第5話 魔狼の毛皮
俺はリュインを引き連れて、異界迷宮『草原』を後にする。転移門を潜れば、見慣れたレンガの建物だ。
かつて、冒険者ギルドは『草原』側にもこれと似たような建物を作ったらしい。何人もの冒険者を動員し、転移門を利用して物資を運び込んで。
だがその建物も、護衛についていた冒険者も、一晩のうちに消えた。それはまるで怪談のように、冒険者たちの間で語り継がれている。以来、冒険者ギルドは『草原』側に建物を作ろうとしない。
どこまでが嘘で、どこからが本当なのかはわからないが、少なくとも冒険者ギルドが『草原』に積極的に進出しないのは事実だ。
「よう、よく戻ったな」
「ああ。なんとか今回も無事に戻れたよ、ゲルゼ」
気楽な様子で声をかけてきたゲルゼに、俺は安堵の息を吐き出しながら答えた。まだすぐ後ろに転移門があることを考えれば、油断していいわけではないのだが、少しだけ気を抜くくらいは許されるだろう。
「お前ぐらいの腕前になりゃあよ、『草原』なんて庭みたいなもんやろ?」
「人は庭でも死ねる」
俺の言葉を聞いたゲルゼは、溜息をつきながら頭を掻いた。
「そりゃその通りだが……」
「異界迷宮では何が起こるかわからない。それは、お前だってよく知ってるはずだ」
「ん~……お前はもうちょい、自分に自信持った方がいいと思うがな……」
まあこれ以上は言わん、とゲルゼは短槍を肩に担ぎ直して頬を掻く。俺は何も言わず、無言で足を建物の出口へと向けた。
「ああ、それと。今日はレイワの店が安いって聞いたぞ」
返事の代わりに右手を上げて、俺とリュインは建物を出た。日はだいぶ傾いているが、それでも気温は高い。日差しを手で遮りながら、俺は後ろのリュインに話しかけた。
「冒険者ギルドで、討伐報告をする。そのあとは、買い物だな」
「は、はい!」
何かを考え込んでいたリュインが、弾かれたように顔を上げる。呪詛系の魔術を使用してから、リュインはふとした瞬間に考え込むことが増えた。
何を悩んでいるのか知らないが、現象系はあまり得意ではないと言ったのは彼女だ。実際、見せてもらった感触では時間がかかりすぎ、威力もそれほどなかった。あれでは実戦レベルになるのは難しいだろう。
呪詛系以外の魔術を望むのであれば、何かしら違う案が必要になる。戦闘も補助もできないのであれば、あとは荷物持ちくらいしか役割はない。だが、リュインの細腕を見れば、荷物持ちとしてもどれだけの需要があるかは怪しいところだ。
(ああ……うん。1個だけ需要も能力も釣り合いそうなのあったけど。さすがにゲスすぎるから言うのはやめておこう)
「……あの。師匠」
「どうした?」
裾を引っ張られて振り返ると、リュインがうつむきがちに顔を赤らめていた。いい年した女性にされたら正気を疑うが、絶世の美少女がやると絵になるな。
「呪詛系の魔術なんですが……」
「うん」
そこまで言うと、リュインは迷いや恥ずかしさを振り切るように、真剣な顔つきになって俺に告げた。
「詠唱が恥ずかしいので、違うのがいいです……」
「……は?」
詠唱が? 恥ずかしい?
「……お前、さては異界迷宮と冒険者を舐めてるな?」
「ち、違うんです! 本当に! 本当に恥ずかしいんです! 使い手がいないから、全然詠唱が更新されなくて! 一時期ハマってて、呪詛系の魔術はすごい読み込んだので使えるんですけど! 詠唱が! 本当に! 恥ずかしいんです!」
拳を握りしめて力説するリュインに、俺は一歩後ずさった。理性でも感情でも『恥ずかしい』という理由で切り捨てるほど、呪詛系の魔術は役に立たないわけではない。小鬼や魔狼に効くことは実証済みだし、今のところ『混濁』しか見ていないが、一瞬とはいえ相手の行動を止められる魔術は使いどころに困らない。攻めてよし、守ってよしの万能な魔術だ。
「だいたい、『混濁』は無詠唱で使えてたじゃないか」
「『混濁』は呪詛系の魔術の中でも、使いやすさが断トツなんですよ……これ以上上の呪詛系となると、私は詠唱しないと使えません……」
「……人に聞こえないように小声でやれば」
「言うのが恥ずかしいんですよぉ……!」
よくわからない感覚だった。俺の知り合いの魔導士は、いずれも高らかに詠唱を謳いあげるような奴らだった。敵に見つかるから小声で唱えろと言っても全然言うことを聞かなかった。
……詠唱が恥ずかしい、ねぇ。
「……何を使うかは、基本的にはリュインの自由意志だが……呪詛系の魔術を使わない、というのであれば他に何か有用な役割をこなす必要があるぞ」
「うう、やっぱりそうなりますよね……」
目を泳がせながら周囲を忙しなく見回すリュイン。それほど恥ずかしい詠唱なのだろうか。逆にちょっと興味が湧いてきた。
「なあ、ちょっと聞いてみたいんだけど、そんなに嫌がる恥ずかしい詠唱って例えばどんななの?」
「師匠は羞恥プレイがお好みですか」
「お前、誰か聞いてたらどうすんだ」
今度は俺が慌てて周囲を見回す番だった。幸い、周囲を行き交う人々の耳には今のリュインの発言は届いていないようだった。
「絶対言いませんよ。少なくとも日が明るいうちは」
「なんかすげー気になってきたけど、しばらくは『混濁』があればいいんじゃないか。あれなら詠唱要らないんだろう?」
「まあ、そうですね……」
「んじゃ、当分の目標は小鬼を1人で狩れるようになること。安定して小鬼が狩れるようになれば、とりあえずは生きていける。副目標として、パーティメンバーを探すべきだな」
俺がクロンに与えられた期間は10日。リュインが呪詛系の魔術をメインに据えるのであれば、前衛は必ず必要になる。
ただ、小鬼との戦いは慣れていない間は乱戦になることもある。小鬼と魔狼を1対1で倒せないと、安心して『草原』で活動はできない。
「パーティメンバー?」
「ああ。ただ、難航しそうではあるな。呪詛系の魔術を使う冒険者なんてあまりいないし。余計な奴が来ないようにしないと……」
冒険者の中には、『体目当て』で初心者の女性冒険者を食い物にするような奴も存在する。もちろん、基本的にはしかるべき制裁が冒険者ギルドから下されるのだが、根絶できていない。
「……」
「……どうした?」
「…………いえ。なんでもないです」
そんな恨みがましい目で見て、たっぷり間をあけてから『なんでもないです』とか言われても、説得力がまるでないんだが。
そっぽを向くリュインだったが、だいぶ打ち解けてきたようだ。俺は気付かれないようにほっと息を吐く。年頃の女性の扱いなんて、経験がない。難しすぎる。
「ゲルゼが安くなってる店を教えてくれたからな。冒険者ギルドのあとはレイワの店に行こう」
「買い物ですか?」
「ああ。ゲルゼはあそこで冒険者たちの雑談を小耳に挟んでるから、かなり情報通だぞ。できるだけ異界迷宮の管理者とは仲良くなっておいたほうがいい」
小鬼との戦いの中で、リュインは現象系の魔術も、威力は低いが使えることがわかった。本当に魔力放出の最大値が低いらしく、魔導杖のサポートを受けてようやく小鬼1匹を倒せる程度だった。
「なにか使える武器も買わなきゃな」
「は、はい」
「その前にこいつらを売り払う必要がある。魔狼の皮は冒険者ギルド以外で売ることもできるが、慣れない間は買い叩かれるだけだ。大人しく冒険者ギルドに持ち込むのが無難だろう」
俺は革袋に収めた小鬼の耳と、肩に担いだ魔狼の毛皮を指し示す。革袋は帝国産の魔石、〈氷ノ魔石〉を利用した魔道具だ。内部を低温に保ち、腐敗を遅らせる効果がある。冒険者たちの間では広く普及している魔道具だ。
冒険者ギルドの隣に併設されている、素材買取所に足を踏み入れる。冒険者ギルドの職員が鑑定を行っており、中にはかつて高ランクの冒険者だった者もいる。
獣臭さと血生臭さに一瞬顔をしかめる。慣れた匂いとはいえ、相変わらずの強烈な臭気である。あちこちで〈風ノ魔石〉を埋め込まれた魔道具が唸りをあげて風を生みだしているが、その程度の換気能力では匂いを断つことはできないらしい。
「“銀”の『雑役夫』だ……」
「後ろのちっこいのは誰だ?」
「懲りもせずに……また捨てられるぞ」
囁きが周囲を満たす。どうも、リュインは目立つ。俺が1人でここを訪れた時は、ここまで噂の的になったりしないのだが。リュインが怯えたように周囲を見回し、俺の背中に張り付く。査定待ちの冒険者たちは、下世話な興味を含んだ目で俺たちを見る。
「おい、どういうことだよ!? その査定はおかしいだろ!?」
居心地の悪い空気を、カウンターの前に立っている若い冒険者の怒声が貫いた。きちんと鍛錬を行っているようで、体つきは悪くない。腰に佩いたロングソードもよく手入れされているようだった。
ここで査定に文句を言っても、査定が変わることは滅多にない。だから、彼は冒険者初心者なのだろう。
「あ」
面倒そうに耳をほじっていたギルド職員が、俺に気づいた。面倒ごとに巻き込まれるのはごめんだったので、俺は咄嗟に隠れられる場所を探すが――
「おーいレンくん! こっちこっち!」
周囲の冒険者の視線が一斉に俺に集中するのがわかった。この状況で「人違いです」などと言い出せるはずもなく、俺はゆっくりとカウンターに向かう。リュインは相変わらず背中にぴったりと張り付いて離れない。
「ディラジス、俺を巻き込むのは勘弁してくれよ……」
「えー? 君が魔狼の皮を持っているから、優先的に査定してやろうという親切心じゃないか。いいからさっさとこの机に置きたまえよ」
眼鏡を片手で持ち上げて直し、白髪の男――ディラジスは気楽にカウンターを叩いた。言いたいことは多々あれど、冒険者ギルドの職員は基本的にマイペースだ。逆らっても時間の無駄であることを知っている俺は、カウンターに魔狼の皮を2枚放り出す。
状況についていけずに目を白黒させる若い冒険者に同情する。一方、俺のそんな気持ちに気づくこともなく、ディラジスは楽しそうに俺の魔狼の皮を持ち上げた。
「さてさて、君に1つ授業をしてあげよう。君はさきほど、私の査定額がおかしいと言ったね。その根拠はおそらくあれだろう」
ディラジスが指さしたのは、自身の頭上に掲げられた掲示板だった。いつの時代からそこに収められているのかは知らないが、そこには様々な素材の名前と値段が書いてある。その相場は日に2回表示が変わり、冒険者たちが集める素材を決める指標になっている。
「あ、ああ。だって、おかしいだろ。あそこに、魔狼の毛皮は1枚で銀貨2枚って書いてあるじゃないか」
言われて、俺は相場板を見上げる。確かに魔狼の毛皮は銀貨2枚と表示されていた。
「ああ、うん。君の魔狼の毛皮は全部で9枚。だから、合計で銀貨14枚」
俺は机の上に置いてある、青年が提出した毛皮を見る。ディラジスが言いたいことが、なんとなくわかった。俺を呼んだ理由も。
「……俺の計算がおかしいのか? 銀貨2枚の毛皮が9枚あったら、銀貨18枚だろう?」
あまりにも自信満々なディラジスの様子を見て不安になったのか、青年は味方を探すように俺を見た。冒険者にしては押しが弱い男だ。
「計算は合ってますよ~……」
「うわっびっくりした」
俺の背中から響いたくぐもった声に、青年は驚いて俺の背中を覗き込む。おそらく、顔を俺の背中に押し付けているリュインの姿が見えたはず。ぎょっとした様子で体を引き、『背中に張り付く少女』には言及しないことにしたようだ。
「えーと、ちなみに、レンくんのこの魔狼の毛皮なら、2枚で銀貨5枚にしますね。私なら」
俺の出した毛皮1枚と、青年が出した毛皮1枚を持ち上げて、ニコニコと笑みを浮かべるディラジス。一目見ただけではわからないが、じっくりと見つめれば、その違いがわかるはず。
「んー……?」
青年の冒険者は首を傾げて、2枚を見比べる。気づけば、周囲で管を巻いていた冒険者たちも、興味深い様子で2枚の毛皮を見比べていた。
冒険者たちは即物的で夢見がちだが、現実主義者としての側面も持つ。いや、持たされると言うべきか。夢を見て冒険者になっても、夢を見続けるためには現実にも目を向けなければならなくなる。一部の例外を除いて。
しかし、誰もが見ているだけで声を上げないので、ディラジスは溜息をついてから口を開いた。
「仕方ない、解説してあげよう。まず、ポイントは毛艶だね。君、魔狼を殺して少し休んでから皮を剥ぎ取っただろう?」
「あ、ああ」
青年が頷く。他の冒険者ギルド職員もこの雰囲気には気づいているはずだが、どうやら静観することにしたようだった。