45. サーネル・デンテラージュの希望
戦場が夜の闇に支配されていた。
オムンの降らせた雨により作られた巨大な穴のはるか先から、濃厚な黒い霧をまとった黒馬が駆けてくる。その背には巨人が乗っていた。
「あ、あれが……」
「魔王……」
兵士たちが怯えた声を出し、後ずさる。プリーナもひざが震えていた。
まだ地平線に近いというのに――大穴を挟んでいるというのに、背筋が凍る。瞬きをした次の瞬間には殺されてしまっているのではないか。そんな切羽詰まった恐怖を抱かされる。
「ブラムス!」
怯える兵たちの中から影が飛び出す。
「ノエリスっ?」
仲間の無事を知ると同時に、仲間が死地へ飛び込んでいくのを目にする。だが彼女が動いたことで、コードガンも弾かれたように声を上げた。
「決着の時だ! 一瞬で片を付けます!」
そうだ、他の魔族はもういない。兵たちは鬨の声を上げた。
大魔王ブラムス。あれを倒せば、全てが終わる。
「大穴を超える瞬間を狙え! ありったけの魔力をぶちまけてやるんだ!」
「近接専門のやつは左右に分かれろ! 一斉攻撃から抜け出したところを全力で仕留める!」
こちらにはまだ数千の味方がいる。百の実を食らった騎士たちは魔力も多く残しているはず。そして魔王は小細工なしに正面から攻めてくる。
勝ち目はある――はずだった。
「おい、今どのあたりだ! 暗くて見えにくい!」
「なんだ……? さっきより闇が濃く……」
「目くらましか。構わん! 宝石に魔力をこめておけ!」
兵たちが宝石を光らせる。
「プリーナ。オレたちは外れておくぞ。特にお前の魔術はいざって時の奇襲に使った方が良い」
「そ、そうね」
ミィチの言葉に頷き、本隊の後ろへ回る。
幾つもの叫び声が聞こえたのは、その時だった。
「ぐがぁぁぁ! 目が!」
「熱い! なんだ、これ!」
魔王を狙っていた兵たちが目を押さえて苦しみだした。
「眩しい! 光を、光を消してくれえ!」
「何言って……大した光じゃ」
「頼む、早く! うああああ!」
「なにっ? 何が起きているのっ?」
動揺し周囲を見回すけれど、答えてくれる者はいない。ミィチも焦った顔でプリーナの手を引っ張るだけだ。
「馬が跳んだぞ!」
「できる者だけでやるしかない! 撃てェ!」
無数の魔術が絡み合い、巨大な光線となって前方へ飛ぶ。
太陽そのものような、直視できないほどの眩さだった。大地はわずかに触れただけで溶かされ、その幅は山より太く、その速度は弩など比較にもならない。
見惚れるほど――否、恐怖に呑まれそうになるくらい、圧倒的な力だ。
先ほどコードガンたちはオムンの雷に負かされかけていたけれど、今度は訳が違う。本隊には遠距離魔術に特化した者たちが多く残されていたのだ。その中には百の実を食べた者たちもいる。
おそらくたった一度切り。けれどこの一撃だけは避けることも迎え撃つことも不可能だ。魔王相手でもそれを確信できるだけの迫力があった。
「よいぞ! これだ! この瞬間を待っておったのだ!」
魔王の歓喜する声が大地を震わせる。光線の奥で真っ黒な炎が燃え上がった。
光と炎がぶつかる。
「ははは……ふふははははは! よいぞ、よいぞォ! これでこそ待った甲斐がある! 我を存分に楽しませよ!」
「わ、笑ってやがる」
「おのれぇ……人間を馬鹿にするなあああ!」
この一撃で全てが終わると思っていた。それなのに、炎が消えない。光が押し返されている感じはしないけれど、光の奥には依然として黒い炎が燃え上がっていた。
まさか数千人分の魔力をたった一体で受け止めるなんて。いくら魔王といっても常軌を逸している。
「怯むなァ! 押し潰せェ! 絶対にこの一撃で決めるんだ!」
あまりに規模が大きすぎて、優勢か劣勢か判断がつかない。怒り狂った神々の戦を見ているようだった。
「おい」
ミィチが服を引っ張ってくる。
「ここから魔王の腹の中を狙えるか?」
いま狙えば魔王の攻撃を弱め、一気に押し潰せる。当然の提案だ。けれどプリーナは首を振った。
「無理だわ。せめて一度近づいてからじゃないと、正確な位置が測れない」
「そうか……」
目で測るには遠すぎるし、何より今は光のために魔王の姿も見えない。オムンの時は自身の魔術で距離を取っていた上、オムンが同じ場所に留まっていたから逆算で何とか位置を当てられたのだ。
せっかく百の実を食べて飛べる距離を伸ばしても、プリーナにはそれを活かしきる力がない。一か八かでやるにしても、間違ったところを開けば穴の向こうは光か炎。穴の傍にいただけで焦がされかねない。安易には使えなかった。
光と炎の衝突はしばらく続いた。兵たちの魔力が底をつき、少しずつ光が細くなっていく。それに対し、炎の勢いは衰えていなかった。
「嘘。押されているの?」
「いいえ、まだです」
プリーナの声に誰かが答える。
振り返ると、後ろにコードガンが立っていた。
「あなたの魔術で、私を魔王の背後まで送ってください。正確がつかめないのであれば遠くとも構いません」
「女王様、まさか」
魔王を攻撃して魔術を封じるつもりだろうか。でもそれでは、女王まで。
「ご安心を。私の結界ならば光に飲まれても問題ありません。どの道ここで仕留められなければ、おそらく人類は滅ぼされるでしょう」
「……わかりました」
プリーナは空間を切り、穴をあけた。ラージュの助けに期待したいけれど、すぐには来られないかもしれない。彼が来る前に全滅してしまったらそれこそ打つ手がなくなる。
「どうかご無事で」
「ええ。魔王を討ち果たした後も、多くの仕事が待っていますので」
コードガンが穴に飛び込み、姿を消す。
その数秒後、ぐらりと炎が歪んだ。
「揺れた……! 押し返したぞ!」
「力を緩めるな! 出し尽くせェェェ!」
兵たちが最後の咆哮を上げる。
形勢は瞬時に逆転した。
光が炎を押し潰し、奥にいる魔王を飲みこむ。光はさらに前方へ突き進み、大地や山々を抉り取った。
光は止まらない。大地を溶かし、あたりの闇を吹き飛ばして、ほんのひととき晴れた空を取り戻す。再び空に闇の霧が戻った時、ようやくふわりと消えた。
戦場を静寂が包む。
魔術を放っていた者たちは敵の無事を確かめる余裕もなく、それぞれ崩れ落ちる。魔力を失ったとき特有の内から来る寒さに震えた。文字通りの全身全霊、持ちうる限りの力を使い果たしたのだ。
「やった……よな?」
ミィチが呟く。疑問の色が残るのはプリーナも同じだった。
近接戦闘専門の兵たちが、魔王が落ちたとみられる大穴に入っていく。その中にはノエリスの姿もあった。
「そうだわ、女王様は!」
プリーナははっとして走り出す。宝石を光らせ、空中に穴をあけた。
穴の先に飛び込むと、すぐに倒れている人影を見つけた。
けれど。
「そんな……」
息はある。鎧は崩れ皮膚には火傷を負っているものの、それ自体は大したものではなさそうだ。
けれど、足だけは別だった。
両足がない。溶けてしまったのか、跡形もなく消えていた。
立ち尽くすプリーナに気づき、女王が目を開けた。
「女王様!」
「魔王を盾にしたのですが、それでもまだ足りなかったようです」
声は掠れ、体はひどく震えている。
「問題はありません。この程度の傷は想定済みです」
「想定、済み……?」
とても予断の許される状態には見えない。けれど女王は冷静だった。
「魔王はどうなりましたか」
「……いま、皆が大穴の中を調べています」
そうですか、とコードガンは微笑む。
「これで倒せていなければ絶望的ですね。私たちを飲み込んだ光の中で、魔王を守る霧が割れる音を聞きました。魔王は光を生身で受けたことになる。あの状況から生き延びることなど不可能なはずですが……」
突然、コードガンの足の付け根から軋むような音が出る。女王の顔が歪んだ。プリーナは思わず悲鳴を上げた。
「ご心配なく。結界で止血しただけです」
コードガンは結界に乗って空中に浮き上がる。脚を失うほどの傷を負ってまだ動けることに驚く。想像を絶する苦痛があるはずだ。けれど止められない。魔王が生きているかもしれないと考えたら、この場で無防備を晒し続けるわけにはいかないのだ。
――魔王が生きているかもしれない。コードガンは大丈夫だと言ったけれど、その不安が拭えなかった。
数千人が放った全力の魔術を受けて無事でいられるはずがない。そう信じたい。
けれど。
コードガンを見上げ、唾を飲んだ。
胸の奥が騒ぎ出す。
生きていてもおかしくはない。何故なら現実に、コードガンは生き残ったのだから。
魔王を盾にし、足を失ったとはいえ、彼女はまだ魔術まで使っている。
もし。もしも魔王が、『扉』に似た魔術を使えたら。
もしも魔王が、分身の魔術を使えたら。
黒い霧が割れたのが、コードガンの聞き違いだったら。
――魔王に傷を負わせる手段自体が、なかったとしたら。
突如大地が揺れ、爆発音が轟いた。
大穴から黒い火柱が立ち上る。
「……ノエリス?」
あの中には魔王の生死を確かめに多くの兵士が入っていった。ノエリスもそうだ。
では、彼女たちは今――。
プリーナは炎を見あげる。頭の中で警鐘が鳴り響いた。
炎が消え、一つの影が浮き上がってくる。
「大儀である」
その大きな体が黒い霧に包まれていく。
「此度の働きに感謝を示そう。ネアリー・コードガン、貴様を生かしておいたのは正解であった」
霧に包まれる直前、生きているのが不思議なほど痩せ細った、皴だらけの顔を見た。首から下の甲冑は焼け落ち、枯れた枝のような全身を包むものは何もない。けれど。
魔王は無傷だった。
プリーナは動けなかった。コードガンすら言葉を発さない。
あともう少しだったのに。甲冑は壊したのに。
人々は仕留められなかった。滅びの未来を、払いのけることができなかった。
真っ黒な濃霧の奥で、魔王が笑った。
「さあ、我を楽しませよ。まだやれるであろう?」
そこからの戦いは一方的だった。戦える者のほとんど残っていない本隊に無数の青い手が降り注ぎ、魔王に立ち向かった者たちには黒い炎が襲いかかる。
舞い戻ったコードガンが結界を張ったが、負傷や魔力不足のためか容易く破られ、ほんのわずかな時間を稼ぐことしかできなかった。
恐怖のあまりに逃げ出す者たち、負傷者を運ぶ者たち、魔王の前に立ちふさがる者たち。様々な者がいたが、もはや誰一人として魔王を討とうとする者はいなかった。
「よい。その無様を許そう。貴様たちは我の魔術に打ち勝った。己が偉業を誇りに思い、果てるがよい」
人々が戦意を喪失しても攻撃の手は緩まない。この世の全てを殺し尽くさんと魔王は魔力を暴れさせる。
人が死ぬ。一人、一人とその一生を終えていく。プリーナには見ていることしかできなかった。
プリーナはまだ大穴のそばに留まっていた。足がすくんで動けずにいたら、魔王が本隊の方へ向かってしまったのだ。
「何とか……しなきゃ」
手元の宝剣を光らせる。けれど体が動かない。
「耐えろ。オレたちだけじゃ無理だ」
そばに来ていたミィチがプリーナの腕をつかむ。彼女の手も震えていた。
「マイスかラージュが来るまで待つんだ。あいつらの力とお前の魔術なら、奇襲で倒せるかもしれない」
その言葉にはっとする。風が吹くたび人が死んでいく地獄を前に、ミィチは勝利を諦めてはいなかった。
「どうやってあの光から逃れたかは知らないが、もう同じ手は喰わない。気づかれる前に攻撃すればいいだけだ」
そうだ。まだ勝機はある。まだ人々は負けていない。
だから、早く――。
祈るように彼方を見あげたときだった。
「いい加減にして」
声がした。直後大穴から、誰かが飛び出す。
「……いまの」
その背中を見る。大きな後ろ姿に息を飲む。
「故郷を壊して、ツワードを殺して――その上まだ奪うのか!」
憎悪に満ちた怒声が響く。聞いたこともないような声だけれど、間違いない。ノエリスだった。
黒い霧で守られた魔王にノエリスが飛び掛かる。
しかし、青い手が空中に現れ、あっさり払い飛ばされた。
「ノエリス!」
「おいっ、待て!」
ミィチの制止も聞かずプリーナは飛び出していた。止まれない。ずっと動かなかった足が今度は勝手に走っていた。
弾かれ地面に落ちたノエリスの前に立ち、プリーナは両手を広げた。
魔王がわずかに振り返る。
「我を討たんとする者が現れたかと思えば……拍子抜けにも程がある。この無礼は終わりのない痛みで支払ってもらおう」
魔王の周りで黒い炎が渦を巻く。終わりのない痛み――ツワードにかけた死ねない呪いをノエリスにもかける気だ。
炎がまっすぐに襲い来る。プリーナは宝剣を振り、空間に穴をあけた。
自身の前と、魔王の腹の中を繋げる穴を。
炎が曲がることはなく、そのまま穴の中へと入っていく。
「己の炎で焼かれなさい、魔王!」
黒い霧の内から轟々と燃え上がる音が漏れる。ブラムスの全身が彼自身の魔術によって包まれた。
「ほう。よい魔術であるな」
けれど魔王は平然と呟くのみだった。苦痛の呻きも反撃への驚きもなく、ただ感心したような息を漏らす。
「それだけに度し難い。使いどころを見誤るなど」
「そんな……どうして」
後ずさるプリーナに魔王が開いた手を向ける。
「我の魔術で我は殺せぬ。奇襲を仕掛けるならばより力のある戦士と手を組むべきであった」
黒い炎が、再び襲いかかる。今度は穴には飛び込まず、プリーナの前後左右を取り囲むように広がった。
「させません」
コードガンが飛び出し結界を展開する。しかし結界は二秒ともたずに割れてしまう。
「くっ……」
プリーナが次の穴をひらく余裕もなく、再び業火が襲いかかる。
プリーナたちの体が後ろから引っ張られた。おそらくミィチの魔術だろう。けれど炎の速度には負けている。このままでは追いつかれる。
結界の展開は間に合わない。空間を切る暇もなく、本隊の者たちももはや飛び出せる状態にはない。
「――ごめんなさい、ラージュ」
プリーナは目を閉じる。
これ以上、辛い思いはさせたくなかったのに。
たくさん酷い目に遭って、それでも折れずに戦って……やっと仲間を得られたラージュを、苦しめたくなかったのに。
「大丈夫だよ。プリーナ」
どこからか、声が聞こえた。
プリーナのわずか上を風が突き抜ける。
「きみは、ぼくが守るから!」
周囲の炎を根こそぎ巻き上げ、彼――ラージュは魔王と衝突する。
黒い霧ごと魔王が押され、本隊のほうへと突っ込む。舞い上がった土煙は一瞬にして内からの風圧に吹き飛ばされた。
「ほう。ガラードを倒したか、あるいは逃れてきたか……どちらにせよ」
本隊の兵たちに囲まれて、二つの影が向かい合う。
「サーネルよ。貴様ごときが今さら現れ、戦況を覆せると思っておるのか?」
「間違えるな」
瞬間、魔王を守る霧が鈍い音を立てた。ラージュが腕を生やし、念力で飛ばしていた。
ラージュは躊躇ひとつなく魔王の前に立ち、身構える。
そして初めて、人々の前で本当の名を叫んだ。
「ここにいるのはサーネルじゃない。その意志を受け継いだ者――ミナセ・ソラだ!」