プロローグ
「───っ!」
何やら変な夢を見ていた。そんな気がする。
幼い頃、亡くなった祖母からよく聞かされたこの此岸島に千年も昔から伝わる島の神、百眼神の言い伝え。祖母が言うには百眼神というのは我々人間にとって悪い神様らしい。神様に、良いも悪いもあるものなのか気になる所ではあるものの、それを教えてくれるだろう祖母はもういない。
それはそうと、なぜ今頃になってそんな昔に聞いたあの日の事を夢に見てしまったのだろう。ふと私はベッドのすぐ左側にある壁に掛けてあるカレンダーに視線を向ける。
今日は八月六日。今日は祖母の七回忌という事になる。命日なのだから、あんな昔の夢を見てもおかしくはないだろう。
なんて事を呑気に考えている暇は私にはない。なんたって、今日は祖母の命日なのだ。これから墓参りに行く約束を母とこの間していたから、サボる訳にはいかない。
私はベッドから身体を起こすと、いつも通りのキャラクターが描かれた白のTシャツにシンプルな黒のスカートという地味な服装に着替え、部屋を後にした。
────────────────────
この家は二階建ての和風な雰囲気を醸し出した一軒家だ。私の部屋以外、扉はみんな襖。他の家でいうリビングという所は畳の敷かれた居間になっている。
そりゃあ小学生の頃は周りの家々が皆洋風だから羨ましいと常に思って過ごしていたが、中学二年生になった今は、特に気にならなくなってしまった。
これが所謂“慣れ”というものなのだろうか。そう思うと、慣れるという現象が恐ろしくなってしまう。まぁ、そんな事言ってもどうにもならないのだけれど。
階段を駆け下りた私は、騒がしい足音を立てながら木製の廊下を駆け抜けた。玄関に一番近い所にある襖を開ければ、そこは私の目指していた居間だ。奇妙なくらい中は静かだが、きっとここに母がいるはずだ。
「───!!?」
居間に広がっていた光景は、とても不愉快なものだった。
なにやら静かだと思っていた室内では、母と見知らぬ男が真っ昼間から熱いキスを交わしていたのだから当然だろう。
「………おはよう、碧」
「何してんの、お母さん。その人誰?」
知らない男から身を離した母は、こちらを睨みつけながら紅く彩られた唇を腕でひと拭きしてみせた。身を離すとはいえ、母という仮面を被った目の前のオンナは、オトコの首にもう片方の腕を回している。
母親の浮気現場をこの目で目の当たりにしてしまった私の中からは、嫌悪感や憎悪よりも先に“気持ち悪い”という感情が込み上げてきて、思わず胃液を吐き出してしまいそうだった。
そんな私の内心など知る由もない母は、艶めかしい目付きで男を見つめながら「あのねお母さんね、この人と結婚したいの」と呟いた。
「お母さん……?」
「いいでしょ、碧。お父さんが死んでからもうすぐ一年経つんだから」
去年の九月二十日、父が突然他界した。死因は不明。私が朝起きて居間に入ると、冷たくなった父が倒れていたのだ。酒はよく飲む人ではあったが、その晩酒は一切口にしていないらしいし、目立った外傷も病気のようなものもなかった。
「………私、お婆ちゃんのお墓参りに行ってくるね」
「あ、碧……!?」
なんだか、とても虚しくて仕方がなかった。思わず私は母の言葉など一切無視をして家を飛び出すような勢いで後にした。
なぜだろう、胸の奥が締め付けられて潰れそうな程痛くて苦しい。心臓の辺りからじわじわと押し寄せてくる複雑でよく分からない謎めいたこの感覚。まるで私の頭で感じた悲しみが心臓を伝わって津波のように全身へと流れていくようだ。
嫌い、嫌いだ。なにもかもが嫌になりそうだ。祖母の墓参りさえも億劫になってきた私は、宛もなくこの空き家だらけの静かな田舎の街を歩き続けた。
────────────────────
不可思議な出来事というのはいつも何の予告もなく突然やってくるものだ。しばらく我を忘れ街を歩いていた私の目の前に突然、なにやら怪しげな少女が現れたのだ。道の真ん中に立ち尽くしているその姿は、まるで私を待ち伏せしていたかのよう。
なにが不思議かって、その容姿だ。今日は何の祭りでもないはずなのに桃色がベースの椿柄の描かれた綺麗な浴衣に、厚底の下駄。顔は白い布で覆われており、その中身を知る事はできそうにない。
が、その布の真ん中には百眼神社の紋章である彼岸花の絵が描かれている。
よく周りを観察してみると、どうやらこの道の先にあの百眼神社の入り口である百本の鳥居が建っているのが確認できる。そう思うと目の前の少女はあの世の者の類いと考えて良いのだろう。
「………私に何の用、ですか?」
昔から霊のような類いの者を見てきた私からすれば、目の前の少女を“怖い”とは思えない。少女はやはり口を開かず、黙り込んだまま首を横に傾げて見せた。危害を加えそうにないとどこか安心していた私は一歩、また一歩と少女へと足を運ぶ。すると彼女は何やら嬉しげな声の調子で突然言葉を発した。
「だから、百眼神社に来ちゃだめって言ったのに」
「───え?」
と、次の瞬間。瞬きを一つしたその一瞬の間で、景色は彼岸花が参道の周りを埋め尽くした気味の悪い神社へと変わった。
先程までいたはずの道路はどこへ消えたと言うのだろう。突然の事態に思わず青ざめた私は、状況を理解するために辺りを見回してみる。
石畳で出来ている参道は、所々から苔が生え、拝殿の方なんかは蔦や苔で覆われ所々建物の損壊も伺えた。これにて、よっぽど人が訪れておらず、手入れすらされていない事がはっきりと理解できる。
私の背後に佇む大きな鳥居の真ん中には、先程の少女が付けていた布に描かれていたあの彼岸花の紋章がここにも描かれている。
「だから、百眼神社に───」
先程の少女の言葉で全てを察した。恐らく私は、あれだけ祖母に来るなと言われていた例の百眼神社に、いつの間にか足を踏み入れてしまっていたのだろう。