20. 手を伸ばす
「つまらぬ。かつての貴様であれば躱していたぞ」
激しく燃え盛るような闇の奥で、ブラムスがいった。
背中からお腹を貫いた青い指が引き抜かれる。血があふれ、ぼくの体が勝手に倒れる。
お腹を刺された。そのことは理解したのに、痛みもないし焦りもない。ただぼんやりと目を上げる。
プリーナが何か叫んでいる。視界が薄れてきたと思ったら、声まで遠ざかっていたらしい。
自覚した瞬間、ぷつりと思考が途切れた。
――待て。
すぐに思考が戻る。
プリー……ナ?
はっと目を覚ます。何をしている。気を失っている場合か!
立ち上がる。血を吐きながら、目も見えず前後不覚のうちに声のする方へ走り出す。
「ごああっ!」
「ラージュ!」
突如背中に衝撃を受ける。目を開くと同時、プリーナとぶつかった。
青い手による殴打が彼女を襲おうとしていた。あと一歩遅れたら危なかった。
「ごめんなさいっ、わたしっ……」
「早く、逃げて」
絞り出した声にプリーナは答えられない。その身は小刻みに震えている。
追撃が来るかと危惧したけど、その前に騒ぎを聞きつけ衛兵が飛び出してきた。
「な――て、敵襲!」
魔王の姿を目にして、衛兵はすぐさま声をあげた。
直後。背後で爆発音を聞いた。
暴風が巻き起こる。背中を押され、プリーナもろとも大きく揺さぶられる。
「ほう、生きておったとはな。よくぞあの状態から立ち直ったものだ」
魔王が愉快げにいう。
マイスが大剣を振るい魔王と衝突していた。
「何故お前がここにいる!」
魔王はすぐには答えず、周囲を見回す。
駆けつけようとする衛兵たちの声と足音が聞こえる。
「ラージュさん! これは、なんという……」
プリーナに支えられるぼくの耳にツワードの声が届く。ノエリスもいるようだ。けどそれは安心の材料にはならない。今はむしろ逃げて欲しかった。そう言いたいのに声が出ない。
「あれほどの存在感。あの魔族はまさか」
「魔……王……」
「ばかな。何故このようなところに」
そうだ、なぜ。戦争が始まるその時まで、魔王も人間側の戦力を減らしたくはないはずだ。それがなぜ。
……まさか。
プリーナに肩を支えられながら周囲を見回す。いつの間にかバンリネルの姿が消えていた。
「案ずるな」
衛兵たちが駆けつけ、マイスが攻撃を中止して身を引いたとき、ようやくブラムスが口を開いた。
「戦士マイス、そしてサーネルよ。貴様らはここでは殺さぬ」
「なに?」
「だがただ見逃されたのでは興ざめであろう。……せっかくだ」
地面から真っ青な拳が飛び出し、マイスを空高くへ突き飛ばす。剣が降ってきたが、魔王には当たらなかった。
ブラムスが一歩踏み出す。重くのしかかる圧迫感に、前にした全員が後ずさる。ぼくたちは多くの魔族と遭遇し撃破してきた。ネアリーの衛兵たちだって同じはずだ。それなのに誰ひとり、飛び込むどころか声をあげることすらできなかった。
マイスが空へ飛ばされた。その意味にふと気づき、ぞっとする。
マイスは無事だろう。けどこの瞬間、魔王の攻撃に介入できない。
ぼくとマイスは殺さない。魔王はそう言った。おそらくは貴重な戦力として。でも。
それ以外は?
真っ青な手が魔王の上に現れる。ぼくは目を見張り、大きく開いた右手を前に突き出した。掌から大量の腕を生やし、洪水のごとき大質量で魔王と手を飲み込む。
腕の群れは、一秒ともたずに弾き飛ばされた。
「そんな」
歯が立たない。そんなことは百も承知だったけど、ほんの少しの時間稼ぎすらできないなんて。
引きちぎれた腕は四方八方に飛び散り、ぼくたちのほうにまで降りかかる。それに衛兵たちが驚いた隙に、腕の奥から巨大な青い手が飛んできた。
そこからはあっという間だ。その場にいた衛兵の全員がつぶされ、大地の染みと化した。
あえて残されたのであろうぼくたちはあまりの実力差に呆然とすることしかできず、そして魔王は、まだ満足していないようだった。
ぼくとプリーナは手に振り払われ、また地面に転がされる。ノエリスが呻く声も聞こえた。だけど。
ツワードの声が聞こえなかった。
雲の切れ間から月が顔を出す。
その明かりに照らされて、ツワードが青い手に握られていた。
「貴様らには、新しい憎悪をくれてやる」
「待て!」
ぼくは起き上がって飛び出す。けどすぐに青い手が降ってきて、地面に押さえつけられた。
「離せ! やめろ、やめろよ!」
動けない。力の入らない体ではとても振りほどけなかった。
「ぐおぉ、ああああっ」
「ツワードさん!」
骨が軋む音がした。バキリと大きな音がした。ツワードの悲鳴が耳をつんざき、ぼくは必死にもがく。それでも動けない。
さっきから後ろの二人の声がしない。プリーナもノエリスも払い飛ばされたまま動く気配がなかった。気を失っている?
暴れようとすると青い手がさらに圧力をかけてくる。いよいよ息が出来なくなってきた。ふいに意識が飛びかけ、やっとの思いで踏みとどまる。
まぶたの裏で、お姉ちゃんの象徴みたいなポニーテールが揺れた。いまツワードを助けられるのは、ぼくだけだ。
「――ぐっ」
念力を放ち青い手を吹き飛ばす。このまま倒れているわけにはいかない。このままじゃお姉ちゃんの時と同じだ。
叫びをあげる。ツワードを握る青い手にまっすぐ突っ込む。右から左から別の手が飛んできてまたしても払い飛ばされた。血のしぶきをまき散らし小屋に突っ込む。だけどすぐ飛び出し、再び雄たけびを上げてツワードに向かっていく。
「つまらぬものを見せてくれるな。ただの無謀は戦士のすることではない」
弾かれる。道を転がり、再び無理やり立ち上がる。
その直後、ぼくの足が折れた。
「やはりこの程度か」
この世にこれ以上くだらないものはないというような声で呟き、魔王はふんと鼻を鳴らす。
ツワードを握る青い手が、再び力をこめた。
「待……!」
もう魔王は答えない。
鈍い音を聞いた。青い手から血のしぶきがあふれる。ツワードは声も上げず、ぐったりと首を垂れる。
「次だ」
魔王はいった。すでにツワードへの関心は失せ、次の者に狙いを定めている。
ぼくは、何も考えられなくなった。
「ブラムスゥゥゥ!」
すぐ横を暴風が通り抜ける。
マイスだった。再びマイスが剣を持ち、魔王を守る黒い霧と激突した。
黒い霧が割れた音がする。と同時に、ぼくの体が何か見えない力に引っ張られた。
ミィチの魔術だった。ぼくたちを逃がす機会を探っていたのだ。でも今のぼくにはそのことに気づく余裕なんてまるでなかった。
ブラムスたちが遠ざかっていく。頭の中で様々な感情を暴れさせながら、ボロボロになった手を伸ばす。
意識が薄れていくうち、ぼくの耳は聞こえないはずの声を聴いていた。
お姉ちゃんのすすり泣き。山で偶然見てしまった殺人鬼の息遣い。
手を伸ばす。だけど届かない。
ポニーテールが赤黒く染まる。
ああ。ぼくはまた――。