12. 世界を救えば別だよね
2019/01/18 改稿しました
静寂がその場を支配する。風の音さえ聞こえない。
命を砕く感触を知ってしまった。身体じゃない。命だ。
悪魔の体に触れた当初、水でできたそれには全く手応えがなく、宙に浮いた塵を押すような感覚だった。木々をなぎ倒す最中もそうだ。空気を吐き尽くし、最後の叫びを上げる時も。
けれどふとした瞬間、掌が、水の中にある魂に触れた気がした。膜ともガラスとも言えるような薄いそれを、ぼくは一瞬の躊躇もなく破き――砕いた。
無数の腕の道を行って確かめるまでもない。彼らは死んだ。
肩から生えた腕がごとりと外れる。深く、重く息を吐く。
なんだか寒い。身体の内が底冷えするような心地がする。何かがすっぽり抜け落ちてしまったみたいだ。力を使い切ってしまったのだろうか。
どうやって魔術を使ったか、正直よく分かっていなかった。きっとこの体が覚えているのだ。これが正真正銘サーネルの力であることは、もはや疑いようもない。
目の前は、木々がなぎ倒されたせいで空が露わになっている。切り離された大蛇、もとい腕の群れを改めて眺めた。数百メートルは続いているんじゃないか。腕の先がよく見えないほど遠い。
「……完璧に化け物だ。これは」
青い空を見上げる。熱を伴い、視界が霞んだ。
「泣いているの?」
腕の道――二つに割れた間の部分から顔を出し、金の髪の少女が問いかける。フードは剥がされ、唇からは赤い線が垂れていた。
その手にはなんと宝石を散りばめた短剣がある。あのどさくさで奪い取ったか、あるいは悪魔がその場に落としたか。どちらにしてもしっかりしている。少し、気分が和らいだ。
「遅くなって、ごめん。お腹、痛かった……よね」
もっと早く動いていれば、プリーナがお腹を殴られ血を吐くこともなかった。
「やっぱり、助けてくれたのね」
答えない。彼女に背を向け歩き出す。
「ああ、行かないで。少しでいいの、お話をさせて」
「……ここじゃダメだよ。もう時期メニィ――バードさんたちを殺したやつが来る。と、思う」
これだけ派手にやって、気づかれていないわけがないから。
プリーナも納得したのか、後ろから足音が近づいてくる。
ぼくたちは、森の中を行きながら話し始めた。
「バードの……名前、覚えてたのね」
「……うん」
「泣いているのはどうして?」
「そんなの……。だって、殺したんだよ。当たり前じゃないか」
「殺してしまったから、泣いているの? 魔族なのに?」
きょとんとされて、何だかむっとした。
「笑えばいいよ。慣れてるし」
「笑わないわ。あるべき姿と思うもの」
はっきりと言い返され、今度は面食らう。涙も少し引いてしまった。
くすり、と少女は二束のお下げを揺らす。
「あなたってまるで魔族じゃないみたい。殺めた相手のために泣いたり、死んでしまった人の名前を忘れないでいたり」
そりゃそうだよ、中身は人間だし。
なんて言ったら、信じてくれるだろうか。
「……ところで、ぼくを殺さなくていいの?」
「ええ、そのつもりだったのだけれど……でも、いいの」
「どうして?」
「だってあなたを殺したら、神に背くことになってしまうわ。人の死を悼めるあなたを、神様が悪と断ずるはずがないもの」
「……そうかな」
きっと反論されるだろうから、聞こえないよう、木々のざわめきに紛らすように返した。案の定耳には届かなかったようで、少女は瞬きして首を傾ける。
神様はともかく、ぼくはまだ、自分を許せる気がしない。
まだ足りない。そんな気がする。
生まれてきてよかった。自信をもってそう言えるようになるには、こんなんじゃ全然足りないんだ。
まぶたの裏でポニーテールが揺れる。
ぼくはぎゅっと唇を噛んだ。
「魔族って、世界中の人たちを苦しめてるんだよね」
「え? ええ」
「魔王がいなくなれば、世界は救われるのかな」
「それは……分からないけれど、光は見えてくると思うわ」
それで十分だ。軽く頷き、立ち止まる。
自分を変えたい、とはずっと思っていた。こんな機会、二度と来ないだろう。
元の世界には帰りたい。けどその前にやらなきゃならない。
プリーナへ振り返り、はっきりと宣言する。
「ぼく、魔王を殺すよ。お父さんを裏切ろうと思う」
ぼくは、この世界を救いたい。
そうしたら――世界を救うことができたなら、いくら後ろ向きなぼくだって、自分を許さずにはいられないはずだ。
「魔王……を?」
プリーナは目を丸くして固まっている。ぼくも逆の立場だったらこうなったかもしれない。馬鹿なことを言っているのは重々承知だった。――その選択の愚かさも。
人殺しなんてろくなもんじゃない。魔族を殺すのだって同じだ。命を砕く感触は、きっと一生忘れられないだろう。
ましてや裏切りなんて――父の寝首を掻くなんて、人としては最低レベルの行為。それこそ魔族に成り果てるようなものだ。浴びた血はいつまでも洗い落とせず、永久にその心を蝕むに違いない。
けど――とも思う。
たとえ何十、何百の命を砕いても。その身が返り血で染め上げられても。たとえ、人としての誇りを手放すことになったとしても。たった一言で全てを覆せる。
逃げてばかりで何もできなかったぼくでも。お姉ちゃんを殺すためだけに生まれたみたいなぼくでさえも。たった一言で英雄に変えられる。
合言葉は決まった。ぼくは再び歩き出し、空を見上げる。
ぼくは悪者になる。魔族にとっても、きっと人間にとっても。
けど。
「――けど、世界を救えば別だよね」
口元が自然とニヤつく。わくわくで体が熱くなる。
ぼくは強く、強く拳を握りしめた。さあ、今こそ。
裏切り、開始だ。