16. 英雄はいらない
小鳥たちのさえずりが聞こえる。
青い空に緑豊かな山々、行く手を阻む者のないなだらかな道……なんて平和なんだろうと思いながら、ぼくはずっと顔を右に向けていた。
「おおおおおおん、おおおおおおおん」
奇妙な声をあげながら泣いているのはシーベル。包帯少女……だった人だ。今は紫の髪を三つ編みにした、ごく普通のあどけない少女になっている。
「ごごどごおおおおお! おうぢ帰らぜでえええええ!」
帰る道が分からないと話してからずっとこの調子だ。さっきまでプリーナが頑張って泣き止ませようとしていたけど、もうすっかり諦めている。
「どうしましょう。これじゃわたしたちただの人さらいだわ」
困り果てたつぶやきに静かに頷く。
迷子となったことを告げる前、ぼくたちは寝たふりをするシーベルに「あなたは巨人ですか?」と聞いていた。返ってきたのは「ふぁ?」という、とぼけているのか驚いているのか馬鹿にしているのか全く読めない絶妙な声だった。
とりあえず本人は巨人であることを認めなかった。鵜呑みにすべきかは分からないけど、それについては補給地点に帰り着いてから考えるとしよう。
「それにしても、ずいぶん遠くまで来ちゃったみたいだね」
さっき高くまで跳びあがって周囲を見渡してみたけど、目印になると期待したネアリーの結界は全く見えなかった。地形に関しては見覚えがある気がしないでもないものの、見慣れ過ぎた山や草原への既視感なんて当てにはならない。
「やっばり帰でないのおおおっ? おおおおおおんっ」
ぼくのつぶやきでシーベルの泣き声がさらに大きくなってしまった。
それからしばらく歩き通して、シーベルが駄々をこね始めたので川辺で休憩をとった。
「あー、ほんと参っちゃったなあ。っていうかお腹空きましたね。いやあ、補給地点なら食事には困らないはずだったんだけどなあ! あーあ、どこかにご飯とかないかなあ!」
それなりに時間が経って、さすがに彼女も泣き止んでくれた。その代わり被害者としての権限を最大限利用してふんぞり返っている。
何も言えないぼくたちはせっせと森の果実を集める。文句を言われそうだけど、鍋がないから調理しないでも食べられるものしか選べなかった。
「このくらいでいいかしら」
小さな深紅の果実をいくらか抱え、シーベルの元へ戻る。
「ええーっ? それをウチに? わざわざ取ってきてくれたんですかーっ? 悪いですってー! え、どうしても受け取ってほしい? そこまで言われたらしょうがないなあ!」
「?」
なぞの一人芝居を始めたシーベルにプリーナがきょとんとする。
馬のいない馬車がこちらを目がけ突っ込んできたのはその時だった。
「いやあ、言ってくれればウチも手伝ったんだけどなあ! ほんと申し訳な……は?」
わざとらしい芝居を続けていたシーベルが硬直する。川の向こうから走ってきた馬車は突如空中に跳ね上がり、そのまままっすぐ転落してくる。
「ひぃっ? お助けえええっ?」
シーベルが悲鳴を上げる。その横でぼくはほっとして笑みを浮かべた。
「来てくれたんだ、ミィチ」
直後、馬車が空中でぴたりと止まり、真下に着地した。
ミィチの魔術は魔力をつけた二つの物をくっ付けるというもの。一度にマーキングできる数は限られるけれど、魔力をつけてしまえば数日のあいだはいつでも魔術が使えるという優れものだ。
それを応用すれば、こうして離れた誰かと合流することもできるというわけだ。
これで一安心だ。あとはミィチがやって来た方角へ向かって念力の魔術で戻れば――。
頬を緩めたぼくたちの前に飛び出したミィチは、けれど顔を真っ青にして、出てくるなりつかみかかってきた。
「まずい。町が潰された」
*
時はさかのぼり、補給地点にて。
筋肉の塊のごとき魚人を見つけたミィチは、ひそかにその後を追い現れた目的を見定めていた。
魚人の軍勢ヌテラコック――かつて一国を滅ぼしたそれと同じ特徴の魚人がいる。今すぐ助けを呼ぶべきか、穏便に済むよう試みるか、正直判断しかねていた。むやみに戦闘へ持ち込むには相手の名が大きすぎる。
魚人はしばらく補給地点内をうろついていた。どういうわけか衛兵に出くわすこともなく、ただひたすら立ち並んだ小屋を見て回っていた。
それが行動を起こしたのは衛兵たちの動きが静まってからだ。魚人はとある小屋のそばで立ち止まると、中に足を踏み入れた。
すぐさまミィチは裏へ回り、板が外され開け放たれた窓のそばで耳をそばだてた。
「ロワーフ・ワマーニュ殿とお見受けした。貴殿がいるとなれば間違いはあるまい。巨人も近くで身を潜めているのであろう?」
ワマーニュという家名を聞いて少し驚いたが、ミィチの注目は『巨人』の一言へ向いた。近く巨人がいる。それを殺すために魚人が現れたのだと即座に理解する。
「吾輩は『軍』である。名をヌテラコック、時に海軍とも呼ばれる。魚人の軍勢ヌテラコック――聞いたことはないかね?」
魚人はそう名乗った。推測通り。最低最悪の名だ。
巨人が死ねば移民は止まる。それが狙いなのだろう。目的はこちらと同じ。敵同士で潰しあってくれるとは実に好都合だ。ここはこの場を離れて魚人の好きにさせておくのが一番手っ取り早い。
ミィチはふっと笑った。
「それが出来れば苦労しないけどな」
抗う準備はできている。ミィチは魔術を発動し、手始めに小屋の片側、自身の傍の壁を引き寄せた。壁が一面丸ごと外れ、茅葺の屋根がぐらりと傾いた。
「分身か!」
ロワーフが声をあげる。倒れてくる壁をひょいとよけ、ミィチはにやりと笑った。
「ヌテラコックのか? あんなブ男になるのはごめんだね」
「あ。さっきの……」
青ざめた少女が呟くが、ミィチの目は魚人のみをまっすぐに捉える。小さな体で堂々とロワーフの隣に立ち、あごを上げた。
「人殺しは良くないぜ。お魚くん」
中にいたのはロワーフと一人の少女、それとヌテラコックのみだ。狼狽するほかの二人とは反対に、魚人は余裕の笑みを崩さなかった。
「ぬははは、小僧。得意げにしているところ悪いが、お主の気配などとうに気づいておったわ。自らのこのこ踏み入って来るとは思わなんだが」
まあそうだとは思っていた。ミィチも余裕を崩すことなくふんと鼻を鳴らす。
「ばーか。オレは囮だよ」
「何?」
瞬間。ヌテラコックの背後で壁が吹き飛ぶ。
大きな木の塊――向かいの小屋が飛んできて魚人の背中に突き刺さった。
ヌテラコックはびくともしない。けれどミィチたちはそうはいかなかった。
「嫌ぁっ!」
風圧といくらかの破片を受け、もろとも背後へ吹き飛ばされる。
「あとは任せたぜ! サーネル!」
「っ! サーネルだと?」
小細工も小細工、もって十秒のくだらない手だけれど、魚人の気をあらぬ方へと引き付けられた。
本気を出されたら終わりだ。その前に逃げ切る。
無言でロワーフたちに合図し、まずは一人でその場を飛び出す。ラージュと違い二人を抱えながらは逃げられない。幸いすぐに二人ともついてきてくれた。
……何故か宙に浮いている。
「つ、つかまってください!」
どうやら赤毛の少女の魔術らしい。よく見たらついさっき出会った糸目の少女だった。
あまり速度は出ていないが、三人で逃げるなら彼女に任せるしかない。
ヌテラコックは――。
「……!」
ミィチは振り返り、その光景に絶句した。
海の波がなだれ込んできたような――そう錯覚するほどの魚人の大群が町を埋め尽くしていた。
波に呑まれた場所に既に建物はなく、全てが粉砕されている。
「あれが……魚人の軍勢……」
波の進みも速い。このままではあっという間に追いつかれる。
「あれだ! あそこに入るぞ!」
例の地下牢がある塔の近くに使われていない馬車を見つけた。戸惑う糸目の少女に力押しでお願いし、三人で飛び込む。
こうなれば速かった。魔術を使い馬車ごとラージュのいる方向へ飛んでいく。ラージュのいる方向はあらかじめ確かめてあったから、来た道を戻っていくようなヘマはしなかった。
草原を駆ける馬車から顔を出し、最後に見たのは町が薄い青に飲み込まれる光景。あれはおそらく止まらない。巨人を倒したと確信するまで、少なくとも付近の補給地点は全て潰しにかかるだろう。
衛兵たちは殺されたに違いない。助けられたのはたった二人……か。
「まあ、上等だろ」
唇を歪め、ミィチは苦い笑みを浮かべた。
*
蓋のないトロッコのような形の馬車が宙を駆ける。
ぼくとプリーナ、くわえてミィチとシーベルの四人で馬車にしがみつきながら進む。念力を強めて速度を限界まで上げていた。
「ティティ、無事でいて」
プリーナが目を閉じて呟く。
そうだ。町の一つは潰されてしまったけど、そこにいた全てが殺されたと決まったわけじゃない。まだ持ちこたえている人だっているかもしれない。
それに近くにも補給地点はあるし、首都だって残されている。もしミィチの言うようにヌテラコックが侵攻を止めないなら、一分一秒でも早く追いつかなきゃならない。
「ぎぃぃぃやあああああっ?」
シーベルがずっと叫んでいる。無理もないけど、この声、緊張感のある時はなんとなく調子を狂わされる。
「右のほうに補給地点がある。寄り道になるがこいつはそこに置いてくぞ」
「そうね。戦いの渦中には連れていけないわ」
ミィチたちに言われて頷いた。軌道を変え、町が見える方へ進む。
ところがシーベルに腕をかまれた。念力が乱れ馬車が激しく揺れる。
「痛っ、な、なにっ?」
「ウチも行くってんじゃいボケえええい!」
その言葉に、すぐには反応できなかった。
「だ、だけど」
シーベルはそれ以上何も言わない。でももう十分だった。
その目には涙を浮かべて歯もガチガチ鳴らしていたけど、迷いは少しも見えなかったから。
「わかったよ」
ぼくはいう。ミィチもプリーナも止めなかった。
そこからはものの数分で補給地点にたどり着いた。建物は全て破壊され、ほとんど跡形もなかった。
事前に聞いてはいたけど、実際に目にするとやっぱり息が苦しくなる。
「こんな、酷い……」
馬車を降り、平らになった土地に足を踏み入れる。
目を凝らすと、ところどころに血の染みらしきものが見えた。衛兵の数は少なかったはずだけど、想像よりずっと多い。増援が駆けつけて、それでも敵わなかったのかもしれない。
黒ずんだ赤色は凄惨な光景を思い浮かばせる。つい目をそむけたくなるけど、ヌテラコックの行き先を知るには痕跡を調べなければ始まらない。ぐっと堪えて、周囲を――。
「ラージュ! 下がって!」
プリーナの声にはっとする。気づくと、上前方から何者かが突っ込んできていた。
「覚悟!」
炎をまとった槍が突き出される。
「待って」
「なっ」
けど、それは横から跳んできた別の誰か――ではなく、ねばねばの液体に弾き飛ばされ、炎をまとったまま地面に落ちた。
「何をするんです!」
「相手をよく見て。魔族じゃないよ」
新米の兵士とみられる青年の言葉に、女性が低く返す。その声には聞き覚えがあった。
「ノエリスさん。どうして」
「ここが襲われたと聞いたから」
そうか。ミィチがここを離れてからぼくが来るまでにかなりの時間がかかってしまった。首都や別の補給地点に伝達係が向かっていたなら、彼女の方が早いのもうなずける。
ノエリスがいるのならツワードやマイスもいるのだろう。心強い。
「それで、ヌテラコックは」
少しばかり前のめりになって尋ねる。ノエリスは落ち着いた様子でそれを聞くと、珍しく微笑んだ。
「それなら心配いらないよ。さっきまで分身の残党狩りをしていたところ」
よくわからなかった。まるで危機は去ったというような口ぶりに、じれったい思いでもう一度尋ねる。
「えっと、その……ヌテラコックの行き先は。どこかに侵攻してるんですよね。多分、巨人を探して」
ノエリスは首を振る。少し眠たげな目をした彼女は、ただ一言、簡潔に、衝撃的な事実を告げた。
「ヌテラコックは死んだよ」
やっぱり、よくわからなかった。