2. ブラムス・デンテラージュの帰還
2019/01/18 改稿しました
大きな綿毛が降り注ぐ。
タンポポ一本分くらいの大きさだった。それが雪のようにしんしんと積もり、一面を白で覆い尽くしている。森林も山々も、雪を被ったように白い。
「すごいね。本当に全部生きてるの?」
隣を歩くメニィに尋ねる。ぼくはプリーナと別れた後すぐに彼女と合流できていた。
胸元の開いた肩出しのドレスを着るメニィは、頭と肩、それに大きな胸の上に綿を積もらせ頷く。ふぅと息を吐いて胸の上のものだけ飛ばす。
「とは言っても風に乗るばかりですしぃ、鳴きもせず食事もしないので、まぁ、死んでるみたいなものですねえ」
笑顔でさらっと酷いことを言う。
「踏まれたってうんともすんとも言いませんしぃ」
「ふうん……」
この綿は灯虫と呼ばれ、引火すると十分ほど燃え続けるらしい。綿のように見えて少し硬くて、踏むと積もりたての雪みたいにザクザクとした音が鳴る。数年に一度くらい、こうして大発生するらしいけど……。
「誰かが火を付けたら大変だよね、これ」
「そうですねえ。とぉっても綺麗な景色が見られるでしょうねえ」
にたぁ……と粘り気のある笑みを浮かべ、メニィは頬に手を当てた。悪寒がして、ぼくはこっそり目を逸らす。
それにしても、何とも幻想的な景色だ。ただの大雪とは違い上には満点の星空がある。本当にここはぼくの知らない世界なんだなあと実感した。
「ところでさ、ずっと聞きたかったんだけど」
「はい、いいですよぉ?」
「ぼくたち、どこに向かってるの?」
「あ~、言ってませんでしたねえ。失礼しましたぁ」
メニィは歩みを止めず、顔だけをこちらへ向ける。
「魔王様のお城ですぅ」
「ぼくの、お父さんの?」
「はい~! 記憶を失われているということでしたしぃ、魔王様とは一度お会いした方がいいと思うんですよぉ。魔力も使われちゃったんですよねえ? お体を休めるにもあちらなら都合はよろしいかと思いますう」
予想はしていた。住んでいる場所があるならとりあえず帰るというのは普通だし、ぼくの情けない姿を見たなら尚更だろう。
それに……。唇をきゅっと結ぶ。
都合がいいのは確かだ。
「どれくらいかかるの? 遠いんだよね?」
「いえ~、もう『扉』に着きますのでぇ」
「扉?」
メニィが立ち止まる。顔をちらと見て視線の先を追うと、ぽつんと一本、綿の積もっていない木があった。見た目に変なところはないけれど、灯虫が近寄らないことから、ただの木じゃないのだろうことだけは分かる。
「これが、扉?」
メニィは微笑む。進み出て木に触れる。
空から一つ、雷が落ちた。
青い光は木を突き刺し、激しい音と共に発火する。だがそれはほんの一瞬で風に消え、代わりにビリビリと木の幹が破れ始めた。
プリーナが作ってみせたような『穴』が、幹の表面に作られる。
「魔力をぶつけると開く仕組みですう。こちらからお城に行けまぁす。さ、お坊ちゃまぁ。どうぞぉ」
「う、うん」
この先に、魔王が――。
ぼくはごくりと唾を飲み、一息に穴の中へもぐりこんだ。
*
「なんだよ、これ……」
思わず口を押える。
おぞましい。最初に抱いた印象はそれに尽きる。
穴を抜けるとそこは森だった。ただしぼくが知るものとは些か様子が違っている。
一言で言えば、歪んでいた。目に映るあらゆるものが歪んでいた。
木々は高熱で溶かされた鉄のようにぐにゃぐにゃと好き勝手にうねり、土の地面は所狭しと波の形を作る。足元の草はどろどろに溶け出し、ぬちゃぬちゃと土を濡らした。極めつけは至る所を這う虫たち。頭が割れていたり全身がぶよぶよ腫れあがっていたり、明らかに体に異常をきたした様子で忙しなく走りまわっていた。
「はあ、これを見ると帰って来たって気分になりますねえ」
メニィが気持ちよさそうに伸びをする。吐き気を堪えながらぼくは無理やり頷いた。
木々の上に見える青空が唯一の救いだけど、こんな場所に長居したら間違いなく発狂してしまうだろう。
既に今、自分がまっすぐ立っているのかすら分からない。ずっと目眩にでも襲われているみたいだ。
さっきまでは綿毛の幻想的な風景を歩いていたというのに――魔王の支配がこのまま続けば、いずれ世界中がこの森のようになってしまうのだろうか。
ぐっと拳を握る。殺さなければ。ぼくの立場ならそれができる。魔王の息子サーネルであれば、寝首を掻く機会なんていくらでもあるはずだ。
山間の村を思い出す。干からびてガリガリになるまで苦しめられ、挙句自身の愛した人を喰らわされた村人――あんな理不尽が世界中に蔓延っているのなら、躊躇なんてしていられない。
殺さなくちゃいけない。全ての元凶である魔王は、この世界から消えなきゃいけない。
騙し討ちでも何でもいい。どんなに汚い手だとしても、小心者の浅知恵でも。
「……世界を救えば別だよね」
隣にも届かない静かな声で、ぼくは呟いた。
「そろそろ見えてきますよお」
メニィがいった。
開けた道に出る。森の中に一本、まっすぐな道が通っていた。木々を地面ごと削り取ったらしく、道というよりは大きな溝というのが正しいだろうか。その先に巨大な影を見た。
「あれが――」
魔王城。黒い岩で造られた怪物のような城があった。その建物もやはり、森と同じくぐにゃぐにゃに曲がり、崩れないのが不思議なほどおかしなバランスで建っている。それがあたかも命を持って動き出したような迫力を生み出していた。
早くも心臓が高鳴ってくる。意識して長く息を吐いた。
「あそこに、お父さんがいるんだね」
「いいえ~?」
勇み足になって乗り込もうとしたところで、ぼくはすっ転びそうになった。
「え? いないの?」
「まだお帰りになってはいらっしゃらないみたいですう。ほらぁ、青空でしょう?」
「空? それが何か……」
関係あるのかと返そうとして、ぼくは息をのむ。
空と言われ、無意識に上を見やっていたのだ。そして、目にした。
空が暗くなっていた。ぼくたちの周囲からも光が急速に失われていく。闇に引きずり込まれるように、世界が夜に変わっていく。
上からは確かに日差しが降り注いでいた。それなのにわずかほども照らされない。辺りは完全に夜に囲まれている。
「ちょうどお見えになったみたいですねえ」
メニィの言葉に目を剥いた。背後へ振り向き、その先を睨む。
まっすぐに伸びた溝の向こう――ずっと遠くの地平線を暗闇が駆けていた。どこまでも深く、全ての光を飲み込んでしまいそうな果てしのない闇。ぞっとするほど黒い霧が、こちらへ向けて迫っていた。
あれが。あの暗闇が――。
全身を殺意が巡る。父殺しを胸に誓ったぼくの前に、濁流のような夜を引き連れ、大魔王ブラムス・デンテラージュが帰還した。