第9話 過去の清算
「で? 正直な話どうなのさ、レン」
「どうもこうもあるか。あの子はクロンに押し付けられただけの初心者だよ。冒険者としてのイロハを教えろっていうから、仕方なく付き合ってやってるだけだ」
エールの入ったジョッキを傾け、一気に煽る。視界の端でマスターが眉をしかめるのを見て、慌ててジョッキを戻した。久しぶりだったから忘れていたが、梟の止まり木亭のマスターは酒の飲み方にうるさい。個室に逃げればよかった。
「仕方なく、ねぇ。それにしてはずいぶんとお熱だったみたいだけど? ……まあ、すっごく……かなり……それなりに……まあまあ……美少女だった、し?」
「苦渋の決断みたいな形相で言うのやめろよ……素直に認められねぇのか、お前は……」
鬼のような形相でリュインが美少女だったことを認めたシェイズは、グラスに注がれた果実酒を喉に運ぶ。見た目が子供のようなので、どことなく背徳感のある光景だ。頬をわずかに赤く染め、潤んだ瞳でこちらを見るシェイズは背伸びして飲酒を楽しんでいる少女のように見えた。
「……ふふっ。今ならレンも食べられるかな?」
「馬鹿言ってんじゃねぇよ。誰がお前と……」
前にかがみこんだシェイズの服の隙間から、胸元が見えそうになって、俺は慌てて視線を逸らした。男か女かわからないのに、妙な色気を纏うシェイズのこういう仕草は、前から苦手だったのだ。
「まあ、冗談はさておいて。キミ、『六芒星』を作り直す気はないの?」
「……あ?」
シェイズの問いかけで、一瞬思考が止まった。胸を埋め尽くす激情が、感情のままに口から迸りそうになる。何かが軋むような音が聞こえ――それが、自分の歯ぎしりの音だと気づくのに、少し時間がかかった。
「……『六芒星』は、アイツのものだ。俺たちが――俺が、勝手に名乗っていい名前じゃない」
なんとか絞り出した声は震えていた。『六芒星』というパーティは、俺が作り上げたものじゃない。ましてや、シェイズが作り上げたものでもない。あのパーティを作った本人がいなくなった以上、俺たちはバラバラになるしかなかったのだ。
「……ふーん。もし気が変わったら言ってよ。ボク、わりと本気でみんなのこと気に入ってるし。今はフラフラしてる、いつでも戻れるからね」
マドラーで果実酒をかき混ぜながら、溜息をつくシェイズ。彼からすれば、俺は女々しく見えるのだろうか。3年前の事件をいつまでも引きずり、いまだに立ち直れない俺のことが。
「……もう帰るよ」
バカバカしい。そう見えるに決まっている。
「うん。ごめんね、言いにくいこと聞いて。お詫びといっちゃあなんだけど、ここの会計はボクが持つよ」
「……ありがとう。じゃあな、シェイズ」
「うん。またね、レン」
俺が扉を開いて、梟の止まり木亭を後にしたとき。シェイズが呟いた一言は、俺の耳には届かなかった。
† † † †
「じゃあ、どうしてキミはまだ……その六芒星のイヤリングをしているの?」
カラン、と氷が音を立てた。マスターは何も言わず、シェイズはしばらく溶けていく氷を眺めていた。薄桃色の液体の表面に映し出された中性的な顔立ちは、何の感情も窺えないほどに無表情だ。
「出てきなよ、ラヴィーナ。コソコソ聞き耳立ててないでさぁ」
「……ま、あんたにはバレてるわよね、シェイズ」
個室の扉が開き、真紅のドレスに身を包んだ女性が現れた。体のラインを強調するその装備を見たシェイズが、小馬鹿にしたように鼻で笑う。
「ふぅん……胸、成長したんだね。絶対無理だと思ってたのに」
「久々に会った第一声がそれ? あんた、やっぱり性格悪いわよ」
「いつまでも後悔を引きずって、一歩も前進しないお姫様に言われてもね。君が一番気になってることを聞いてあげたんだから、感謝のひとつでもしたらどうだい?」
嫌味の応酬。互いに気を許しているから言える悪態――と断言するには、少々棘が鋭い。
「……レンはやっぱり、『六芒星』を復活させる気はないのね」
「3年も経てば――とは思ったけど、ダメみたいだ。君のせいって見方もできる」
「っ……本当に嫌なヤツ!」
昂った感情のままに、拳を握りしめながら叫ぶラヴィーナ。それを冷たい目で見据えるシェイズ――かつて仲間だった2人を、時間と溝が引き裂いていた。今にも暴力に訴えそうなほど緊迫していた2人の雰囲気を霧散させたのは、もう1つの個室の扉が開く音だった。
「……シェイズ? それに、ラヴィーナ……ね」
幽鬼のような足取りで現れたのは、黒髪に銀の眼光を光らせる少女だ。
「げっ」
シェイズが見るからに引き攣った顔をした。ラヴィーナは、『六芒星』が健在だったころから、シェイズがこの少女を苦手としていたことを思い出した。
「アイシャ……」
「参ったな。アイシャもいたのか……」
シェイズはガシガシと自分の頭を掻く。いつも飄々としている彼が見せる、珍しい焦燥と苛立ちの姿だった。
「……もしかして、レンもいたの?」
「……ええ、ついさっきまでね」
ラヴィーナは体にわずかに力を入れ、魔力を巡らせて魔術の準備を整える。どう控えめに言っても、アイシャは彼に依存していた。
まさか、シェイズが彼女にレンを引き合わせなかったというだけで暴発するほど、考えなしではないだろう。そう信じたい。
「そうなの。言ってくれればいいのに」
身構えるラヴィーナだったがしかし、アイシャが漏らした呟きは酷くあっさりとしたものだった。その様子に毒気を抜かれ、ラヴィーナが練っていた魔力が霧散する。
「ど、どうしたの、アイシャ。やけにあっさりしてるじゃない?」
マスターこれお会計、と金貨を2枚放ったアイシャは、ラヴィーナの声に振り返る。その感情を読み取ろうと、銀の右目を覗き込んだラヴィーナは、すぐに自分の行動を後悔した。
爛々と光る銀の右目は、寸分たりとも揺らぐことなく前を見ていた。
「レンは必ず、私のところに戻ってくる」
狂気すら感じる、絶対的な信頼。揺らぐことのない、レンという存在に対する――信仰。
足元から響いた硬い音で、ラヴィーナは自身が気圧されて後ろに下がっていたことを知った。ラヴィーナは唇を噛みしめる。
まだ己が、彼らの隣に立てていないことを知った。
ただ未来を信じて突き進むアイシャという少女の本質を、捉え損ねていたことも。
「ラヴィーナ。貴女なんか眼中にないけど……おこぼれくらいなら、あげる」
「――ッ! 上等よ……!」
微かに歪んだアイシャの顔に浮かんだ表情は嘲笑。明らかに彼女は今、ラヴィーナを蔑んで嘲笑った。
それが何を意味するか理解したラヴィーナは、自分の頭に一瞬で血が昇ったことを自覚する。引いた一歩を埋めて、さらにもう一歩詰め寄る。アイシャとラヴィーナでは、ラヴィーナの方がわずかに身長が高い。
黒髪の少女を見下ろし、ラヴィーナは拳を突き付けた。後衛の魔導士が、前衛の戦士に近距離で喧嘩を売るのは、自殺に等しい。ましてや『銀ノ流星』アイシャは、一線級の冒険者なのだ。
「譲らないし、負けないわ」
「――負け犬ほどよく吠える」
アイシャは鼻で笑い、ラヴィーナの拳を無視して歩き出した。やがて扉にたどり着いたアイシャは、そのまま梟の止まり木亭を立ち去る。足音が徐々に遠ざかっていくのを聞き、完全に聞こえなくなったところで――シェイズとラヴィーナは同時に大きく息を吐き出した。
「……よくアレに喧嘩売れるよね、ラヴィーナ」
「一瞬、本気で死んだと思ったわ」
ラヴィーナが拳を突き付けた瞬間、一瞬だが――アイシャの気配が膨れ上がった。殺気に等しい膨大な圧力。『六芒星』の中でも、強敵と戦う時ほどアイシャに頼っていたことを考えれば、『六芒星』最強はアイシャだ。
普通に戦えばラヴィーナもシェイズもアイシャもおそらく横並びだ。
だが、アイシャが『左目』を開放した時、ラヴィーナには勝てるイメージが全く浮かばない。
彼女が『銀ノ流星』と称される理由。その圧倒的な破壊力を思い出し、ラヴィーナは溜息を吐き出した。『焔ノ幻術士』として自負している破壊力も、このあたり一帯をものの数秒で更地にできるであろうアイシャの攻撃には敵わない。
思えば、酷く対照的な姉妹だった。
シェイズがあきれたように両手を頭の後ろで組み、口を開く。
「全く。今になって震えるくらいなら、最初から喧嘩売らなきゃいいのに」
「しょ、しょうがないでしょ!? 怖いじゃないあの娘!」
ラヴィーナは今になって震えだした膝を押さえつけるが、心臓を鷲掴みにされたような悪寒は、なかなか収まらない。喉元に牙が喰い込んでいるかのような、あまりにも濃密な死の気配。異界迷宮に潜れば何度も経験するが、あそこまで身近で振り撒かれれば、さすがに死を覚悟する。
「……ま、ボク、ラヴィーナのそういうとこ、嫌いじゃないけど」
「え? どういうとこ?」
「損得勘定とか抜きにして、感情のまま突っ走っちゃってあとで死ぬほど後悔するとこ」
「……うるさいわよ」
赤くなった頬を隠すために、ラヴィーナは顔を背けた。普段自信満々に振る舞ってはいるが、彼女だって人の子だ。褒められれば嬉しいし、貶されれば落ち込む。もっとも、ラヴィーナの場合は落ち込む前に激昂することの方が多いが。
「マスター、これお会計ね」
「おや、こちらは……シェイズ殿とレン殿の分にしては、いささか多いようですが?」
カウンターに置かれた4枚の金貨を見たマスターの疑問に、シェイズはウィンクをして答える。
「ラヴィーナの分もまとめて、ね。余った分は、また今度に回しといて」
「……『六芒星』の皆さま、そうおっしゃるので……だいぶ、貯金がたまってきてますが」
「へぇ、そうなんだ。お金持ちだねぇみんな」
「『六芒星』が健在だったとき、めちゃくちゃ稼いだしね……ともあれ、ありがとうシェイズ」
呆れた様子で溜息を吐き出すラヴィーナに、シェイズは軽く右手を振って答えた。
「いや、ラヴィーナが隠し持ってるとこから抜いた金貨だから。そこわかりやすいから、別の場所に隠した方がいいよ。じゃあね!」
「なっ!? ちょっ、嘘でしょ――本当だ!? あいつどんだけ手癖悪いのよ!?」
慌てて腰元の隠しポケットをまさぐったラヴィーナは、そこに入れておいた金貨が2枚失くなっていることを確認した。つまり、結局のところ半分はラヴィーナ持ちというわけだ。
一瞬怒鳴りつけようとしたラヴィーナだったが、なんとか踏みとどまった。今から声を上げてもシェイズを喜ばせるだけであろうし、そもそもここで大声を上げるのは迷惑だ。
「……今日は帰るわ、マスター」
「またのお越しをお待ちしております」
ラヴィーナが個室に戻ると、キリエナがニヤニヤと笑いながらラヴィーナのことを待っていた。何が言いたいかはわかりきっているので、ラヴィーナは努めて表情を動かさないようにしながら、帰り支度を整えた。
しばらく無視していると、キリエナはニヤニヤとした笑顔を引っ込めて、真顔でラヴィーナに声をかけた。
「色々大変なんだね、ラヴィーナも」
「……そうなのよ……」
思わず疲れ切った声が出てしまったのは、不意の遭遇で気力を使い果たしたからだ。決して飲み過ぎで頭痛がするわけではない。
アイシャのペースに付き合って酔いつぶれていたクロンが翌朝ギルドの出勤に遅れ、叱られるのはまた別の話だ。