20. 熱した鉄のごとく
2019/01/26 改稿しました
空が重たく曇っていた。
山稜を見渡せる広々とした荒野で、肩からお腹にかけてを斬られたぼくと、細剣を構え歪んだ笑みを浮かべたユニムが向き合っていた。それを小さな二人の魔族、ララとリリが怯えながら見守っている。
傍には背中に風穴の空いた男性の死体が転がっていた。護身用らしい短剣を腰に提げていたようだけど、それが引き抜かれることはなかった。
「あなたは何人もの魔族を殺しました。これは裏切りですよ。もはやあなたが本物か偽者かなど取るに足らない問題です」
「サーネルお兄ちゃん……本当なの?」
「黙っていて下さい! 今は私と彼が話しているんだ!」
ユニムは容赦なく怒鳴りつける。ララとリリはびくりと肩を跳ねさせ黙り込んだ。
どうする? 逃げる? いやダメだ。ぼくのしたことがばれている以上それはまずい。たくさんの魔族から命を狙われることになりかねない。けど、勝てるのか? 魔力もほとんど使ってしまった今の状況で。
肩を押さえながら後ずさると、ユニムがぎりぎりと歯を鳴らした。
「あなたは何か勘違いをしているようですね」
細剣が突き出される。ぼくは咄嗟に飛び退いた。
けれどその動きを予知したかのように迷いなく剣が伸び、ぼくの腕を貫いた。
「痛っ……!」
「勝機を探るその視線! 実に不愉快だ! もはや戦いの算段をつける状況じゃないんですよ! 全てを諦めて首を差し出す時です! 泣け、喚け! それだけに集中しなさい! 今のあなたにできるのはそれだけだ!」
天使のような羽を生やして、怒号を上げる形相は悪鬼のよう。けどそれを皮肉る余裕なんてあるわけもない。必死に後ずさり距離をとる。
ユニムはたちまち迫ってくる。ぼくはハッタリのつもりで肩に力を込める。無数の腕を解き放つ時の予備動作だ。彼でもこの魔術は脅威であるはず。退くだろうと期待していた。けれど。
「ああ……本当に不愉快だ」
ユニムは引かない。躊躇うこともなく蹴りを放ち、ぼくのお腹を強烈に抉った。衝撃で吹っ飛び球のように転がされる。
「また私をたばかろうとしましたね。この私にハッタリが通じると思ったんですか? 今のあなたに大規模な魔術は使えない。見れば分かります」
うつ伏せに転がったぼくの手を、黒いブーツを履いた足が踏みにじる。
「ぐぁぁッ!」
「諦めろ、諦めろ、諦めろ! 涙を流して詫びろ! 死にたくないと懇願しろ! そのサーネルの顔で惨めな姿を晒してみせてくださいよ!」
顎を蹴り上げられ、視界がぐらりと上に移る。ユニムの持つ細剣が熱した鉄のように熱く輝きを帯びていた。
瞬時に悟る。あれは魔術だ。あれで斬られたらこの体でも治らない。
やはりクヌールの時とは訳が違った。立ち止まることなく振るわれる魔術がどれほどの脅威であるか、相手にしてみて初めて実感する。
けど、まだ魔力が完全に尽きたわけじゃない。
肩から腕を生やし思い切り跳びあがる。勢いをつけて一気に距離を取り――。
「だから、諦めろと言ってるんですよ!」
それに合わせるようにして細剣が投げられた。
なおも熱く光る切っ先がぼくを追い、お腹に突き刺さる。全身を内側から焼かれるような痛みが走り抜け、声も上げられずに背中から落下した。
下ではユニムが待ち受けていた。ぼくが乾いた地面に落ちると、お腹から剣を抜き、傷口を踏みつける。
息が苦しい。痛みのせいじゃない。本当にお腹が傷ついて呼吸が浅くなっている。
「どうです! 分かりましたか! あなたに勝機など残っていない! 私は無駄な抵抗をされるのが一番嫌いだ! これ以上余計なことを考えるなら、より苦しんで死ぬことになりますよ!」
癇癪を起こすように叫ぶユニムは、その実冷徹にこちらの次の動きを見極めんとしている。その視線は一点には留まらず、腕、足、顔、指の先、周囲の地面と、あらゆる範囲を常に観察しているようだった。
察してはいたけど、やっぱり動きが読まれている。ユニムの観察眼はこちらの表情を精細に読み取って、次の動作どころかその狙いまで正確に予測してくる。ただでさえ動きも魔術も速いのに、これでは本当に手も足も出ない。しかも彼は飛べるのだ。仮に魔力が残っていて無数の腕を放てたとしても、きっと先読みされて躱されていただろう。
今のところ、炎を放つわけでもない。腕力や体の硬さがずば抜けているというのでもない。達人的ではあるものの、その動きは人間とそう変わらない。身体的な能力で言えばこちらのほうが圧倒的に優位のはずだ。
けど、強い。今のぼくよりも確実に。
だからって、諦めるわけにはいかない。
「うあああああああ!」
背中から腕を生やし、無理やり体を起こす。足を乗せていたユニムは転倒――するかと思いきや、既に体を引き、熱した鉄のごとき細剣を構えている。
ぼくは目を閉じる。こうなったらがむしゃらだ。表情を読まれるというのなら、狙いなんて決めずに襲いかかるしかない。肩からも何本か腕を生やし、全部の掌から火花を散らして前方へ伸ばす。
「くだらない」
腕の先は、空気を掠めただけだった。
目を開けるとユニムの姿はない。背後で足と地面が擦れる音がして、直後背中を切り裂かれた。また、傷口から全身へ焼かれるような痛みが広がる。
「私の部下ならそのような手は取りませんよ。全く嘆かわしい。この程度の者が魔王城に入り込んでいたとは」
膝から崩れ落ちる。口から血の塊がこぼれた。お腹の傷はやはり治らない。
この傷も背中の傷も致命傷じゃない。この戦いの最中というのは無理でも、治癒していく気配はある。だからユニムにさえ打ち勝てれば、生き残ることはできるはず。
だけど――。
「おや。ようやく諦めて下さいましたか」
「……うるさい! まだだ!」
無理やり立ちあがって振り返り、後ろのユニムへ掌を伸ばす。
「そうですか。ですが」
一閃。その手を切り飛ばされた。狼狽えて後ずさる。
「……!」
「攻撃に身が入っていませんね。既にあなたは諦めている」
――当たり前だ。
攻撃は躱せない。こちらが動けば避けられるか返り討ち。狙いに行ってもダメ、がむしゃらに向かってもダメ。激しい態度とは裏腹に、丁寧に慎重に一つずつ打つ手を奪われる。残された策なんて一つもないに決まっていた。
だからといって四肢を投げ出して死を待てるほど潔くなれるはずもない。まだぼくが動くのはその程度の理由だ。
「一つだけお聞かせ願いたい」
ユニムはいった。
「その身体はあなたのものですか? それとも――」
ぼくは手首から先のない右腕を抱え後ろへ引く。敢えてだろう、ユニムは詰めてこない。
今さら隠しても無意味だろう。目を逸らし答える。
「多分サーネルのだよ。少なくとも、ぼくはこんな体じゃなかった」
大魔王を信じ込ませたのだ。この体が偽物であるなんてこと、ほとんど有り得ないように思う。
「なるほど。よく分かりました」
ララとリリは怯えを忘れないながら驚いた様子で話を聞いている。対照的にユニムは納得した面持ちで頷いた。対峙して戦えば、これがサーネルの体であることが嫌というほど伝わっていたのかもしれない。
彼はじっと目を閉じる。何かを考え込むように、じっと静かに。それが葛藤による仕草に見えて、ぼくは悪魔に心を売る思いで尋ねてみた。
「もしかして、サーネルの体は斬りたくない?」
無理やり口元を歪めて笑ってみせる。
ユニムはすぐには答えなかった。迷うように黙り込んで、深く息を吐く。
しかして目を剥き大声を上げた。
「まさか! むしろ逆です! サーネルの体を切り刻めるなら本望だ! 私は彼が大嫌いですから!」
剣の切っ先が向かってくる。肩を、胸を、腿を突かれ、たまらず後ろに倒れる。燃え上がるような激痛にかき消され、背中を打った衝撃すら感じられなかった。
「彼は魔族の恥さらしだ。魔王様の息子とはとても思えない、どうしようもなく醜い男でした。彼の死が噂された時、どれほど自身の不運を呪ったことか! 私はずっと昔から、この手で彼を葬りたいと願い続けてきたんですよ!」
ユニムは口が裂けるほどの笑みを浮かべ、細剣を構える。振り下ろされる瞬間、ぼくはほとんど無意識に背中に手足を生やしていた。それらを蜘蛛のように動かして逃げる。細剣は届かなかった。
その体勢のままララとリリのいる場所へ走る。転がる男性の死体から短剣をもぎ取り、歯を使って鞘を抜き放り捨てた。
前方から砲弾のような影。ユニムが跳びあがり襲いかかってきていた。熱した鉄のごとく光る細剣がまっすぐに下ろされる。
「前言撤回です! 最高の気分だ! あなたのおかげで念願が叶う!」
短剣で受けて立つ。けどこちらは片手。勢いの付いた一撃を堪えられたのはほんの一瞬だ。すぐに力負けして短剣の刃がぼくの額にぶつかる。固い衝撃が頭の内側を思い切り揺さぶった。
メキメキと音を立て、剣が頭にめり込んでいく。思考が滅茶苦茶になる。口からわけのわからない言葉が漏れる。
「ああ……いいです! いいですよ! 面白い反応をしてくれる!」
短剣にかかる重さが急に消え、代わりにお腹にかかとを叩きこまれた。背中に生えた手足がもげ、荒れた地面に踏み落とされる。衝撃で短剣が抜けて、同時に思考が復活した。
「本当に気分がいい。ですがすみません、楽に殺して差し上げることはできないようだ。仕方がないでしょう? あなたが斬り甲斐のある姿をしているのが悪いんですよ」
苦しい。痛い。頭がおかしくなりそうだ。こんな状態で、こんなやつにどう勝てって言うんだよ。
それでもぼくは立ち上がる。まだ死ねない、そんな思いだけで。
――そうだ。まだ死ねない。だってここで死んだら、ぼくは。
まぶたの裏で、ポニーテールが揺れた。
渾身の力で、叫ぶ。
「あああああああ! ユニムゥゥゥ!」
武器を構え、ふらふらの体で襲いかかる。余裕を見せて直立するユニムに、走り出した勢いのままに短剣を突き出した。
その身体が横に逸れ、またさっきのように細剣を――。
「!」
けれど、ユニムの剣は振るわれなかった。
代わりにぼくの短剣が彼の首に刺さり、深く抉っている。
「お……ぐ」
彼の口から血が噴き出す。痛みに目を見開き、硬直していた。
今だ!
ぼくは剣から手を離し、その掌をユニムの頭へ伸ばす。
「――ァアア!」
ユニムはしわがれたおぞましい声で叫んだ。咄嗟の動きで足を振り上げ、ぼくを真横へ蹴り倒す。あばらを抉られ、ぼくはたまらず体を折って呻いた。
一歩二歩と後ずさる音。首から抜かれた短剣が転がる。ユニムはひゅうひゅうと喉を鳴らして息を切らせた。
「よく……も……!」
ぼくはまたふらふらと立ち上がる。憎悪の眼差しを真っ向から受け止め、まだ無事な左腕を構える。クヌールから向けられた怒りに比べれば、こんなのどうってことはない。
何とか魔力は残っている。自分を励ますつもりで掌から火花を散らした。
片足を引きずるように走り出す。ユニムは喉を押さえて細剣を構える。
今度こそ、頭を砕く!
「そう何度も……都合のいい偶然が続くと思うな!」
ユニムの言葉の通りだった。
今度は見事に胴を切り払われ血が飛び散る。さらに顔面に蹴りを喰らい吹っ飛ばされた。
いい加減傷つきすぎた。立ち上がることすら厳しくなってきている。対してユニムに付けた傷は既に治り、無いに等しい。
偶然。やっぱり偶然だ。それはそうだろう。さっきまで手も足も出なかった相手に、何の策もなくいきなり勝てるわけがない。
でも、何か引っかかった。
……偶然? それだ。それが引っかかる。そんなことがあるのか? あのユニムを相手に? 全ての偶然を潰せるからこそ、彼は人間と変わりない動きでも無慈悲なまでの強さを誇るんじゃないのか?
「もういい、ここまでです。名残惜しいですがこれ以上抵抗されてもつまらない。次の一振りで苦しむ間もなく終わらせて差し上げましょう」
ユニムの細剣が輝きを増す。赤く鋭く熱を増し、光の剣のような見た目になる。あれに斬られたらきっと、今度こそおしまいだ。
ぼくは唾を飲み、左手を上げる。
そしてそれを、額に向けた。
「……本気になるのが遅かったね」
呟き、掌から密かに火花を散らす。
これは賭けだ。勝つ見込みなんてありはしない。けど、最初の状況よりは幾分かマシと言えるだろう。
ほんの少しでも勝機があるのだから。
頭に向けて魔術を放った。数々の魔族を砕いてきて、掌から衝撃を放つだけのシンプルな魔術だ。それを今、できる限り力を抑えて自分の頭に放った。
ぐらぐらと頭の中が揺れる。中身をぐしゃぐしゃにかき混ぜられたみたいな感覚があって――でも何とか、正気は保てた。
「何を……?」
ユニムの戸惑いになんてもちろん構わずぼくは駆け出す。向こうもすぐ臨戦態勢に戻る。
ぼくは両肩から手を生やし、ユニムは光の細剣を構え、互いに距離を詰めていった。
あと五歩。あと三歩。互いの間合いはすぐそこだ。
ぼくは首へ目がけて手を伸ばす。ユニムはさらに前へ踏み出す。
あと一歩。瞬間、ぼくは両足からさらに足を生やそうとする。
けど、出なかった。
「――何っ?」
ぼくの動きに反応しようとしていたユニムが面食らう。無理もない。だってこれは、ぼくにだって予測できなかったことだ。
さっきぼくがユニムの首を刺した時――あの直前、ぼくは頭を抉られていた。だから自分の思ったように動けずユニムの意表を突けたのだ。
がむしゃらに向かうのとは違う。ぼくはあの時、本気でお腹を刺しに行った。でも体の動きがおかしくなっていたせいで狙いが逸れ、首へ向かった。ユニムは敵の狙いを読むことに慣れ過ぎているのだろう。それが却って誤った動きを導いた。
さっき頭を揺さぶったのもそれだ。彼の先読みがまた、彼自身の首を絞めた。
間合いに入った。ぼくの手が首――ではなく頭に向かう。ユニムの剣はわずかに狙いを外し、ぼくの首の傍で空を切る。
掌の中で火花が散る。――頭を、掴んだ!
「終わりだよ、ユニム」
「っ……!」
破砕。ユニムの頭が弾け飛ぶ。
荒野が静まり返った。ほんのひと時、風の音すら聞こえなくなる。熱を持った細剣が、みるみるうちに冷えて鋼の姿を取り戻す。
やがてユニムが仰向けに倒れた。
首を失ったユニムの体はもう動かない。ぼくはしばらく呆然とそれを見下ろし、ふらりとよろめいて尻もちをついた。
「勝った……の?」
実感がわかない。でも確かにユニムは動かない。わずか数秒前までぼくの命を奪おうとしていたなんて考えられないくらい、首を失った彼の姿は現実味に欠け、静かだった。
「勝った……そっか、勝ったんだ」
ぼくは危機を乗り越えた。死地を切り抜けたのだ。どっと疲れが押し寄せ息が漏れる。
――でも、まだだ。
これで終わりじゃない。危機が完全に去ったわけじゃない。
だってまだ、殺し切れていない。
冷たい風の吹きつける乾いた大地の真ん中。そこにはまだ、ぼくを除いて二つの影が立っている。
ぎろりと、視線を向けた。
ララとリリ。怯えた様子の子どもたちが、まだこの場に残っていた。