2. 絶対の王
無数の腕で作られた大蛇のごとき肉の塊から、魔王が浮き上がってくる。
それを見上げ、ぼくは言い放った。
「遠慮せずにかかってこい。ぼくはお前を殺せるぞ」
その言葉で、闇の霧の奥に見えていたひらめくような怒りが気配を消す。
代わりに現れたのは、おぞましい歓喜の震えだった。
「よくぞ吼えた! 我を討つ秘策があるならば見せてみるがよい!」
魔王の声に合わせ、大気が怯えるように震える。地面までもが恐怖しているようだった。
ぼくは全身から腕を生やし、曲げて、鎧のように体を守った。身構え、掌から火花を散らす。
秘策なんてものはない。だけど。
勝算はある。
「行くぞ!」
飛び出し、大蛇のごとき腕の道を駆ける。
空中に巨大な青い手が現れ襲ってきた。一つや二つではない。四方八方から逃げ道を塞ぐように拳や張り手が飛んでくる。走り、跳び、さらには念力を駆使して宙を舞ってそれらを躱す。
けれど全ては避けられない。いくらかを腕の鎧で受け、強引に前へ突っ込む。
「ほう。耐えるか」
大丈夫だ。腕の強度が上がったおかげで直撃をもらっても少し痛い程度で済む。そのたびに腕は壊れてしまうけど、すぐに生やせば問題ない。
ぼくは腕の道を蹴って高く跳びあがり、宙に浮かぶ魔王へ突っ込む。
魔王の魔術について、バンリネルから知っている限り教えてもらった。いま魔王が使っている浮遊の力は重いものを持っていようとどんな場所だろうと関係なく、どこまででも飛べるらしい。けど、速度は出せない。
ぼくの念力なら、簡単に追いつける。
「獣のように突っ込むだけでは戦いにならぬぞ」
「!」
目の前に青い手が出現し、大きく開いた。
握り込まれる。この手はどんな場所にも現れるのが厄介だ。でも。
「こんなもの」
念力で弾き飛ばす。相変わらず遠くのものは動かせないけど、触れるほど近づいたものに対しては絶大な威力を発揮する。
青い手は問題なく対処できる。けれど。
「――いない?」
今の一瞬で魔王が消えていた。
周囲を見回す。あれほど飛んできていた青い手も消え失せている。不自然な静寂に嫌な汗が伝った。
「どこに」
夜闇に包まれた戦場には様々な魔術の跡が残されている。腕の群れ、死んだ森、大地にあいた大穴、破壊された山々――身をひそめられる場所はたくさんある。
でも、魔王が隠れるとは思えない。まさか他の人々を殺しに?
そう考えたとき、他の場所に比べてやけに暗いところに気が付いた。
目を凝らす。大穴も森もない、目立たない平地だ。特に何もないように見えるけど、やっぱり闇が濃い。黒すぎて何も見えないほどに。
あの闇は、魔王? それとも何かの魔術か。
「……あ」
ふいにバンリネルから聞いた情報を思い出す。魔王には想像を絶するほどの闇を作り出す力があった。
見続けた者の目から永久に光を奪う、呪いの暗闇。その闇に目を慣らすとほんのわずかな光にすら目を焼かれてしまうようになるという。ある程度の時間直視しない限りは軽症で済むらしいけれど。
今ぼくは、どれくらい見てしまったのだろうか。
恐る恐る、闇から目をそらす。
瞬間、視界が真っ白になった。
「ぐぁぁぁああ!」
念力が解け、地面へ真っ逆さまに落ちる。両目を押さえてのたうち回った。
熱い。熱い。熱い! 目の内側に熱した箸を刺し込まれているみたいだ!
急に視界が真っ暗になる。何も見えない。目がやられたんだ。
これはまずい。今攻撃されたら。
全身から腕を生やし肉団子のように体を包む。これなら生半可な魔術では貫けない。動きは鈍るけど二の次だ。
「愚かな」
どこからか魔王の声が聞こえる。同時に何か、じゅわじゅわと水が沸騰するような音がした。
はっとして、念力で宙へ浮き上がる。呪いの沼を広げたに違いない。危なかった。腕の一部でも触れてしまったら一気に――。
「甘い」
上から衝撃がくる。何か、おそらくは青い手が押してきていた。ぼくを地面に触れさせようとしているのだ。
念力で弾き飛ばそうとする。けれど腕の鎧を膨らませ過ぎたせいで青い手と距離があった。しまったと思った時には鎧が地面に触れていた。
急速に呪いが伝染し、腕がどろどろに溶けていく。
「やられてたまるかぁ!」
全身に生えた腕を切り離し、念力で吹き飛ばす。そのまま空へ向かって飛び上がり、ぎりぎりのところで呪いから逃れた。
けど、読まれていた。
防御を捨て飛び出た瞬間、背中を強烈な衝撃が襲う。巨大な拳に殴り飛ばされた。
「かはっ――」
息が、できない。
たった一撃で意識が遠のく。暗くて痛くて、状況が分からなくなる。
「――しっかりしろ!」
声を絞り出し自分を奮い立たせる。全身から腕を生やして再びを鎧を作る。直後、今度は正面から殴りつけられた。
「魔王を倒すんだろ。だったらあいつの好きにさせるな!」
目を開く。青い拳が飛んでくるのが見えた。念力で左に動き、避ける。
目に負った火傷は魔族の回復力でなら元通りになる程度だったらしい。もうしばらく睨み続けていたら危なかった。
やっと呼吸ができ、喉がひゅうひゅうと音を上げる。危なかったけど、何とか乗り切った。
魔王はもう姿を隠していない。先ほど濃い闇のあった場所に杖をもって立っている。呪いの沼は未だに地面を溶かし続けていた。
「次はぼくの番だ」
掌からパチパチと火花を散らす。一番威力の出るこの魔術さえ当てれば、きっと今なら魔王を守る霧を壊せる。そのためには何としても、魔王に近づかなければならない。
念力で前に飛び出す。開いた手を構え、攻撃の準備をする。これ以上妙な魔術を使わせてはダメだ。下手をすれば何もできないままやられてしまう。読まれると分かっていても、最速で突っ込むしかない。
青い手が阻んでくる。今度はぶつかった瞬間に弾き飛ばせた。魔王が姿を隠す隙は与えない。ぼくは速度を上げ、手を前に伸ばした。
「このまま――!」
魔王の手から杖が消え、剣が現れる。腐った肉が寄り集まってできたような不気味な柄から紫色に光る巨大な刃が伸びている。
受けて立つということか。それなら遠慮はしない。左右に振れて動きに変化をつけながら、速度だけはゆるめずに突っ込む。
魔王の剣が伸びる。その時、ぞくりと背筋に戦慄が走った。
――ダメだ。引き返せ。
剣の光を間近に見た瞬間、全身の皮膚が悲鳴を上げるように粟立った。
魔王が剣を振るう。その数瞬前、ぼくは弾かれたように後ろへ飛んでいた。
鎧の一部――前に突き出していた右腕のすれすれを切断される。慌てて遠くへ身を引いた。
絶句した。強度を上げた鎧を風を切るように断つなんて。
まずは防御をと、鎧の断面から新たな腕を生やす。いや、生やそうとした。
「……あれ」
何故か腕が生えない。肘を上げ鎧の切断面を見ると、真っ黒になっていた。
「なんだ、これ――」
変色したとかそういう次元じゃない。まるで全ての色を飲み込んだように、光の当たり具合も本来の配色も完全に無視している。
念力でさらに身を引く。鎧の一部を引きちぎり、落とした。
腕の塊が地面に当たる。その瞬間ぼくはまた息を飲むこととなった。
「な――」
切断面に触れた地面が削られたのだ。
「我が剣に身を断たれれば、魔族であろうと二度と元に戻ることはない」
はっとする。魔王が追ってきていた。
「魔術で治癒することも、糸でつなぐことも敵わぬ」
これも呪いの類か。嫌な魔術ばかり使ってくる。斬られたら終わりの剣。しかもマイスの大剣みたいに大きい。これでは近づくことも――。
いや。どの道近づかなければ魔王は倒せない。ここで下手に逃げ回っても魔力を消耗してさらに追いつめられるだけだ。せっかく預かった皆の魔力、無駄にはしない。
「ほう。向かってくるか」
「当たり前だ。ぼくはお前を倒すために来たんだ」
とはいったものの、あの剣をどうにかしない限りただ突っ込むのは危険すぎる。どうにか懐に飛び込む方法を。
「……?」
ふいに、誰かに腕を引かれたような気がした。
「ならば試してみよ! 貴様の手で我が守りを打ち砕いてみせるのだ!」
剣を振り上げ魔王が突撃する。考えている暇はなかった。
受けて立つと叫ぶようにぼくも魔王のほうへ突っ込む。
剣の間合いに入らないぎりぎりを狙って、左へ飛んだ。
そのまま一直線に進み魔王から遠ざかる。呪いの沼によって平地にされた戦場を越え、遠く離れた山岳に入る。直後見えない力に掴まれ、木々の中に引きずり込まれた。
「二人とも、どうして」
山岳に潜んでいたのはミィチとプリーナだった。プリーナは既に宝石を光らせている。
「お前ひとりを戦わせるわけないだろ」
「時間がないわ! 早く中へ!」
プリーナが空間を切るとそこに裂け目ができ、穴が開いた。
頷き飛び込む。穴の向こうには魔王の後ろ姿があった。ぼくが逃げ込んだ山岳を見下ろし、両手を上げている。その上には黒い炎が渦巻き始めていた。
ありがとう、プリーナ。ミィチ。胸の中でささやき、前方へ手を伸ばす。
魔王を守る霧に触れた。
「ぼくはここだ!」
破砕。霧がガラスのような音を立て割れる。
すかさずもう一方の手を突き出す。間髪入れずにトドメを――。
「従者の魔術か。逃げずに潜んでおったとは」
「……くっ」
次の攻撃を繰り出す前に霧が復活していた。再び破砕したけど、一瞬で新たな霧が出てきてしまう。
この早さだ。これがこの霧の最も厄介なところだった。マイスも突破することはできたが、魔王の体を直接斬ることはできなかった。
「諦めてたまるかぁ!」
破砕、破砕、破砕。破砕。何度も霧を破砕し、魔王に手を伸ばす。
「良いぞ。予想以上だ。我が霧を破壊した者はそう多くおらぬ。ミナセ・ソラといったか。貴様の名、覚えておこう」
魔王の上で渦巻いていた炎が落ちてくる。魔王ごとぼくの身を包んだ。
鎧の隙間から炎が入り込んでくる。頭と全身が焼ける。
でも、退かない!
掌から衝撃を放ち、霧を破砕する。身を焼かれ、悲鳴を上げそうになりながら攻撃を続ける。
プリーナたちが隠れていると知られてしまった。もう絶対、退くことはできない。この間合いにいるうちに決めなければ、二人に危険が及びかねない。
それにきっと、もう不意打ちは通じない。
「良い判断ではある。だが貫かなければ無意味だ」
青い手が殴りつけてくる。鎧が軋み、全身を焼かれ、それでもぼくは攻撃を続ける。
「掴め、掴め、掴めぇ!」
手を伸ばす。手を伸ばす。苦しい。熱い。だけど。
このくらい、二人を死なせることに比べたら全然大したことじゃない。
「ふん。ならば」
炎が勢いを増す。鎧が溶け落ちていく。
ミィチの魔術がぼくを引っ張った。だけど退きはしない。
このままでは全身を溶かされる。もう数秒ももたない。そうなれば一巻の終わりだ。だけど。
「掴めェ!」
こっちだって、掴んでしまえば終わりだ!
霧を破砕する。何十回目、ぼくは手を伸ばす。
――掴んだ!
霧が復活する。けどぼくの体は弾かれなかった。
ぼくの手は変わらず、魔王の体をつかんでいる。
「喰らえええ!」
絶叫。掌から衝撃を放つ。
魔王の体に直接、魔術が炸裂した。
避けられもせず、剣や炎による防御もされなかった。間違いなく、魔王の体に最大威力の一撃が入った。
それなのに。
「そんな……」
感触が、変わらなかった。
触れる体の形が、変わっていない。
「見事だ。よくぞ我が守りを越えた」
霧の奥から勇ましい声が響く。その声に変化はなく、余裕に満ちている。
黒い炎の中で、ぼくの体だけが音を立てて軋む。
魔王は無傷だった。