エピローグ.勇ましい声の人
人の背丈ほどの花々が揺れていた。
ぼくは無言で手を合わせ、花の下に眠る人々のため祈りをささげる。
「ツワード。また来るからね」
大きな体をわずかに屈ませ、地面に向かいノエリスが微笑んだ。ぼくとプリーナ、ミィチ、それにマイスは、淡く光る花に目を伏せる。
太い茎一本で立つ葉のない花だった。それが一面に所狭しと並び、静かに風に揺れている。
ここは墓地だった。白い花々は遺体の栄養を吸い成長する植物だ。白く儚げに透き通る花びらの、一見おぞましいとも言える真実を知った時、ぼくは声も出なくなるほど驚いた。
けど何も、死者を侮辱しているわけじゃない。ケンペラード王国の周辺では埋葬するとき花を植える文化なのだそうだ。
もちろん全ての国がこうした文化を持っているわけじゃないから、生前どのような方式を望んでいたかがわかれば、あるいは推測できれば、それに従い別の場所にて弔われる。ツワードがここに埋められたのもノエリスの判断だった。
ノエリスはまだ全快までとはいかないまでも、戦で負った傷から立ち直っていた。それもこれもシーベルたちのおかげだ。シーベルが人々を連れて逃げ出した時、彼女を運んでくれた兵がいたのだ。
それはマリターニュの若い兵で、プリーナが身を挺して守った人を何としてでも生かそうとしてくれたらしい。感謝してもしきれない。
「ごめん、みんな。もう少し付き合ってもらうね」
ノエリスが踵を返し、別の墓地へ向かう。
彼女の向かった先には先ほど並んでいたものよりはるかに大きな花が咲いていた。名の知れぬ遺体が集まった集合墓地だ。大木のごとき花の下に埋められた人々は全て、人魔激突の戦場で散った者たちだった。
あの戦場にはぼくたちが以前に出会った人々も多く出陣していた。特にノエリスやプリーナは昔からの知り合いが多かったはず。弔いたいと思うのは当然だ。
大きく儚い花を見上げながら、ノエリスが呟く。
「わたしのことを姉御って呼ぶ人がいたんだ。ほんの少ししか知らないけど、その人のこと、けっこう好きだった」
今は花に光を与えているのだろうその人物を思ってか、ノエリスは唇をかんだ。
「わたしにはもう故郷は残ってない。でも、誰かの代わりに守ってあげたいものはあるんだ。それくらいしかしてあげられないから」
彼女は胸に手を当て、わずかなあいだ黙り込む。それからぼくらへ振り返り、いった。
「だからわたし、しばらくは町の復興を手伝うことにするよ」
それが散っていった彼らへの弔いということなのだろう。それを聞いてぼくは、不謹慎かもしれないけど、少し安心した。
ツワードを失い、仇も討ち果たされ、生きる意味を見出せなくなっているのではと危惧していた。けどノエリスは前を向いている。きっと大丈夫だ。
マイスが頷き、口を開く。
「私も同行するつもりだ。ノエリスと違い、思いがあってのことではないのだが」
「いいんじゃないか? 助けてもらう方にとっては気持ちなんて二の次だろ」
ミィチが軽い口調でいった。
また身も蓋もないことを……。
「働いたら働いただけ助かる奴がいるってだけだ。その点お前の馬鹿力なら大活躍間違いなしだぜ」
ミィチの励ましにマイスはふっと笑った。
「ああ。活躍できるよう努めるつもりだ」
彼の笑顔もすっかり見慣れたものだ。それが急に嬉しく思えて、ぼくも頬をほころばせていた。
ぼくたちは墓地を後にする。いつかまたツワードに会いに来よう。胸の内でひそかに誓った。
「では、私たちはここで」
広場に出たところでマイスがいった。彼とノエリスは復興のためネアリーを離れる。つまり、お別れだ。
「マイス、ノエリス。出会った時はどうなることかと思ったけれど……でもやっぱり、あなたたちと出会えてよかったわ。またどこかで、必ず会いましょう!」
進み出たプリーナに二人が頷く。
「うん。必ずね」
「プリーナ様、お元気で。ミィチも――それとソラ」
マイスは言いかけ、止まる。
「マイスさん?」
「いや……伝えたいことは伝えていたようだ。魔王と戦ったあの時にな」
そう言われてぼくはすぐに、あの時聞いたマイスさんの声を思い出す。
勇者はお前だ。
あの言葉はぼくに強い力を与えてくれた。そして単純に嬉しかった。勇者と呼ぶのがふさわしい――そう思っていた相手から同じ言葉をもらえるなんて、空想したことだってなかったのだ。
「まあ、まあ! なあに? 二人だけでずるいわ!」
「これが男の友情ってやつか。あーあー女は蚊帳の外ってわけかよ、そうかいそうかい」
「えっ? あ、いや」
「そのようなつもりは」
ぼくたちが狼狽するとプリーナたちは笑う。別れの空気が少し軽くなり、改めて明るい顔で向かい合う。
「それじゃあね、二人とも」
「ええ、お元気で」
「ばいばい」
ぼくたちが手を振り、マイスとノエリスが離れていく。こうして一足先に、二人は町を去った。
でも、お別れはこれだけじゃない。ぼくとプリーナもここを出るのだ。
マイスたちと同時に行かなかったのは、まだ別れを済ませていない人がいるからだった。
「もう……出てきていい?」
ぼそぼそと声がする。石造りの建物のそばに停まる荷車の後ろから鮮やかな赤い髪がのぞいていた。
ミィチがため息をつく。
「気を利かせたというより、あれは人見知りだな……。いいぞ、出てこい」
その声でヘレナがぴょこんと顔を出す。
『百の実』をもらったとき彼女とマイスは会っていたはずだけど、まあそんなに話したわけでもないし、ノエリスとは初対面も同然だろう。お別れの空気のなか出て来にくかったのは無理もない。
「ラージュ!」
ぱっと顔を輝かせヘレナが飛びついてくる。ヘレナは頑なにこの呼び名を貫いている。
と、ヘレナが犬のように舌を出す。
あ……。
「べろべろべろべろ」
ぎゃあああああ!
「ふふ。ヘレナは相変わらずね」
「わ、笑ってないで助けっ」
「べろべろべろべろ」
…………。
ちなみに太陽の町の人々はいない。ウナや町長が気を使ってくれたのか、マイスたちよりも先に別れていた。彼らはネアリーに移住することにしたそうで、以後生まれてくる子どもたちの故郷はこの地になるようだ。
もうヘレナが町を守るため凍えるような寒さを耐える必要はない。この地であれば、あの町を出たからと魔族におびえる必要もない。サーネルは約束通り、ヘレナに自由に与えたのだ。
「ヘレナ」
べろべろ地獄が終わって、ぼくは少し、真面目な声を出す。
きょとんと首をかしげるヘレナを、強く抱きしめた。
「今まで、よく頑張ったね」
息を飲む声が聞こえた。
ヘレナの背丈はプリーナより大きく、ぼくらよりお姉さんのように見える。でも本当は――その魂は九歳の子どもなのだ。
そんな子が毎日、誰に頼ることも、責めることもなく青ざめるような寒さを耐え続けた。
途方もないことだ。いつ終わるかも分からない、終わりが来るかさえも分からない中で、毎朝自ら苦痛の波に飛び込んでいく。すがりついて泣くこともできず、声を押し殺して震え続ける。
辛くないわけがない。ぼくだったら耐えられなかっただろう。解放された今だって、彼女の脳裏には恐ろしい感覚が刻み込まれてしまっているかもしれない。
だからせめて、少しでもそれをやわらげたかった。
やっとヘレナが泣き出す。大声を上げて、人目をはばかることもなく。
気づくとミィチがぼくたちから顔を背けていた。ヘレナの様子に目を見張っていたプリーナがそれに気づき、首をかしげる。
「泣いているの?」
ミィチは俯きがちにこちらを見ると、唇を尖らせた。
「ああ。泣いてるよ」
「ならわたしも泣くわ!」
プリーナはほとんど反射的にいって、本当に泣きだした。
「なんでだよ……」
「だって。だって本当は我慢、してたんだもの」
しゃくりあげながらプリーナが答える。それを見ていたら、なんだかぼくまで涙が出てしまった。
四人中四人がボロ泣きをはじめ、広場の通行人たちの注目が集まる。ぼくたちはいっそ気にするかとばかりにさらに勢いを増して号泣した。それがだんだん笑いに変わる。今度は余人の大笑いが広場に響いて、人々を困惑させた。
「なんか、変なことになっちゃったね」
「こんな大泣きしたのはひさしぶりだわ」
「にしても泣きすぎだろ」
「あたし泣いてないよ」
いまさらそんな嘘をついても……。
ぼくたちが落ち着いたのを見て、驚いて立ち止まっていた人たちが離れていく。無駄な心配をかけたようだ。
ヘレナを離し、ぼくは切り出す。
「そろそろ行こうかな」
「そうね。別れの言葉は涙で語り合えた気がするわ」
しみじみすべきなのか笑うべきなのか微妙な台詞をいうと、プリーナはミィチに歩み寄る。
「ありがとね、ミィチ」
その言葉は今までの全てに対してかけられているのだろう。ミィチにはたくさん助けられた。彼女がいなければ乗り越えられなかった状況はいくつもある。
それに、いっしょにいて楽しかった。
ミィチは低い鼻をうさぎのようにひくつかせ、そっぽを向いた。
「先に言うなよな。こっちの台詞だってのに」
どうしよう。また泣きそうだ。
「ミィチ、ヘレナ。元気でね」
「うん! 元気でね!」
「どっちかっていうと、お前らの方が心配だけどな」
「あ、あはは……」
否定できなくて目をそらした。
「ぐえええー!」
その時、どこからか高らかな鳴き声が響いた。
通行人たちがどよめき、その奥から足音が聞こえる。巨大なしゃくれたクチバシを持つ筋肉の塊のような怪鳥が走って来るところだった。
「ティティ! 迎えに来てくれたんだ!」
「ぐえー!」
少し迷ったのだけど、これからの旅にもティティを連れていくことにしたのだ。ティティもそれを望んでくれているようで、ネアリーにいるあいだ何度もぼくを背中に乗せようとしてきた。
ぼくとプリーナが乗り込むと、ティティは嬉しそうに跳びあがった。
「またよろしくね。ティティ」
「ぐええええええ!」
「それじゃあ、二人とも」
ティティが走り出す。ミィチとヘレナに手を振って、ぼくたちは広場を飛び出した。
「いつか絶対会いに来いよー!」
「待ってるからねー!」
二人の姿があっという間に離れていく。これでもうしばらく会うことはない、というのが、なんだか不思議な感覚だった。
「待って、ティティ!」
「ぐえ?」
プリーナが叫ぶ。何事かと思うと、前方に兵士の列ができていた。
まるで王のため道を作るように、通りの左右にきれいに並んでいた。道の真ん中には、ケンペラード王国が女王、ネアリー・コードガンが浮いている。
女王はぼくたちに気づくと、やわらかく微笑んだ。
「行かれるのですね」
「は、はい。えっと……」
慌てて人々を見回してから、気づく。もしかしてこれは、ぼくたちを見送るために。
こちらの心を読んだように女王は頷き、彼女もまた、道の端へずれる。
「あなた方の道行に、光あれ」
ぼくたちのために、こんな。
儀式めいたものは苦手だ。だけど、今はただうれしい。皆の気持ちがとにかく嬉しかった。
「ありがとうございます、女王様! 皆さん! ――行こう、ティティ!」
再びティティが走り出す。
ぼくたちは多くの人々に見送られ、ネアリーを旅立った。
旅の初日。夜の帳が降りた頃――。
「お、お許しをぉ! どうか、どうかぁ!」
森のように密集した巨大なキノコの群れのそばを進んでいると、何かから逃げる女性を見かけた。それにつづくようにして、熊のような魔族が飛び出す。
「魔族がいなくなったと思ったかァっ? げははは! 馬鹿が! んな都合のいいことあるわけねえだろう!」
ぼくたちは別の大陸まで来ていた。町の外で待っていたバンリネルが連れてきてくれたのだ。
「見つけタ! さっソク!」
「やっぱり。こんなことだろうと思ったよ」
ティティの上から降り、ぼくはため息をつく。
魔王は倒れ、大陸を支配していた魔族はことごとく打ち滅ぼされた。マイスと戦ったガラードも、自爆覚悟の攻撃を放った末死んだらしい。
しかし全ての魔族が倒されたとは思えなかった。命惜しさに戦争から逃げ出した魔族は山ほどいるはずだ。そうした者がまたこっそり人を襲い始めるかもしれない。だからまだ、魔族との戦いは終わっていないのだ。
そう考えてネアリーから遠く離れた土地へ来てみたら案の定だった。この分だと、大きな街や都市も未だ魔族の支配下にあるかもしれない。
せっかく魔王を倒したのに、と思わないでもないけれど、まだ戦いが終わらないのならせいぜい利用させてもらうことにしよう。
――彼女のために。
「ひぎゃっ?」
熊の魔族が倒れる。プリーナが空間に穴をあけ、魔族の内側に短剣を刺したのだ。
そう。彼女は――プリーナは誰かを殺し続けなければ生きていけない。ならば魔族の残党狩りをすることで彼女の欲望を満たせばいい。
プリーナは魔族に炎を浴びせ無力化すると、その上にまたがって舌なめずりをした。
「あ、熱……い」
「ダメよ。まだ死なないで。すぐに終わったらつまらないもの」
「ぐぎっ? っぐぎゃああああああっ」
「ああ、いいわ。とっても素敵よ」
悲鳴が耳をつんざく。プリーナは魔術を使わず、宝剣で魔族の腹をえぐっていた。恍惚とした表情で空を仰ぎ、悲痛なうめき声にぞくぞくと打ち震える。
「今日はいっぱい、楽しませてね」
碧い瞳を夜闇に浮かび上がらせ、少女は微笑んだ。
*
とある冬の日。水瀬歩は夜の公園のベンチで空を見上げていた。
温かい缶コーヒーを飲むでもなく、誰かに電話するでもなく、ひたすらにぼんやりと。
三か月も前になる。息子が死んだ。
病死ではない。明らかな不審死だった。首を絞められた跡もないのに窒息死していたのだ。まるで自ら息を吸うことを拒んだかのように。
そのような自殺方法はあり得ない。そう医者や警察からは説明された。けれど――。
妻はそう思わなかった。
四年前に娘を失って以来、妻も歩も彼女の幻に囚われ続け、まるで息子のことを見てやれなかった。息子がいじめを受けていたことも三か月前に初めて知った。
――あー、あー。えっと、聞こえてる、かな? 初めてだとどうも感覚が……。
だから息子は死んだのだ。そう妻は決めつけ、自身を責めた。子どもたちの後を追おうとすることこそなかったが、今まで以上にふさぎ込み、病気がちになり、ほとんど寝たきりに近い生活になっている。
――うん、多分大丈夫。聞こえてるはず。えっと、その……お父さん。
そんな妻を元気づけようと努力はしたが効果はなく、ついに歩も根を上げてしまった。元より彼自身も自責の念を拭い去れずにいた。
――ごめんね。急にいなくなって。
「空……ごめんな」
この三か月、何度も口にした言葉を呟く。自嘲の笑みが口元ににじんだ。
――へ?
「ん?」
歩は固まる。
いま、どこからか声が……。
聞いたこともないとても勇ましい声質。それなのにどこか懐かしい、気弱そうな喋り方。
「まさか!」
歩は立ち上がり周囲を見回す。
声は違う。だが聞き間違えるはずがない。
今の声は、確かに。
「空……なのか?」
――うん。ずっと連絡できなくてごめん。
勇ましい声の主は、はっきりとそう答えた。
まるで独り立ちした子が親に電話をかけるみたいに。恐る恐る、けれどどこか安心したような笑みをにじませて。
歩の息子は――水瀬空は、ぎこちなく、温かい声で笑うのだった。
――久しぶり、お父さん。