43. 皆殺しの雨
魔族軍により作られた肉壁の内側に、雷の束が落ち続けている。
コードガンと騎兵たちを守る結界は数百数千の雷を受けてもびくともしない。しかし重圧までをも無効化することは敵わず、大地に縫い付けられて動けなくなっていた。
部下たちが結界を出ることはできる。が、結界を通して感じる圧からして、生半可な魔術で雷に対抗するのは不可能だ。たとえどんなに肉体を強化し攻撃魔術で弾幕を張ろうと、一歩飛び出せば瞬時に体が蒸発することだろう。
そして今、頼みの綱である結界までをも破壊するべく、ポーランが人差し指を振る。
「じゃあそろそろ、死んでもらおうかなぁ?」
尖った岩が空中に出現した。あれをほんの数回撃ち込まれればコードガンの結界は崩壊する。すなわち敗北だ。
岩が一つ、放たれる。
「させるか!」
部下の一人が岩を放つ。しかしそれは結界を飛び出した瞬間に蒸発し、ポーランの放った岩は無傷で結界に到達した。そして音もなく砕け散る。
それとほぼ同時に、影――コードガンの部下がポーランに襲いかかっていた。
「おっとぉ、もう食らわないよぉ」
しかし二度目は通じない。首に刃が届く前に雷が飛び、影を蒸発させた。
オムンの魔術は連携に向かないと思ったが、目の届く範囲ならばコントロールは効くらしい。加えてこちらには雷を貫通できるほどの魔術がない。二つ、三つ、五つ八つ――連続で放たれる岩の群れをコードガンは見ていることしかできなかった。
ポーランが隈の刻み込まれた目をにやにやと細める。
コードガンは目を閉じた。もはや策はない。
敵軍に飛び込んだこと自体が無謀な賭けだったのだ。状況をひっくり返すためと言えば聞こえはいいが、実際は突撃するよう誘いこまれただけに過ぎない。
「ここまでですか」
耳をつんざくような高音が響く。結界が震えヒビが入る。
結界が、割れる――。
コードガンたちのすぐ横を『無数の雷』が通り抜けたのは、その時だった。
「なっ、ぐがああああっ」
雷はポーラン、それに敵軍の魔族たちを貫き焼き焦がす。傍にいたオムンは寸でのところで回避したが、奇襲に驚いてか魔術を止めていた。
いや……止めていない。今も雷は落ち続けている。
結界を失ったコードガンにそれが届かないのは、彼女らの頭上にできた穴のためだった。
空間に裂け目が走り、そこから穴があいている。雷は全て穴の中に入り――おそらくだが、別の場所から飛び出してきた。
それが今ポーランを焼き焦がした雷の正体。そして空間に穴をあけた者は――。
「女王様! ご無事ですか!」
「あなた方は……」
雷を受け止める穴の反対、コードガンの頭上から二人の人物が落ちてくる。金の髪の少女と小さな子ども。サーネル・デンテラージュの仲間、プリーナとミィチだった。
「状況は『穴』を使って見ていた! 今はあの石像を!」
ミィチが指差す。コードガンは瞬時に反応し結界を生み出していた。逃げる隙を与えず、オムンを上から叩き潰す。
「――ッ」
甲高い金属音が響く。オムンの悲鳴だ。確かに手ごたえがあった。
雷が止まる。だがまだ終わってはいない。結界をゆらりと浮かばせ、再び振り下ろす。
「――」
悲鳴は上がったが体が割れない。硬い体をしている。コードガンだけでは仕留めきれそうになかった。
コードガンたちとオムン、それにポーランを入れるよう結界を展開する。察して入ってきた魔族もいたが、すぐに迎撃された。
「ここで二体を仕留めます!」
近接戦闘に特化した鉄の騎兵たちが味方の強化魔術を受け、全身から湯気を放つ。数瞬ののち、一斉に飛び出した。
「残念でしたぁ。やらせないよぉ」
一歩早くポーランが起き上がり、オムンに岩を放った。石像の体が弾かれ逃れる。
それだけではない。岩は周囲にも飛び結界を攻撃する。直後結界が震えて割れた。結界はすぐに張り直されたが間に合わず、オムンは敵軍の中へ逃げ込んでいた。
だがポーランには攻撃が届いた。防壁を張ったが彼らの猛攻にはかなわず、氷の剣で斬られ、燃え盛る馬の蹴りを浴び、光り輝く金づちに殴られる。体中に穴をあけ、白目を剥いて倒れた。
「攻撃を止めてはなりません! 跡形もなく打ち砕いてください!」
ポーランは先ほども胸を貫かれてから回復した。どういう仕組みか、彼は倒れた後でも自ら復活できるのだ。それならば体が治癒を始める前に命を奪うほかない。魔族と言えど、死んでしまえば蘇ることはない。
「だ、ダメです!」
長剣を振っていた騎兵が悲鳴を上げるように答えた。
「こいつ……どうなってる! 斬っても斬っても先に傷が塞がりやがる!」
「魔術を使っているのに、なぜ!」
コードガンは目を見張り、ポーランの全身を観察する。
「そういうことですか」
すぐにわかった。彼が致命傷から立ち上がり、今も魔術を使う素振りも見せずに回復し続けている理由が。
傷を負った本人は魔術を使っていない。だが。
「ポーラン。あなた自身の体が魔術を使っているのですね」
「へぇ。よく分かったねぇ」
攻撃を受け続けながらポーランは嗤う。じりじりと地面を這い、少しずつ結界の外へ向かっていた。
分かってしまえば仕組みは単純だ。ポーランは魔力を仕込んだ道具自体に魔術を使わせることができる。獣人たちが易々と魔術を扱っていたのはそのためだ。
それを応用して自身の体、臓器や骨に魔術を使わせているのだろう。傷を負ったら自動で治癒できるように。
「ならば全身を一度に潰せばいい! そういうことですね、陛下!」
光る金づちを振るっていた騎兵が両手を掲げ、金づちを巨大化させる。大男を三人は潰せてしまえる大きさだ。振り下ろせば間違いなくポーランの全身が打ち砕かれることだろう。
それなのに、動けないはずのポーランはまだ嗤い続けていた。
「クキキ。もう遅いよ。だってお前ら、ボクの防壁に触れただろう?」
まさか、と思う暇もなかった。
ポーランを囲んでいた騎兵たちを中心に小爆発が起こる。防御することもままならず、彼らは倒れた。
結界を破壊した岩と同じだ。触れた場所を爆発させる魔術――それと防壁を組み合わせたのだろう。
「ざまあみろ。雑魚どもが」
ポーランは顔を歪めて立ち上がると、自身の周囲に岩の防壁を張った。さらにその周囲に尖った岩を出現させ、射出の準備をする。
ポーランを取り囲む数十の騎兵に緊張が走る。周囲からの妨害はなく、今狩るべきはたったの一体。形勢をひっくり返されたわけではない。それでもなお、勝ちを確信させてもらえないほどポーランは脅威だった。
「言っとくが、ボクの岩に触れた時点で爆発は確定だ。ボクを気絶させようと関係ない。一度触れさえすれば、ボクは何もしなくていいんだよ」
「なるほど、だから結界を解いて逃げろというわけですね。ご安心ください、その必要はありません」
だが追いつめている。苦し紛れの脅迫をしてしまうほど、ポーランは焦っていた。
ここで結界を解く選択肢などはない。敵軍に囲まれるなか少数で戦えたのはこの守りがあってこそだ。
ようやく諦めたのか、壁の内でポーランがだらりと腕を垂らす。
「ク、クキキ……」
けれどまだ、嗤っていた。
苦し紛れではない。心の底から楽しそうな――。
「いいよぉ、ボクはここで死んでやる。お前ら人間を滅ぼせるなら、ボクはどうなっても構わない」
「……何かまずい! プリーナ!」
「ええ!」
コードガンのそばでじっとしていたミィチとプリーナが動いた。
「オムン、今がその時だ! ボクの命を使うことを許可する!」
ポーランの体がぐしゃりと溶け崩れる。瞬間、敵軍の中に雷が落ち、隠れていたオムンが浮かび上がった。
「楽しいよぉ、楽しいよぉ。人間が死ぬのは楽しいよぉ」
どろどろの肉塊になりながら、最後に残った顔面でポーランは嗤い続ける。
「ヒハハハハ! ボクの力をオムンに預けた! これでお前らは終わりだよぉ? 抵抗もできずぐちゃぐちゃに溶かされて、ボクに勝ったことを後悔するんだ! ヒハ! ハハヒ、ヒハハハハ――」
最後の顔面も崩れ去る。その様を見た騎兵たちはしんと静まり返った。
「なんだ? 空が……」
兵の一人が気づく。空が赤い。太陽はまだ夕日と呼ぶには程遠い位置にあるというのに。
「何やってんだ! 逃げるぞ!」
天上から真っ赤な雨が降り注いだのは、ミィチが叫んだ直後のことだった。
結界の中に雨が入り込んでくる。いや、既に結界が消えうせていた。
騎兵が塵となり、地面が溶ける。
赤い雨を降り注ぐ槍とするなら、コードガンの結界は薄氷だった。
幻を見せられているのかと、一瞬本気で考える。少し遅れて、なぜ自分が生きているのか疑問に思った。
何のことはない。コードガンだけがミィチたちに引っ張られ、穴の向こうへ逃げ延びていたのだ。
「おいおい、嘘だろ」
ミィチが唾を飲む。
目の前の大地に底の見えない、巨大な大穴ができていた。
敵軍は跡形もなく消えている。彼らのいた場所よりはるかに広い範囲を、赤い雨は溶かしている。
これがポーランとオムンの魔術――ポーランという魔族の遺した怨念。
怨念の雨は今もなお、その範囲を広げていた。
「迫ってくるわ!」
コードガンは結界を作り出し、オムンのいるであろう位置へ向けて鋭く伸ばす。しかし雨に触れるとたちまち溶かされてしまった。
「こんなことが……」
「どんな攻撃も通さない無敵の防壁でもあるわけか」
ミィチは冷静に分析する。
それから、鼻で笑った。
「だが、無力だ」
ミィチは言い切る。その言葉を聞いて、コードガンは我に返った。
「命を使い捨てた結果がこれか。哀れなもんだ。確かに強力な魔術ではある。普通ならあれだけで無双し放題だ。けど相性が悪かった。プリーナを知ってりゃ皆そう思うだろうぜ。ああ、なんつーか本当に哀れだな」
そう。どれほど強力で、コードガンの結界さえ無意味にするほど高い威力を誇っていても――。
「女王様。力をお貸しください。大丈夫です、まだ石像の位置は覚えています」
プリーナが宝石の散りばめられた短剣を光らせる。小さく振ると、空間に裂け目がつき、穴があいた。
その奥に見えるのは岩の壁。おそらく、オムンの体の内側だ。
ポーランも彼女の魔術は見ていたはず。きっと気づいていただろう。だが目を背けた。自身の怨念が無力化される可能性から。
先ほどは仕留められなかった。しかし、内側からなら。
結界を出現させ、槍の形をとる。
槍が飛び、オムンの体に突き刺さった。
ぶちん、と縄が弾け切れるような音が響く。
雨が止んだ。
*
ポーランが死に、それを守っていた軍が死に、オムンも息絶え――そこから戦局は圧倒的だった。
彼らだけではない。プリーナたちが向かった時すでに森の魔族は動かなくなっており、残りの魔族はほとんど為す術もなく散っていった。
森での残党狩りが済んだ頃、本隊とコードガンが合流し、再び結界が張られた。まだ敵は残っているかもしれず、どこから攻撃が飛んでくるかも分からないためだ。
「感謝を。あなた方が来なければ軍は壊滅していました」
プリーナとミィチに対し、コードガンが頭を下げた。本隊がざわついたが、プリーナたちは気にせずその気持ちを受け入れた。
「一つ聞かせてください。この戦場に彼は?」
『彼』と名を伏せたということはラージュについて聞いたのだろう。プリーナは首を振る。
実はプリーナにも、彼が今どこにいるか分からなかった。
|蠢く泥水≪バンリネル≫の光に飲み込まれた後、気づくとプリーナとミィチは森の中にいた。だがどれだけ探しても見当たらず、助けることができないまま戦場に来たのだった。
「でもきっと――いいえ、必ず来ます!」
まだ戦争は終わっていない。魔王を倒していないのだから。
それならばきっとラージュは来る。根拠などないけれど、プリーナは信じていた。
ガラードはマイスが抑えている。バンリネルも戦場には来ないだろう。これでおそらく、敵の要となる戦力はブラムス・デンテラージュのみとなった。
「けど、どうして魔王がいないんだ?」
ミィチが問うた。確かにそうだ。戦いでは常に先陣をきるという魔王がこの場にいないのはおかしい。
「分かりません。ですが、『いない』というのは正確でないようです」
「――まさか」
女王の言葉のあと、空が光を失い始めた。
太陽の高く昇る戦場に闇夜が訪れる。地上に闇が満ち、空気が澱み、地平線の彼方から真っ黒な閃光がやってくる。
光ってはいない。けれどそう錯覚するほどにその闇は激しく鮮烈だった。夜の中に浮き上がり、現れるだけで人々を震え上がらせる。
「良い戦になることを期待していたが、よもやここまでとは」
大地が揺れ、声を放った。
見紛いようもない。聞き間違いようもなかった。正気の人間が、その姿、その声を忘れられようものだろうか。
大魔王ブラムス・デンテラージュ。人類最大の敵にして最大の脅威が、黒馬を駆り、闇夜を引き連れて――たった一体で戦場に現れた。