9. 一抹の不安
2019/01/21 改稿しました
魔王が踏み出す。その度に、ユニムとコンズの顔が固く強張っていく。ハイマンも茶化すような声など一つも上げなかった。
「ブラムスゥ? なんたってお前さんが出張ってくるんだあ?」
煙の中から出てきたガラードだけが、今まで通りの調子で話しかける。
「サーネルの偽者が出た、と聞いたが。こやつのことか」
勇ましい声が問うた。
「そいつを確認するためにわざわざ出て来たのかあ! 戦でもねェってのに珍しいこともあったモンだ! がっははは! そうとも、この小僧が件の偽モンだ。本物のサーネルは命令通りワシが殺したからなあ!」
闇の奥から、息をつくような音が微かに聞こえた。
「こやつはサーネルだ」
「……何ィ?」
「偽者などではない、その身は確かにサーネルだ。姿形、魔力の流れから生命力、血の一滴に至るまで、こやつはサーネルに相違ない。魔術によるまやかしを疑うか。だが、そのようなペテンは我には通じぬ」
「…………」
天から落ちる声のようだった。重々しく告げられるその言葉には、ガラードすら反論できない。
「ガラード、貴様が嘘を言うとも思わん。貴様は仕事を半ば果たし、しかし最後にサーネルの生命力を見誤った、それだけのこと。その愚を責めはせん。貴様の強さは心得ている。なればこそ、サーネルの処遇を見直すこととした」
黒い霧の奥で、巨人の影が杖をつく。土を突いたとは思えない、金属同士がかち合うような高音が響いた。その傍らで空間に裂け目ができる。元々『扉』があったのか、今作り出したのかは分からなかった。
身を翻し、裂け目に踏み込みながら魔王は言い残す。
「ここで簡単に死を受け入れるようであれば、口を挟むつもりなどなかったが……サーネルは強さを示し、往生際の悪さも見せつけた。であれば、こやつがどのような在り方を望もうと口は出さぬ。先の命は忘れよ」
魔王は穴の中へと消え、やがて裂け目もきれいに閉じた。
残されたのは沈黙と、緊張から解放されてのため息のみ。
これって――どういうこと?
地に伏したままのぼくは、あまりに唐突な展開に呆然とするばかりだった。
「え? じゃあつまり、全部アンタの早とちりってこと?」
「魔王様が言うんだから間違いないよね。どんな魔術を使ったってあの目は誤魔化せない」
「……」
「そうよね。ってことはこれ、サーネルなんだ。……あはは」
「ガラードさん強いからなあ。自分が殺し損ねるなんて考え自体がなくなってもしょうがないよ」
「…………」
「いやアタシも信じちゃったけどさあ! ホントこの時間なんだったわけっ? あー、もういいやくだんない。アタシ戻るわー」
「僕も寝るよー、おやすみー」
「……………………」
ガラードは放心していた。体の治り始めたぼくが立ち上がると、無言のまま目が合う。
「なあ」
「がっははははははは! まあたまにはこういうこともある! なんだお前さん本物だったかあ! 生きとってよかったなあ! 魔王様直々の命令も解けたっちゅうことで、めでたしめでたし! わはははは! ――じゃっ!」
包帯の怪物はぴっと掌を立てると、文字通り音速で走り去っていった。
取り残されたぼくは、もう一人、残ったユニムへ振り向く。苦笑しようとして、サーネルとしては不自然かもととりあえず服を整える。またボロボロだ。
まさか、他ならぬ魔王に命を救われてしまうなんて、なんていうか、酷く複雑な気持ちだった。それを言うならメニィには何度助けられたか分からないけど。
いや、しかし。完全にめでたしというわけにもいかないかもしれない。
さっきからユニムが目を逸らしてくれないのだ。明らかに納得していない。
嘘を見抜く灰色の瞳。たばかりを払いのける観察眼。ぼくは既にその目に見破られている。浅はかな策を叩き潰されていた。
けど、魔王の言葉に異を唱えることもできないのだろう。やがてふっと目を伏せると、無言で踵を返し、ぼくを残して去っていった。
どっと汗が噴き出す。というか、もう立っているのも辛い。戻るのは諦めて、土の上で横になる。怪我は治っても疲労は蓄積されていた。もちろん、恐怖も。
身体が震えて歯がかみ合わない。死ぬかと思った。本当に今度こそ、殺されるかと思った。魔族と戦うってことは、こういうことなんだ。
今回は冗談みたいな結末で済んだけど、もし魔王にぼくの魂を見抜かれていたら、きっと本当に殺されていた。下手をすれば、何日、いや何十日もかけて地獄のような苦しみを与えられたかもしれない。愛する人の生肉を食べさせられた、あの村人みたいに。
裏切りがばれれば、死をも超える残虐な結末は逃れられない。そのことを肝に銘じて、それでも果敢に挑まなくてはいけないのだ。
震える頬に、涙が伝う。
でも、今は考えたくない。目を閉じるのを許してほしい。今日は、とても疲れた。
土の上でうずくまる。ひざを抱え、唇を噛みしめる。夜闇の晴れない森の中で、一人、しゃくりあげるようにして泣いた。
*
幾多の呻きがその場を埋め尽くしていた。
剥き出しの岩肌が広がる火山地帯。その一角に幾つもの棒が立ち、人々を縛り付けている。その傍には、青ざめて涙を流す子どもたちの姿があった。手には鋸やヤスリ。それらを縛られた大人たちに当てていた。
子どもたちが、自らの手で人々を切り刻んでいるのだ。
「可哀想に、可哀想にのう」
緑色の肌をした長ヒゲの老人が、天を仰ぎ見るようにしてのたまう。
「お主らのせいでこんなに苦しんでおるではないか。ああ、体中血まみれになりおって。純朴な子どものふりをした怪物どもめ。胸が痛みはしないのか?」
「ちっ、ちが……! 手が! 手が勝手に!」
「何が違うものか、醜悪な化け物め! お主が彼奴らを殺すのじゃあ!」
老人は叫ぶ。子どもはびくりと肩を跳ねさせるも、切り刻む手は止まらなかった。
返り血に塗れる。呻きが溢れる。泣き叫んでも首を振っても、肉を切る感触から逃れることはかなわない。
彼らの周りでは巨大な羽虫の姿をした十体の魔族がにたにたと笑っていた。重たい羽音を響かせ喜ぶ様は、この場を一層地獄めかせた。
そう、地獄。この土地は確かに、醜悪な地獄と化していた。
――その瞬間までは。
「救いようがないな」
一閃。
緑の老人が両断される。
「ぐ……げ?」
意味のない言葉を呟き、白目を剥く。二つに分かたれた体が地面に倒れた。
「――っ!」
どよめき。羽虫たちは突然の事態に悲鳴を上げる。
直後、その全てが真っ二つに割れ、力なく落下した。
現れたのは黒髪の男。鈍色に光る鎧に身をつつんだ大男。
その手が握るシンプルな剣は、四メートルにも及ぶ超重量の刃を備えていた。
彼は怯えて固まる子どもたちへ振り返り、無表情に視線を投じる。
「もう動けるな。なら手当てをしろ。家族の命は、お前たちが救ってやれ」
そう言うと帯びていた短刀を取り、一人ひとり、縛られた人々を解放していった。