1. わたしを見ないで
2018/01/18 改稿しました
この世界にも海はある。時に穏やかに、時に激しく人々を翻弄する、大いなる自然の象徴。陸と陸は切り離され、水を渡れない者にとっての壁となる。船の届かない離島などは監獄にも等しい。
その利便性――捕らえた人間を管理しやすい点から、ある程度の地位を預かる魔族には島が与えられる。国と国を繋ぐ中継地点を奪う意味もあった。
当然、島の奪還を試みる国もある。が、そのことごとくが返り討ちに遭い、未だ魔族の支配を退けられずにいた。大魔王であるブラムス・デンテラージュは魔力なき者の台頭を絶対に許さない。島を得るということは強さの証明でもあり、その打倒は困難を極めるのだ。
そしてここ――黒く硬い地盤で作られた岩の塊のような島も、奪われた土地の一つ。石造りの城と多くの民家、加えて大きな港を抱えたそこは、かつての活気を完全に失い、悲痛な呻きが絶えない地獄と化していた――。
黒々とした大地に鋼の刃が突き立つ。
「この、私が……!」
白く光る鎧に青のサーコートを纏った騎士が膝をつく。面頬付きの兜は激しく損傷し、内に隠れたはずの金髪を露わにしている。背後ではワマーニュ家の紋章が入った旗が揺れていた。ただしその旗を掲げる者はない。兵士の遺体を地面に縫いとめる形で自立している。
「ふうん、結構やるじゃないかい。まだ喋る力があるとはねえ」
ぷくぷくと宙で寝転がるのは、全身を鱗に覆われた魚人の女。大きく腫れ上がったような唇がにやにやと余裕を見せつける。魔術で作られたらしい直径二メートルほどの泡に乗る形で浮いていた。
「貴様、なんのつもりだ」
「なんだい?」
「騎士を愚弄するつもりか! 何故トドメを刺さない!」
「馬鹿だねえ、決まってんだろう。勿体ないからさ。こっちもずいぶん痛手を負っただろう? アンタを使って楽しいことでもできないかってねえ」
周囲には多くの死体が散乱していた。その数、実に三十。人間のもの、魔族のもの――圧倒的に前者が多い。死した魔族はわずか二体だった。
そして人間の生き残りは満身創痍の騎士が一人。魔族の残りは四体。圧倒的だったはずの数の差は、気づけば逆転している。
さらに――。
「お。帰ってきたみたいだねえ」
「……!」
魚人の視線の先。ワマーニュ家の船が二つに折れていた。いや、たった今折れられていた。沈んでいく船の上から三体の魚人が跳躍する。
七体一――そもそもの戦闘力で劣る人間からすれば圧倒的な差。
ついに騎士は、剣を落とした。
「ロワーフ様……申し訳、ございません……」
諦念。ここに勝敗は決した。ワマーニュ家は多くの兵を失い、島の奪還に失敗した。
この場の誰もがそう確信していた。
「喋るな。舌を噛むぞ」
たった一人の男を除いて。
大地に大岩が激突するような、鈍く破壊的な音が轟く。
地面が大きく揺れ、泡に乗った魚人以外の全ての魔族が体勢を崩した。当然、騎士も。
「一」
低い声。直後、船の傍で魚人の首が飛ぶ。
「二、三」
傍にいた二人も胴を真っ二つに切り離される。
騎士も、魔族たちも唖然としてその光景に目を奪われた。
三人を切り伏せたのは、たった一人の大きな男。土に塗れたボロボロの鎧を着た黒髪の男だった。がらがらと血の付いた大剣を引きずり、黒い岩の上を堂々と歩いている。
彼がすぐに怒りを買わなかったのは、冷たすぎる気配と常識外れの武器のため。
それは白く鈍い光を放つ、ごくシンプルな形の大剣だった。目を見張るのはその大きさ。体格の大きな彼であっても不適格と感じるほどの――四メートルは優に超えるという破格さである。
だが魚人たちを麻痺させた驚きも一瞬のこと。
「敵は一人だよ! さっさと片付けちまいな!」
彼らは怒号のごとき指揮に落ち着きを取り戻すと、次には雄叫びを上げ口から巨大な泡を放った。ぷくぷくと浮かぶ様子とは裏腹にその勢いはすさまじい。矢にも劣らぬ速度で男の身を取り囲み――。
爆発した。
瞬間、熱風と煙が周囲に広がり、男の姿が見えなくなる。
「先手必勝さ。どこの手練れか知らないけどねえ、死んじまえばそれで終わりだよ」
にたにたと厚い唇を歪ませ、魚人は嗤う。
だが、その余裕もまた一瞬のことだった。
「少し強すぎるな」
声が響く。先程と同じ、抑揚のない低い声――。
「なっ……!」
煙が晴れる。男は立っていた。鎧は砕け、筋肉質な肉体が晒される。防具が消し飛ぶほどの攻撃を受け、彼は五体満足に立っていたのだ。
そして、構えている。超重量の剣を逆手に持ち直し、右腕のみで肩まで持ち上げ――まるで、投げようとでも言わんばかりに。
「くそっ!」
魚人が逃げ出す。男は動かない。追いもせず、見逃しもしない。
無言で敵との距離を測り、じっとその瞬間を待つ。
まっすぐに視線を飛ばし――騎士の傍らを通り過ぎ――頭である魚人を見据えて。
「お前たちは危険だ。ここで死ね」
既に勝敗は決している。
剣が、飛んだ。
*
獣の脳天から短剣が飛び出す。
刃を抜かれると、獣は悲鳴も上げず山の中を転がり落ちていく。
白く熱のある息を吐き、繊細な金の髪の少女――プリーナ・ワマーニュは皮のフードを脱いだ。手の中で宝剣が光り、付いた血が赤い塵となる。その傍らで、開いていた空間の穴が閉じた。
プリーナの魔術は狩りに向いている。外からの行商を失った村においては生活に欠かせない力だ。そう、彼女はマリターニュの抱える村々のために食糧確保をしていた。頬が赤く火照っているのは不可抗力に過ぎない。
マリターニュの騎士や傭兵は魔族の支配に抗うべく、ほとんどの期間を戦と療養に費やしている。領主であるロワーフ・ワマーニュは、戦には出ないものの、領地や武具の管理、国家との連携で手一杯だった。
だから市民の生活はプリーナが守らなければならない。魔族を見つければ打倒し、獣を見つければ持ち帰る。それが自身の務めだと信じていた。
「あの子――サーネルはどうしているかしら」
木々の間を縫うように下りながら考える。彼とはあの森で別れた。彼はとても無垢な少年だったけれど、魔族をそう簡単に町に招くわけにはいかない。それにサーネルには目的があった。
――魔王を殺すよ。お父さんを裏切ろうと思う。
彼の目を思い出す。怯えてばかりいたはずの緑の瞳は、強い光を帯びていた。本当に、やり遂げてしまえるんじゃないかと思えるほどに。
それにしても、本当に不思議な魔族だった。人間みたいに泣いて、人間みたいに助けてくれて。
声の響きも子どもみたいで可愛かったなと、プリーナはくすりと笑った。
「――わたしとは真逆ね」
自嘲の呟きに、笑みの色が変わる。
逆手持ちの宝剣を見下ろした。わずかに震えている。興奮のためだ。
魔族を殺し、獣を狩り――そうしてあるべき自分へ近づこうとする度理想からかけ離れていく。理想の自分を見失う。
「だ、誰か! 助けっ、助けてぇ!」
声に目を見張り、二束のお下げを揺らし振り返る。
――ああ、お願い。見ないで。
どこかで子どもが襲われている。助けを求める声がする。
だというのに。怒りと焦りで走り出すべきなのに。
恍惚とした笑みが浮かんでしまう。ひどく冷静に空を裂いてしまう。
空間にできた穴に飛び込みながら、プリーナはぞくぞくと気持ちを昂ぶらせていた。
どうか、お願い。
わたしを見ないで。