蝉と絵とおちょこ
佐井 千夜子さんの『真夏のリハビリ企画』応募作品です。
初めてちゃんと書き上げた小説です。温かく読んでくれたら幸いです。
「夏に蝉の声を聞くと、もの悲しくなるんだ。」
三十代くらいの小太りの男はそう呟いて、居酒屋の古い木の机の上に、白いおちょこをかたん…とおいた。
男は既に結構飲んでいて、つまみの皿は空だった。そして、新たにつまみを注文した。
「なあに気にしないで、これは僕のおごりだ。食べていきなよ、ここの大将の料理は絶品だぞ~。」
男はそういい、相手に酒と料理を勧める。
――それといっちゃあなんだけど
「僕の昔話、聞いてくれないかな……?」
僕がいた小学校は田舎でね…よく虫が教室に迷い込んで来たんだよ。
その虫を同級生が嬉々として「気持ち悪い」といって殺したりするのを見るのが嫌だったんだ。
そして、命をこんな風に扱う人間になりたくないなと、日頃からそう思っていたんだ。
だけど、今日みたいに暑い夏の日の夕方。
学校から帰っていた僕は、いつも帰り道に使っている道路に、地面を這いずる白っぽいなにかを見つけたんだ。
近寄って見てみると、それは蝉だった。
多分羽化の途中に風で飛ばされ落ちたんだと思うけど、茶色い殻から緑がかった白い柔らかそうな身体をひょっこり出して、蟻に集られていた。
そして殻を引きずりながら、鎌のような前足をぎこちなく動かして、翅を伸ばせれるところを探していたんだ。
―その時僕は、そのこをすごく助けたくなってね…。
近づいて手を差し伸べようとしたんだ。
とっさにテレビに出た家の網戸に蝉を引っ付けて羽化させる場面を思い付いたんだけど、それまでこの子が保つか、潰さずにいられるか自信がなくて、棒に掴まらせたらどうだろうと思ったんだ。
今思えばパニクってたんだろうね。
そしてその子を木の棒に掴まらせようとしたんだけど、なかなか上手く掴まらなくてね、もともと短気な子どもだった僕は、焦ってまごついているうちにイラついて、棒に少しだけ力を込めてしまったんだ。
それがいけなかった。
力が入った結果、手元が狂い、その子を棒で突いてしまったんだ…。
突かれた拍子に、殻からその子の身体が、ころんと出てしまってね…。
殻で見えなかった一対の小さな縮れた翅や柔らかそうな白いお腹が見えて、僕は泣きそうになったんだ。
情けなく、ごめん、ごめんよぉ、っていいながらその子を優しく手のひらの上に持ち上げて、そのこが掴まれそうな木に掴まらせてあげようとしたんだ。
お願い、掴まって…そう切に願いながら。
――でもその願いはあっけなく打ち砕かれた。
そのこは木に掴まれなかったんだ。
掴まる力がなくなっていたんだ…。
羽化の最中の蝉はとってもデリケートなんだ、下手に衝撃を与えると力を失い、死んでしまう。 その知識を知らなくても、分かってしまったんだ…。
僕のせいでこのこは、こうなってしまったんだって。
そして、始めからこうしていれば、そのこはまだ助かったかもしれない…。
――僕が間違えなければ…。
そのことに気づいた僕は、思わず動揺して、そのこを持つ手に力が入らなくなった…。
手から力を抜いてしまったんだ…。
当然のように、そのこは手から滑り落ちた。
とっさに伸ばした両手は空を掴み、いつの間にか日が暮れていてできた草の影に、そのこは吸い込まるように落ちていった。
そして、草の影に呑み込まれて、見えなくなった。
――ただただ…喪失感が残った……。
僕は必死に草を掻き分けた。
日暮れで影が濃くなり、ほとんど何も見えなくなってもきたから、僕は必死にそのこを探した。
そしてしばらくして、そのこは見つかった。
さっきよりも弱々しくぐったりしていて、体のほとんどに蟻が集っていて動かなくなっていた……。
僕は、ただただ、ごめんなさいを繰り返しながら、そのこをもう一度手のひらに乗せようとした。
だが、そのこは力を振り絞って僕の手のひらから逃げた……。
そして、弱々しくも必死に体を引きずり、
「僕」から逃げようとした。
そのとき、逃げ惑うそのこの黒い複眼を、見た。
「――もう、ほうっておいてくれ。」
蝉の言葉は知らなくても、そう聞こえた気がした。
僕は、一番なりたくなかったあいつらと同じ…いや…自覚がない分もっと質の悪い醜いクズだったんだと思い知らされた……。
いのちを傷つけ、弄んでしまった……。
あの時自分の閃きを信じていれば……あの時動揺せず手を離さなければ……いやそれとも……。
ごちゃごちゃとした考えで頭の中がぐちゃぐちゃになっていた僕の後ろから、同い年くらいの女の子の声が聞こえた。
「――あ、殺した。」
そう呟かれたことばは、ぐちゃぐちゃになっていた僕のこころを決壊させるには十分だった。
僕は、うああああぁぁぁぁぁぁぁと情けなく叫びながらそのこを置いて逃げ出した。
途中で中学生とすれ違い、下卑た顔で笑われた。ただただ、目障りで、耳障りで、消えて欲しかった。
家に帰ったあと、兄に話してみたら、優しく肩を持ってくれて、「蟻に食わせればよかったんだ。」と言ってくれたのが頭に残った。
翌朝、あの蝉のいるところへ行ってみた。
綺麗さっぱり、翅の欠片すらなかった。
そのとき僕はほっとしてしまった…。
昨日あったことは悪い夢ではないのか?そんな考えが頭をよぎった。
そして直ぐに両手を見て否定した。
あのとき確かに、僕の手のひらの上にあのこがいた。
あの時の軟らかい感触…手から滑り落ちた喪失感…そして拒絶された感覚は、ちゃんと覚えている。
夢だと思った自分をすごく恥じた。
家に帰って絵を書いた。落書きみたいなものだけど書いた。
少年の周りを蝉が楽しそうに飛び回っていた。
起こったことは覆せないなら、せめて絵の中でくらいあのこを……そう、想って書いた。
――醜く汚らわしい、自分が可愛い、許されたいだけのクズの発想だった。
僕はその絵を破ろうと紙の端を掴んだ。
そして、破るのを止めた。ここで破ったら本当のクズになる気がしたからだ。
僕は、その絵が書かれたノートを優しく、学習机の引き出しの奥にそっと、しまった。
「それ以来、僕は蝉の鳴き声を聞くとあの時のことを思い出して、もの悲しくなるんだ…。」
男は思い詰めたような険しい顔をした後、ふぅ…とため息をついた。
しばらくの間、場が静寂に包まれた。
――でもね
男は険しい顔をほころばせ微笑んだ。
「後悔だけじゃなくて、分かったこともあるんだ。」
「僕は選択を間違えてしまい、あのこのいのちを弄んでしまった。その原因は学校のお勉強じゃ学べない力が足りなかったからだと思う。」
「後悔しても、自分を卑下しても何も変わらない…。自分の醜さとちゃんと向きあってみないと、自分が何を本当に大切にしたかったのかが分からなくなるんだ。」
――そして何よりも
「最初にあのこに手を差し伸べたとき感じた、純粋に何かを助けたい気持ち
僕はそれを大切にしていきたかったんだ。」
「いろんな人や考え方に触れて、最近やっと分かってきたんだ。」
――まあ、分かるまでに随分、とし…取っちゃったけどね…。
男はそう苦笑うと、また酒をちびりと飲んだ。
「今日は僕の話を聞いてくれてありがとう。不安だったけど聞いてもらったおかげで、やっと前に進めそうだ。」
そう言って男は、相手のおちょこにお酒を注いだ。
あ、そうだ。男はそういって、新しくおちょことお酒を頼んだ。男は運ばれてきたおちょこに酒を注いだ。
窓の向こうには葉っぱに止まった蝉の脱け殻が見える。
「あのこの冥福さ。そして、今まで僕を卑下してきた僕にも…ね。」
男は脱け殻に向かって目を閉じ、そっと…両手を合わせた。
読んでなにかを感じて頂けたら、凄く嬉しいです。
多くの方々に支えられてやっとひとつ書けました。
支えて下さった方々、そして、ここまで読んで下さったあなたに最大限の感謝を!