3. 最後の魔術
「見事だ。よくぞ我が守りを越えた」
魔王は無傷だった。
霧を壊し、直接魔術を放ったのに。皆の魔力を借りて、全力の一撃を当てたのに。
魔王の体は、霧とは比較にならないほど頑強だった。
驚きで力が抜け、ずっと引っ張ってきていたミィチの魔術に動かされる。ぼくと魔王を包む炎から抜けだした。
鎧は全て溶け落ちていた。体中が焼けただれてうまく力が入らない。腕や脚が軋んで、関節や筋肉が硬直する。思った以上に火傷の症状が深刻だ。無理をし過ぎたのだ。
そしてその無理をし通してさえも傷一つ負わせられなかった。その事実にぼくの思考は完全に停止する。
「ミナセ・ソラよ。貴様は真によくやったのだ」
迫りくる魔王にもぼくは反応できず、ただミィチの魔術に引っぱられる。
「我に直接触れた者は五人といない。その偉業が貴様の生まれた意味である」
止まってしまった思考の外で、魔王からの賞賛を聞く。ぴくりと、自分の指が動いたのを感じた。
生まれた、意味……?
巨大な青い手が追ってくる。ぼくを掴もうと迫っている。
「貴様との戦い、存分に楽しませてもらった。あとはただ、永劫の苦しみの中で眠るがよい」
「……ふざけるな」
怒りの言葉が口を突いて出た。
ぼくは魔王なんかを喜ばせるために生まれてきたわけじゃない。
そうだ。こんなやつに殺されちゃダメだ。
幸せになるべき人たちがいる。幸せにしたい人がいる。その全部をこんな奴に壊されてたまるか。
「お前なんかにくれてやれるほど、ぼくの命は安くないんだ!」
魔術で腕を生やし、鎧を作る。二本の腕を伸ばして掌から火花を散らす。体は動かなくても魔術の腕は動かせる。まだぼくは戦える。
「その通りよ!」
背後の空間に穴が開き、その奥からプリーナがいった。
「あなたにラージュは殺させない。いいえ、もう誰の命も、あなたなんかには渡さないわ!」
ミィチの魔術に引っ張られ、ぼくは穴の中に飛び込んだ。
穴の先は山の中だった。そこでプリーナが空間を切り裂き、さらに遠くの森へ避難する。
「酷いやけど! 手当をしなくちゃ」
「大丈夫。そんな隙ももらえないだろうしね」
「でも」
「そうだな。悪いけどもう少し我慢してくれ。それよりもだ」
ミィチが声を落とす。
「言いたいこと言ってやったのはいいが、どうする。攻撃が通じないんじゃ倒しようがないぜ」
「それは」
プリーナが口ごもる。ミィチは唇をかんだ。
「今はとにかく逃げるしかない、か……ったく、身を守ってる魔術より体の方が堅いってのはどういうことだ。常識外れにも限度ってものが」
「逃げるのはダメだ」
ミィチの声を遮るように、ぼくはいった。
「落ちつけよ。このまま戦ってもまず勝ち目はない。せめてマイスと合流してから」
ミィチの反論にもぼくは首を振る。
「距離をあけ過ぎたらダメなんだ。もしぼくたちを捨て置いて、逃げていった人たちを襲いに行ったら……それだけは避けないと」
「だけど、魔王はあなたに狙いを定めているわ。見逃しはしないんじゃないかしら」
「それはシーベルたちも同じだったはずだよ。でも追わなかった。きっと魔王は人を追跡できるような魔術も使えるんだ。だから今殺さなくても、あとで殲滅すればいいと思ってる」
魔王とはこの戦いで決着をつけなきゃいけない。それに残念だけれど、少なくともマイスの剣では魔王を倒せない。渾身の一撃を叩き込んでも、霧を打ち破るので精いっぱいだったのだから。
森を越え、広い草原の手前まで来る。大きな木が一つあるのみで、逃走に際しては見晴らしが良すぎる場所だった。
「あれは、さっきの」
「――っとと、ここはまずいな。って、おい!」
ミィチの呟きにも構わず、ぼくは草原に出た。
「お前なあ! 少しは冷静になれよ!」
「冷静だよ。戦うならここが良い」
上手く利用できるかは分からないけど、この場所は悪くない。それに森に隠れていたって、もし場所が筒抜けだったら焼き払われて終わりだ。
「そろそろ魔王が来るわ」
……さて、ここからの魔王の攻撃をどう耐え抜こうか。
ぼくを認め、最後とも取れる言葉を贈ってきたのだ。きっと魔王は勝負を決めに来る。
「プリーナ、ミィチ。ちょっといいかな」
森の先を睨みながら、ぼくは切り出す。
「なんだ、いい策でも浮かんだか」
「……二人に頼みたいことがあるんだ。魔王に勝つために」
勝つためと聞いて、プリーナたちは緊張の色を露わにした。
「いいわ。なんでも言って」
なんでも、か……でも、これを言ったらさすがに怒るだろうな。
もし聞き入れてもらえなかったら、戦いは厳しくなる。聞いてもらえても困難なことに変わりはないのだけど。
「えっと、それじゃあ――」
ぼくは『頼み』を口にする。
空気が凍った。
次の瞬間、二人は大きく目を見開く。
「それが、勝つため……になるの?」
「うん……ごめん」
「じょ――」
ミィチが声を詰まらせ、ぎりと唇をかんだ。
「冗談はやめろよ。それじゃまるで」
言いかけてやめる。ミィチはぼくに背を向けた。プリーナはしばらくぼくのことを見ていたけれど、やがてミィチにつづいた。
森の向こうから魔王がやってくる。
草原に生えた一本の木の奥に立つ。ぼく一人だけが待ち構えていたのを見て、魔王は霧の奥で、周囲を見回すような動きをする。
「従者たちはどうした」
「……」
隠れているとは思っていないようだ。どうやら本当に、魔王には人の居場所を知る術があるらしい。
魔王は木のそばに降り立つと、興味なさげに鼻を鳴らした。
「見限られたか。貴様の傷を目にしてようやく、勝てぬ戦と踏んだようだな」
「……」
ぼくは念力で後方に飛び魔王と距離を取る。
それを読んだかのように背後に青い手が出現した。
巨大な拳に殴りつけられる。一撃で鎧の半分が壊れた。
「な――」
腕の強度が明らかに落ちている。思ったよりも早かった。
「諦めよ。もはや貴様はこれまでだ」
『百の実』で百人以上から力を分けられ、体感で百倍以上の魔力を得ていた。けどそれで、百倍の時間魔術を放てるということにはならない。魔力量が増えたことで自然と魔術が強化されて、一度に使う魔力も増大していたのだ。
今までと比べれば長くもつことは間違いないけど、それでも連発すればあっという間に魔力は減り、威力も弱まる。
つまり、時間切れだ。
魔王の目にはそれも見えていたらしい。驚きもせず、黒い炎を差し向けてトドメを刺しに来る。
炎の檻に囚われる。栗の棘を逆さにしたような、全方向からの逃げ場のない攻撃。
プリーナの魔術には頼れない。受け切ることも難しい。
だけど大丈夫。
むしろこれは、最後のチャンスだ。
「バンリネル! ぼくをあの木へ!」
声を上げる。鎧の胸部からバンリネルが飛び出した。
「分かっタ!」
彼はぼくのもとへ戻ってきていた。森を抜ける途中に合流していたのだ。
「ふん、逃げるか」
「――いいや」
そして草原の中心に生える木には『扉』が隠されている。戦場へ来るとき、ぼくらはここを通ってきた。
「ぼくはここにいるぞ! 魔王!」
木のそば、魔王の背後に飛び出し、黒い霧をつかむ。
掌から衝撃を放つ。
「!」
霧が壊れない。魔力が減ったせいで威力が足りないのだ。
だけどそんなことじゃ止まれない。
ここで決めなきゃ、今度こそ全てが終わる。
「ぶっ壊れろォォォ!」
両手をつけ、全力で衝撃を放った。
破砕。霧がガラスのような音を立て割れる。
すぐに霧は復活した。けど。
「――掴んだぞ」
ぼくの手は既に魔王の足を掴んでいた。大きな体が霧の奥で揺れ、その手に紫色の剣を生み出す。
「何をするかと思えば、くだらぬ。通じぬと知りなお同じ策を弄するとは」
同じ策――そう、だからこそぼくはプリーナたちに頼んだ。「ここから逃げて欲しい。戦いに戻れなくなるくらい遠くへ」と。
魔王の背後から飛び出す動きは一度見せている。同じ手は使えない。けど、プリーナたちがいなくなったら? 無意識にも、後ろからの攻撃に対する警戒を緩めるんじゃないか?
バンリネルの存在には気づいていただろう。でも彼の魔術はプリーナのように自由自在に飛べるものじゃない。あらかじめ設置した『扉』のそばにのみ行けるものだ。意識したとしても、せいぜいが攻撃をよけられるかもと恐れるくらいのはず。
そのために二人には逃げてもらったのだ。
プリーナもミィチも命をかけて戦場に残ってくれた。その二人を守るためならともかく、「勝つため」と遠ざけるなんてしたくはなかった。
でもそれは、二人が足手まといということじゃない。二人がいなければぼくは死んでいた。プリーナの魔術を見せられたから、突進への警戒が薄まった。勝利のために、二人の存在は欠かせなかった。
そう、これは「勝つため」の一手だ。
「勝敗が決したならば戦士は潔く往生することだ。戦いを穢すことは許さぬぞ」
「……油断したな」
「なに?」
魔王は強い。でもそれだけだ。油断もするし頭が切れるわけでもない。
それに強固な守りを持つけれど、どんな魔術も効かないわけじゃない。あんな霧をまとっているのがその証拠だ。
「ぼくがどうやってこの体に入ったか、分かるか」
そう、どんなに体が堅くても通じる魔術はある。
心を攻撃する魔術、呪いをかける魔術、そして。
――召喚魔術。
「お前の息子の魔術だよ」