32. 怪物の色
夜明け前。誰かの荒い息遣いで目が覚めた。
頬に手を触れられる。暗くて影の輪郭もぼんやりとしているけど、寝ぼけていてもすぐにプリーナだと分かった。
ぼくが起きたと知ると、プリーナは音を立てずに小屋を出て行く。
皆が寝静まった室内で、ぼくもなるべくうるさくならないように起き上がった。
どうやら我慢できなくなったらしい。重たいまぶたをこすり、あとにつづいて外へ抜け出した。
プリーナは出入口のすぐそばで待っていて、ぼくを見るなり手を掴んで別の小屋に引きずり込んだ。
こうしていっしょに抜け出すのは初めてじゃない。移民たちとを連れネアリーに向かっていた頃にも定期的に二人きりになっていた。プリーナの秘密は誰にも話していないのだ。
秘密とはつまり、彼女の性癖について。
「んっ……」
かぷり。土の床に押し倒され首筋を噛まれる。
歯は皮膚に深く食い込み、肩の肉を引きちぎらんばかりに顎が引かれた。
「ぐああっ」
思わず悲鳴が出た。
これはいわば応急処置。本当なら命が尽きるまで付き合わないと彼女の興奮を完全に鎮めることはできないだろう。でもさすがに殺されるわけにはいかないし、プリーナ自身も苦しめることになる。だから噛むだけに留めてもらっている。
ふしぎなのは、サーネルの体なら人に噛まれる程度じゃそれほどの痛みにはならないはずが、しっかり苦痛を感じられていることだ。まるで体の方が事情を察してくれているかのようである。
苦しくならないとプリーナを満足させられないから助かるのだけど。もしやこういうのを愛の力というのだろうか。……今のなし。
それから数分苦痛に悶え続けると、ようやくプリーナが恍惚と息を漏らし、唇を離した。正気を取り戻したようにはっとすると、急に泣き出しそうな声になって謝ってくる。
「ごめんなさい。わたし、どうしても抑えられなくて。またラージュに酷いことを」
「気にしないでよ、このくらい。それに、その……二人でいられるこの時間は、けっこう好きだから」
「え?」
まじまじと見つめられているのが分かる。顔が熱い。
でも、ぼくもだいぶ言えるようになってきたじゃないか。……押し倒された格好のままだったけど。
プリーナが笑みの吐息を漏らす。彼女のさらさらとした髪がぼくの耳にかかる。
互いの唇が触れた。
思えば初対面の時もキスをされたけれど、あの時よりずっと優しく、やわらかな熱をもったものだった。
「ねえ、ラージュはまだ覚えている? あの誓いのこと」
唇を離し、プリーナがたずねる。何のことかとは思わない。当然、「いつか必ず自分を好きになる」という言葉のことだろう。
大切な人々を助けるために魔族を殺めたプリーナは、他者が苦痛を感じる様に強い興奮を覚えるようになった。そのことに自己嫌悪を感じながら、それでも彼女は魔族と戦い続ける。どんな性癖をもっていようと、大事なものを守り続けられたなら、きっと自分を好きになれる――そう信じて。
だからぼくは、そんな彼女が折れることのないように伝えたのだ。ぼくもいつか必ず、自分自身を好きになってみせると。魔族を殺して回る自身を化け物と蔑んだぼくだからこそ、プリーナの希望になれると思ったから。
そして、ぼくは――。
「そういえばプリーナにも話せてなかったっけ」
「なあに?」
シーベルの暴走とか魔王からの宣戦布告とか、色々とあったせいでゆっくり話す暇がなかったんだ。
「実はもう果たせちゃったんだ」
「え?」
身を起こして改めてプリーナと向かい合う。どのみち暗くてよく見えないけど、これだけはちゃんと目を合わせて言いたかった。
「誓いだよ。ぼくのこと、好きになれたんだ」
いつの間にか果たせていたせいで、報告が遅れてしまったけど。
「本……当に?」
「本当に。その証といったらなんだけど――ぼくの名前、教えてもいいかな」
「……それって」
「うん。初めて明かす相手は、プリーナがいいんだ」
サーネルでもラージュでもない。お母さんからつけてもらった、ぼくの本当の名前。
やっと自分を許せた。生まれてきて良かったと思えるようになった。今ならばこの名前を受け止められる。
心臓が騒がしくなってきた。息を整える。この世界で人間としての名を初めて明かすのだ。立派とまではいかなくても、せめてはっきりと噛まずに言いたい。
もう一度だけ深呼吸して、口を開く。
「ぼくの、本当の名前は――」
と、そのとき。外から呼びかけてくる声がした。
「ラージュ、いるのか」
「いぃっ?」
なんということだ。
噛むどころか一文字も言えなかった。
「マイスだ。そこにいるのだな」
「は、はいっ。なんですかっ?」
ショックから立ち直る暇もなくぼくは声を裏返す。
「プリーナ様もそちらに?」
「ええ、いるわ。何か用かしら?」
「いえ。お姿が見えなかったので何か起きたのかと」
「まあ、ごめんなさい! 心配をかけてしまったのね」
それはそうか。今までは皆が偶然起きなかったからよかったけど、旅の最中に仲間が急に消えていたら誰だって警戒する。平和な日常生活とは違うのだから。
「いえ、むしろちょうどいい。お二人にお話しておきたいことがあります。よろしいでしょうか」
「わたしたちに?」
わずかな間がある。プリーナがこちらへ振り向く気配があった。ちょっともどかしい気分がしないでもないけど、しょうがない。
「分かりました」
「いいわ」
ぼくがいうとプリーナも頷いた。
マイスは礼をいい、小屋の中に入ってくる。気づくとプリーナは部屋の真ん中に位置するテーブルのそばにいて、燭台に魔術で火をつけていた。
でも、マイスから話とはなんだろうか。宣戦布告をされたばかりの状況だからかあまりいい予感がしない。悪い話でなければいいけど。
ぼくとプリーナが並んで座り、向いにマイスが腰を下ろす。
「それで、お話っていうのは」
こちらから切り出すと、マイスは頷いた。
「頼みがある。戦場でガラードと対峙した時は、私に戦わせて欲しい」
「ガラードと、ですか?」
厄介事ではなかったらしい。でもちょっと意外だ。
「やつとは因縁がある。無論、最優先は魔王を倒すことだが」
そう。マイスの第一目的といえば魔王だ。初めて会った時からそう言っていたくらいだし。それがここに来てガラードとは。
するとマイスは、説明をするとでも言わんばかりに立ち上がると、自らの指をかみちぎった。
「なっ、何をし……て?」
ぼくは立ち上がりかけ、固まる。マイスの指から流れる血に思わず目を奪われた。
「これって――」
流れた血は、墨のように真っ黒だった。
燭台の灯りを頼りにしているから視界は薄暗い。それにもかかわらずはっきり異変に気づけるほど、その血の色は黒かった。驚くぼくらをいつもの無表情で見下ろし、マイスはいう。
「私には魔族の血が混じっている」
そしてさらりとより強烈な衝撃を与えてきた。けどまだ終わらない。
さらに追い打ちをかけるかの如く、マイスは新たなる事実を口にするのだった。
「私の父は、ガラードだ」
*
しかしてマイスは昔語りを始める。
幼いころの断片的な記憶――もっとも古いと思われる霞みがかった映像の中で、マイスは高い壁に囲まれていた。
鬱蒼と木々の生い茂った密林のような庭と、それを取り囲む門のない石壁。そこがマイスの世界の全てだった。
ふらふらと草木の間を行ったり来たりしながら、マイスは時折うしろを振り返っていた。視線の先には簡素な造りの小屋がひとつ。その『世界』で唯一の、人が住む家があった。
小屋の傍らからマイスに笑いかける若い女性がいる。長い黒髪に黒い瞳、適度に筋肉のついた均整の取れた身体――彼女こそがマイスの母親であり、その『世界』で唯一の、彼以外の人間だった。
幼いころ、彼にとって不可解な思い出があった。
あるとき平和な箱庭の中に、巨大な鳥が迷い込むことがあった。大人の人間の三倍はあるであろうその鳥は、小屋を出てきたマイスを見つけるなり鋭いくちばしで襲いかかったのである。
母が気づいた時には遅く、マイスは自身の何倍も大きなくちばしに頭を突き刺されてしまった。母は悲鳴をあげ――しかしすぐ、呆気に取られたように固まった。
マイスがそのくちばしを振り払ったからである。
彼はけろりとして、つつかれた頭は全くの無傷だった。少し不快ではあっただろうが、それはまるで耳元に羽虫が飛んできた時のような、恐怖感のかけらもない単なる苛立ちでしかしなかった。
鳥は驚愕し、一目散に逃げだしていく。母はすがりつくように我が子を抱きしめ、声をあげて泣いた。
マイスにはそれが分からなかった。なぜ母は泣いたのか、その理由が見当もつかなかったのだ。
普通の人間なら自分よりはるかに巨大な鳥につつかれて無事で済むはずがない――そんな常識を彼が知ったのは、それから数年も経った後のことだった。
彼が常軌を逸するほど頑丈だったのは魔族の血が流れていたため。マイスという人間が、魔族と人の間に生まれた子どもだったからである。
魔族の子であっても母はマイスを大切に育てていたようだ。彼の記憶にいる母はいつも優しく笑い、常に我が子と言葉を交わし、当然のように抱きしめてくれていた。
箱庭に囚われた母には子とのつながりしか生きる意味を見出せなかったのかもしれない。だがマイスには理由などどうでもいいことだった。母はマイスを我が子として愛してくれた。それだけは確かなのだから。
やがてその安息の日々も終わりを迎えることになる。マイスが六才になったある日、全身に包帯を巻いた痩せぎすの老人――ガラードが箱庭に現れた。
マイスは自身の正確な年齢を知らない。それなのに六才の頃と分かったのには理由があった。
人の子も魔族の子も、魔術を扱う才能のある者は幼いうちに自然と力を振るうようになる。逆に言えば、いつまでも魔術を使わなければ才能がないと分かってしまう。少しでも力があるなら、どんなに遅くとも五才を過ぎるまでには力を見せるとされていた。
つまり六才を迎える日こそが才能のあるなしを決める期限なのだった。
「がっはっは! 残念だったなあマイス! 父ちゃんのお出ましだァ!」
包帯の怪物は自身をマイスの父だと名乗った。母も否定しなかった。父というもののことを話には聞いていたが、実際に目にするのは初めてのことだった。
半ば強引に担がれたマイスは初めて高い石壁の外へ連れ出された。突然広がった世界に思考が追いつかず、わけのわからないままされるがままにしていると、深い谷のそばまで来ていた。
「お前さんには魔力がなかったらしい。未来の魔王を超える逸材が生まれるかもと期待したんだがなあ。本当に残念だ」
ガラードが金色の目をにやりと細める。マイスには何の話をしているのかさっぱり分からなかった。
「嫌ぁ! マイスを離してぇ!」
同じように抱えられてきた母が泣きながら叫んでいた。それを見てマイスはこの包帯の怪物が倒すべき敵なのだと知った。だが、気づくのが少し遅かったようだ。
「ぐははは! 悪いなあ。お前さんたちに恨みはないんだが、ブラムスにこっちの考えを悟られたくねエんだ。だからまあ……」
薄汚れた包帯に隠れた顔に気のよさそうな豪快な笑みが浮かぶ。
けれどそこから放たれた一言は冷たく、残忍極まりないものだった。
「ワシのために死んでくれや」
母もろとも深い谷へ投げ捨てられる。同時にガラードは用意周到に背負っていたらしい鉄の筒を構え、先端に空いた穴を二人に向け、銀色の熱線を放った。飛ぶ手段など持ち合わせない二人はそれをもろに受け、その身を焼き尽くされる。
マイスはそのまま谷底へ真っ逆さまとなり、気づくと母だけが跡形もなく消えていた。
大魔術師と呼ばれるヨウゼ・ラムプルージュに拾われたのはそれから数日が経ってからのことだった。マイスは森の中をさまよい、キノコや獣を食らいながら生き永らえていた。
王国で暮らすヨウゼの元で暮らすようになり、マイスは少しずつ世界のことを知るようになる。やがて母が死んだこと、自身が父に捨てられたことを理解し、生まれて初めての絶望を味わう。
だが彼にはヨウゼがいた。ヨウゼはマイスの強靭な肉体を高く評価し、魔術が使えなくとも魔族と戦う素質があると見込んだ。鋼の剣を振るっても簡単に砕いてしまうその腕力を活かすべく絶対に折れない剣を作り出し、彼に授けた。
やがてマイスは魔術を使わずして魔族を殺す力を身につけ、国に認められて騎士となり、新たな人生を踏み出すこととなったのだ。
その後マイスが生き延びたと嗅ぎつけたガラードがマイスの存在を消しに来ることもあったが、ヨウゼが撃退した。そうして師に守られながら彼は修行を続け、やがてガラードでも簡単には手を出せないほどの力を身につけたのだった。
*
「ラムプルージュの名はヨウゼ様から受け継いだものだ。ガラードを父とは言ったがそれはあくまで血のつながりのこと。私はヨウゼ様をこそ本当の父と思っている。ガラードを斬ることに関しては何の躊躇いもない」
ガラードとの関係について、マイスはそう締めくくった。
上手く言葉が出なかった。あまりに数奇な人生だ。かける言葉を迷うというのもあるけど、何よりも内容への驚きが強すぎた。
あのガラードが子を作っていたなんて。それも人と混じって。その上その子どもがマイス? 彼が普通の人間とは明らかに違うとは分かっていた。分かってはいたけど。
プリーナも言葉を発さない。何も言えなくなっているようだ。ぼくたちの反応に、マイスが笑むように息を漏らした。
「ラムプルージュの名を冠したためだろう。魔族を切り伏せて回るうち、私は一部から勇者などと呼ばれるようになった。だがその実、私はそこから最も遠い存在だ」
どきりとする。吐息は漏らしたけどマイスの顔は相変わらずの無表情だ。でも気のせいだろうか。
たくましく鍛え上げられた無敵の身体。それが何故だか途方もなく寂しげに映った。
はっとする。魔族の子と聞いたぼくたちが反応に困ったように見せてしまったから、誤解させてしまったのかもしれない。魔族だからと恐れたり、忌み嫌ったりなんてしないのに。
「遠いわけないです」
ぼくは言った。
「初めてマイスさんと出会った時、一目見た瞬間にぼくも思いました。あなたにはその呼び方が一番ふさわしいって」
「……」
「あなたのお父さんがガラードで、元々はあの怪物の駒として生み出された人だったしても。そんなことがどうでもよくなるくらいには、ぼくはマイスさんそのことを知ったつもりです」
ぼくは確信している。この程度の事実で彼という人物が揺らぎはしないと。
だからぼくは胸を張る。信頼の気持ちを包み隠さず伝えるため、黒い瞳をまっすぐに見つめる。
「やっぱり、マイスさんは勇者みたいです」
そしてぼくは彼の新たな一面を知った。
マイスはたまには笑うし、魔王やガラードには怒りを露わにした。だから無感情な人だなんて思ったことはない。
だけどその反応だけは絶対にしないと思っていた。
どうやらまだ、彼について知らないことはたくさんありそうだ。
「……そうか」
ぼくはその日初めて、マイスの照れた顔というものを目にした。