時渡りという事
玄関を開ければそこは釜や流し台が並べられている台所のような所だった。左手側には襖が付いており、どうやらここから中へ入るらしい。
皿や茶碗の数からして、憐一人で暮らしているわけではないようだ。憐くんとあと……。
「何してんだよ、早く上がれよ」
「あ……あの。れ、憐………くん」
「憐でいいよ、なんだよ」
「え、あ……憐以外にも誰かいるの?」
それを耳にした憐は、しばしば沈黙に入ってしまった。もしかすると、聞いては不味かったのだろうか。考え込むように俯く彼の顔を覗いて見る。よく見ると、綺麗なまつ毛をしているなと、呑気な私は心の奥底でクスクス音を立てながら笑っていた。
「あぁ、草履の数でか。確かに、俺以外にあと一人住人がいるけど今は出かけてて誰も居ないよ」
「そう……なんだ?」
「………悠生って言って、俺の保護者みたいな存在なんだよ。……少し口煩いけどな」
ふてくされた様に頬を膨らませた憐は、それから聞いてもいないというのにも関わらず、自ら悠生さんの話を聞かせてくれた。話とはいえ、その殆どが愚痴だったけれど。
基本優しく穏やかな性格で、家事も全て悠生さんという人が引き受けてくれているらしい。
憐は保護者のような存在と言っていたが、本当はきっと保護者よりももっと壮大で、してかけがえの無い人に近いのだろうと、彼の表情を見ていて思った。
一方両親はというと、憐の母親は彼が生まれてすぐにこの世を去ったらしく、母親の顔以前にその記憶すら残っていないし覚えていないのだという。父親の方も、母親が亡くなってすぐに彼を置いて何処かへ消えてしまったらしい。
この百眼神社で捨てられていた赤ん坊を保護し育ててくれたのが、彼の言う“悠生さん”だと言うのだ。
では、私はこれから憐の母親でもあり父親でもある方に会わなければいけないと言うことなのだろうか。そう思うと余計に私の心臓は高速で脈を打ち始める。
「何震えてんだ?」
「だ、だって……憐のお父さんでもありお母さんでもある人でしょ? そりゃあ怖くなるよ……」
「何を言ってるんだ?」
突然焦り出す私を、憐は呆れた目で流した。人から冷たい目で見られたのは、一体いつぶりだろう。そもそもいつが最後なのかすら覚えていないのだけれど。
私は、憐と違って人見知りなのだ。なぜか憐だけは何とも思わなかったのだが、基本慣れるまでは、人と素で関われない。社会的にとても痛手な性格なのだ。
なぜ憐は大丈夫だったのか。それは私にもよくわからないが、なぜだろう。彼と出会ったのは今日が初めてではないような気がしてならないのだ。
憐を見れば見るほど、その思いは強くなっていくのだから、何ともおかしな話だ。
当の本人はというと、丸い形をしたちゃぶ台を端へと退かし、私と自分の座布団を敷くと座るように指示した。が、私の苦しそうな表情を目にし、首を傾げて見せた。
「どうかしたのか?」
「あ……ううん」
「変なやつだな。で、悠生が帰って来たらで構わないけどもう一度ここに来る事になった経緯を話して欲しいんだが」
「………え?」
思ってもいない彼の言葉に、思わず聞き返してしまった。きっと、この時代に来るまでの経緯を一から説明しろという事なのだろうが、それはちょっとどうなのだろう。
別に説明をする事に対しては何も思うことは無い。
が、一番問題となるのが、憐は何とか信じてくれた「時渡り」というあまりにも非現実的な現象を、例の悠生さんも信じてくれるのかと言えばきっとそういうわけにもいかないだろう。
「なんだよ」
「いや……だって、仮に私が悠生さんに時渡りの話をした所で信じてもらえるかなんて………」
「───うん、信じるよ」
突然背後から聞こえた男性の低い声に、私は思わず腰を抜かしてしまった。全く、あの女性といい憐といい、この男性といい。ここ百眼神社で出会う人はなぜこうも人を驚かす事を好むのだろうか。
「え、えっと……?」
「……あぁ、悠生か。まぁ座れよ」
「え、悠……生!? この人が……」
「あの憐、そこはおかえりでしょ……?」
私が想像していた“悠生”という人物は、もっと強面で昭和のお母さんのような容姿だった。
だが、実際の悠生さんは若干垂れ目で右目の下に泣きボクロ。鼻は綺麗に整っており、緩やかに口角の上がった美しい口元は、彼の温厚な性格をそのまま写しあげているようだった。
正に優しい型のイケメンを目の当たりにしているようで、私は思わずうっとりとした目で見つめてしまっていた。それを目の当たりにした憐は、「何やってんだお前……」と若干引き気味に問いかけた。
「憐には関係ないよ、放っておいて!」
「碧、お前なぁ……!」
「……まぁまぁ、落ち着いて。碧ちゃんが時渡りをしてここまでくる事になった経緯を話しては貰えないかな?」
そんな天使のような笑顔を向けられてしまったら、拒否なんてできるわけがない。私は何度も縦に頭を振り承諾の意を表した。ありがとう、と言って悠生さんは私の隣りに座り込む。
その素晴らしすぎる状況に、思わず赤面した。そんな私に対して、憐は違う生き物を見ているかのような怪訝な表情でこちらを眺めていた──。
「───母が、父が亡くなってまだ一年も経ってないのに、知らない人と……接吻、してる所見ちゃって、嫌になって逃げ出したんです。
そしたら、突然白い着物を着た女の子に遭遇して………なんか、言われました」
「………何か?」
「えっと、確か……“だから来ちゃだめだって言ったのに”だったかな……? そしたら急に景色が変わって、いつの間にか百眼神社にいたんです」
そして私は百眼神社で見た、損壊していたはずのこの廃家と、百眼神なのかただの幽霊なのかも分からないあの化け物のような女性の事を話した。憐はよく分かっていないのか、眉間に皺を寄せながら唸っている。
「………それ、は……百眼神、かもね」
「──え?」
百眼神といえば、古くからこの此岸島に伝わる島の神様で、百眼神社に訪れた者を彼岸《あの世》へ送ると言われている。
その言い伝えは祖母によれば千年も昔からずっと存在しており、現在では百眼神は悪い神様とされ島民達から忌み嫌われている。
悠生さんは何やら苦しげな声で呟いたが、その表情からは忌み嫌っているような様子は伺えなかった。むしろ、百眼神の話をする事に対して辛さを感じているようにも見えた。気のせいかもしれないけれど。
「どうして百眼神だって分かるんだよ」
「……あくまで憶測だよ、憐」
「は、はぁ?」
「それで、碧ちゃん。君はどうしたいのかな?」
悠生さんは真剣な瞳でこちらへと向き直った。優しく穏やかな先程までの彼とは違うその表情に、思わず私の笑顔も固まってしまう。
「どうしたいって、その………」
「帰りたいに決まってんだろ、悠生何言って……」
「君には聞いていないよ、憐」
悠生さんの冷たい言葉は、聞き慣れているはずの憐でも結構刺さるようで、彼の一言だけで直ぐに静かになってしまった。
それよりも、悠生さんの言った“これからどうしたいか”だが、私は憐が思っているほど強くはない。あんなものを見せられてしまった今は、帰る場所のある未来へは帰りたいなど思えなかった。
「私は………」
私は──、元の時代になど帰りたくない。