういえば、どうして魔族殺しを始めたのだったか。もちろん人々を守るためではあるのだけれど――。
答えは分かっている。知らない振りをしていたかった。
血で濡れた手で顔を覆う。べっとりとした感触が体の奥を熱くさせる。それが悲しみのせいか興奮のせいかも、プリーナには分からなかった。
「……ごめんなさい。エラリア」
ごめんなさい、ごめんなさい。プリーナはひざを付いて、何度も何度も、同じ言葉を繰り返すのだった。
*
ぶつぶつと意味のない言葉を繰り返す。
魔族たちが休みなく叫んでいる。ぼくの頭の中で、悲鳴や怒号の塊のようなものが出来上がっていた。
ぼくは海辺の岩場を歩いていた。目的なんてない。立ち止まっていたら気が狂ってしまいそうだからぶらぶらしているだけだ。
ああ、うるさい。いつまで騒いでるんだよ。くつくつと笑って阿鼻叫喚を聞き流す。
赤毛の少女が駆けてくる。人間だ。それなら用はない。無言ですれ違う。向こうもこちらには気づかなかったようだ。
しばらくすると崖が見えてきた。その手前に皮のマントを着た金の髪の少女が座り込んでいる。傍には焼け焦げた死体が転がっていた。
「――プリーナ」
近くまで来てようやく分かる。ぼくの呟きに気づいて彼女も力のない素振りで振り向いた。お互い血まみれだった。ぼくの顔を見て、どこか疲れたように笑う。
「ねえ、サーネルは」
プリーナはいった。ぼくは立ち止まり、黙って先を促す。
その先に続く問いが、ぼくの心をめちゃくちゃにかき乱すことも知らないで。
「――自分を好きになれそう?」
答えられなかった。
放心したように彼女を見返し、ぶつぶつと口の中で声を転がす。
胸の奥で、ガラスの割れるような音がした。
世界を救えば、世界を救えば……そう言い聞かせて、たくさんたくさん殺してきた。恐怖と痛みを築き上げ、愛らしい子どもさえ嬲り殺しにした。
まぶたの裏で、誰かの象徴みたいなポニーテールが揺れるから。
自分を憎むのをやめたくて、自分を好きになりたくて、戦ってきたんだ。でもそれは、今一番思い出したくなかったことで。
だって今ぼくはどうしようもない化け物で、魔族さえ恐れさせる醜悪な存在で……だから、気が狂ったふりをしてまで、何も考えないようにしていたのに。
お腹の底から叫びが漏れる。地獄から伸びる手みたいにおぞましい、怪物みたいな叫びが口から塊となってあふれだす。
ぼくは逃げ出していた。何度目か分からない、情けない背中を晒して。
やっと戦えるようになったのに。ユニムにだって勝ったのに。
今もまだぼくは、元の世界にいた頃のままだ。
ぼくは結局、何ひとつ成長できていなかった。