44. 虎狼の心
「サーネルが妙な動きを見せておる。監視に付け」
魔王ブラムスがバンリネルに命じたのは、今よりおよそ半年前のことだった。
サーネル・デンテラージュ。それは魔王の息子の名である。聞けば彼は一人何度も姿を消し、魔術の研究をしているという話だった。
魔族のすることは決まっている。きっと人を甚振っているのだろう。魔王は何か疑っていたようだけれど、バンリネルにはそうとしか考えられなかった。
また悪夢のような光景が待っているのだろうか。身震いしながら、伝えられた情報をもとにとある山岳地帯へ向かう。
かつて、バンリネルは孤独だった。
魔族は人間を殺し、甚振り、嗤う。その残忍さには際限がなく、これ以上の地獄はないと思っても、彼らはさらにおぞましいものを見せてくる。凄惨な死を演出した魔族は悦に浸り、それを目撃した魔族たちは手を叩いて喜んだ。
魔族にはそれが普通だった。人間が築く文化とは違う。彼らは生まれた瞬間から虎狼の心を持っているのだ。
バンリネルはそれが恐ろしかった。彼にとって人の苦しみは辛く耐えがたいものであり、笑って見ていられるようなものではない。けれどその気持ちを理解してくれる者はおらず、打ち明けることも立ち向かうこともできないまま、彼は孤独の闇に落ちていった。
魔族とは人を殺す者。甚振り嗤い、悦楽に浸る者。自身もそうならなければいけない。孤独であることの辛さから、いつしかバンリネルはそんな考えを持つようになった。
しかし魔王の命令をきっかけに、彼は変わる。
サーネルが姿を消すと言われる山岳地帯に、底の見えない谷があった。一見何の変哲もない。バンリネルも初めはそこに何かがあるとは思わなかった。あまりに周囲に変わった者がなさ過ぎて、ひとまずここを覗いてみようと考えたのだ。
その先には、町があった。
魔術で作られた太陽、緑豊かな土地、そこに暮らす笑顔の人々――サーネルの目的はこの町に違いない。確信したバンリネルは、こっそりと地底を見回ることにした。
洞穴の中、サーネルと人間の少女が寄り添うのを見たのは、それからすぐのことだった。
正確には少女が眠りこけ、サーネルに甘えたままもたれかかっている。とても温かで、地獄とは真逆の世界だった。
魔族は残忍でなければならない。魔族は地獄を作り出すもの。恐ろしい考えが一瞬にして吹き飛ばされる。バンリネルは、サーネルと話がしたいと切に想った。
けれどそんな勇気はなかった。いま近づいたら殺される。あとで今のことを話しても殺される。バンリネルにはそんな未来しか想像できなかった。
「何を見ておる」
だから、こちらの存在に気づかれた時、バンリネルは恐怖で動けなくなった。
「貴様か、泥水。使い走りが我に何の用だ」
「ァ……ァァ」
上手く声が出せない。このままでは本当に殺されてしまう。
けれど、サーネルは鼻で笑っただけだった。
「貴様は臆病者だったか。覚えているぞ、以前殺される人間を見て震えていたな。弱者は多く見てきたが、我の前でそのような醜態をさらした魔族は貴様くらいなものだ」
馬鹿にされてもいい。今はとにかく許されなければ。バンリネルはぶるぶると震える。
だが、必要なかった。
サーネルは少女の真っ赤な髪を優しく撫で、微笑む。
「今は、貴様の思いも分かるがな」
「……?」
「我も人間の死が恐ろしくなった。こやつにしてやられたわ」
その笑みに恐怖が解かされる。気づけばバンリネルは、自身の孤独を打ち明けていた。
それからというもの、バンリネルは何度も監視という名目でサーネルと話をしに行くようになった。喋るのは不慣れだったが、サーネルとだけはたくさん話した。ヘレナという少女のことについて相談されすらした。彼は孤独から解放されたのだ。
サーネルが人と会っているは魔王には黙っていた。太陽の町のことについてもだ。
けれど。
サーネルは魔王に立ち向かうことを決め、敗れた。
そして再び、バンリネルは孤独に落ちる。
*
ぼくは岩場の上に立ち尽くし、途方に暮れていた。
「どこなんだ、ここは」
足元の岩は雪も降っていないのに真っ白だった。前には白い火山、後ろには真っ青な海。こんな場所は見たこともない。
気づくと傍の岩の上に鳥がいた。細長い体を右に左に傾けじっとこちらを観察している。軽石でできたような皮膚はやはり、今まで旅してきた土地では見なかったものだ。
「サーネル様」
背後で声がした。弾かれたように振り返ると、土色の水が地面から浮き出してきた。それは瞬時にゼリー状に固まり、ぶるりと動き出す。
「二人はどこだ。バンリネル」
見知らぬ土地にぼくを飛ばしたのは彼だ。ガラードからの逃走中、バンリネルの発した光に飲み込まれ、気づいたらここにいた。
バンリネルは世界中に配置された魔法陣――『扉』のある場所へどこからでも飛べる。ぼくはその移動に巻き込まれたのだ。
その時ぼくはプリーナ、ミィチと共に空中を落ちていた。ここに飛ばされていないということは……悪い考えが頭をよぎる。
「無事。元ノ場所にいる」
「信じられない」
「無事! 信じル!」
「だったら元の場所に戻せ! 確かめなきゃ信じられない!」
「ダメ! サーネル様、死なせナイ!」
予想外の返しに面食らった。かっと熱くなった頭が少し冷静さを取り戻す。
「死なせないって……」
どういう関係だったかは分からないけど、バンリネルはサーネルを慕っていたらしい。だから危険な戦場に行かせまいとぼくを足止めしているのだろう。
それなら無事という言葉は本当なのかもしれない。そう信じてほっとしたい。
でも。
「忘れたの? ぼくはきみを殺そうとしたんだよ」
「……」
シーベルを追っていた時ぼくはバンリネルと遭遇した。そこにツワードとノエリスが駆けつけてきて、争いになる前にとバンリネルに魔術を放ったのだ。結果的に彼は死なず魔王を呼び寄せることになったけど、その殺意は伝わったはずだ。
彼が言葉に詰まったことからもそれは明らかだった。
「しょうがナイ。サーネル様、人間ノ味方だから」
「そうだよ、きみの味方じゃない。それでもぼくを守るの?」
「……」
バンリネルはまた黙ってしまう。俯くように泥水の体を平たく広げると、ぽつりと小さな声で答えた。
「バンリネルも、人間ノ味方」
「え?」
「……に、ナリたかった。ナリたい。ダカラ、二人無事」
今度はぼくが黙る番だった。目をぱちくりとして潰れた球状の体を見下ろす。
人間の味方? 魔族が?
ぼくを守ってくれたメニィでさえ人間を苦しめて愉しんでいたのに。白猫の獣人を愛した|犬の獣人≪クヌール≫もそうだ。人々に対する白猫の残酷な仕打ちは気にもしていなかった。
サーネルは人間のヘレナを愛していたから、絶対にありえない話ではないけど――。
「人間の味方なら、どうして止めるんだ。人間が滅ぼされるかもしれないのに」
「諦めタ。魔王、強すぎル。勝テない」
どうせ勝てずに滅ぼされるなら、せめてサーネルは守ろうということか。辻褄は合う。
この際疑うことは忘れよう。どちらにせよ、戻らなきゃいけないことに変わりはない。
軽石のような鳥が乗る岩に拳を向ける。一番近くにある大きな岩はこれだ。つまり。
魔術で手の先から腕を生やし、殴りつける。驚いて鳥が逃げていった。
何も……起きない。
「無駄。その『扉』、壊した」
「!」
「魔王と繋がっタ『扉』、モ、壊した」
先手を打たれた。どうやらバンリネルは本気でサーネルを引き留めるつもりらしい。
『扉』に頼らず戦場へ向かう、というのは可能だろうか。
……無理だろう。雪の降り積もったような真っ白な岩場は、マリターニュなどで見た黒い岩とはまるで別物だ。おそらくここは別の大陸。最悪、地上でもっとも戦場から遠い場所かもしれない。そもそもどちらへ向えばいいかもわからなかった。
つまりはバンリネルに頼るしかない。まさかここにきて彼が最大の障害になるとは思ってもみなかった。
「バンリネル、お願いだ。戦場に行かせてほしい」
「ダメ」
「今のぼくなら魔王に勝てる」
「無理」
「今までとは違うんだ。今のぼくには皆の力がある」
「知ってル。結界の中、変ナ木、見た」
ネアリーに侵入していたのか。でもきっと本当には分かっていない。
ぼくは手の先から生えたままの腕を火山に向け、念力で吹っ飛ばす。腕は一瞬にして火山を貫き、轟音を上げた。
火山の頂上がはじけ飛ぶ。風が吹き荒れ、周辺の鳥たちが大慌てで逃げ出すのが見えた。
「これでも勝てないっていうのか」
『百の実』によってもたらされた恩恵は、単なる魔力の増幅だけじゃない。魔術の質も上がっているのだ。念力のパワーも、生み出した腕の強靭さも、今までとは比較にならない。
「ガラードの方が、強イ」
「う……」
「ガラードでも、魔王、倒せナイ」
確かに、あの包帯の怪物が放つ熱線は今の念力よりさらに凄まじい火力を持っていた。でもこちらは一人じゃない。
「一対一じゃ敵わないかもしれないけど、こっちには味方が」
「魔族の方が、多イ」
「ぐ……」
数の差でも負けているのだった。不利だからこそ加勢に行きたいのだけど……説得は諦めよう。
最後の手段だ。
「どうあっても、サーネルを殺したくないのか」
「ナイ」
「じゃあ、もうサーネルが死んでるって言ったら?」
「――」
バンリネルが固まる。けどそれは動揺ではなかった。
苦しんでいるような震えを見た。辛そうに呻く声を聞いた。その反応は、衝撃を受けた者のそれとはまるで違っていた。
「知ってル」
バンリネルはいった。
「サーネル様、死んダ。でもお前、選ばレタ。だからお前、サーネル様」
知っている……? それも、サーネルの意思でぼくが呼ばれたことまで?
「サーネル様、友だち。魔術、全部知ってル。だから、分カル」
「きみとサーネルが、友だち?」
馬鹿にしたわけじゃない。様なんて呼んでいたし、想像のサーネルは気軽に友だちなんて作るタイプには思えないし、何より魔族同士でお互い大切に想うなんてあまりに稀有な例だった。
けど、サーネルもバンリネルも人間の味方だ。それが本当だったなら自然な話かもしれない。
「サーネル様、お前|遺≪のこ≫した。お前、大事。死なせナイ」
「そっか。きみは本当に、サーネルのことが好きだったんだね」
白い岩場に片膝をつき、バンリネルに手を触れる。
戦場に行かせないならこの体で自害する。そう脅せばバンリネルは聞いてくれるだろうか。
でも、それは嫌だ。
「バンリネル。きみなら分かってるよね。どうしてサーネルが、自分の体にぼくを呼び出したか」
「……」
大切なヘレナを苦しませたくなかったから、彼は魔王に挑み、敗れた。それでも諦めることができずに、死の間際、最後の力を振り絞ってぼくを呼んだんだ。
「きみの言う通りだよ。サーネルはぼくを遺した。ぼくはサーネルの意志だ。世界を救う、そのために呼ばれてきたんだよ。ここでぼくが動かなかったら、サーネルは何もできないまま死んでしまったことになる。でも、そうはさせない」
「……」
「サーネルは世界を救って死んだんだ」
バンリネルに両手を触れ、抱き上げる。赤子のように小さい体は、沈黙したまま震えていた。
「……嫌ダ」
泥水の体が首を振るように揺れた。
「嫌ダ。お前、死なせナイ。死なせナイ!」
「大丈夫。ぼくは必ず帰ってくるから」
「嫌ダ!」
胸がチクリと痛む。ぼくは強く、小さな体を抱きしめた。
バンリネルは泣き出した。涙はない。だけど確かに、子どものように泣きじゃくっていた。