オマケ付き金曜日
プレミアムフライデー。
余計な理屈を引っこ抜けば、会社員らは月末の金曜日は十五時に退社せよ。という、経済界の団体が呼び掛けているキャンペーンである。
早く帰れるから、週末休みを利用して旅行するもよし。買い物やデートに使うのもありだし。ちょっと奮発して外食なんてのも洒落ている。また、見も蓋もないようで意外と多くの人が選びそうなのが、日頃の疲れをとるべくゆっくりするという選択肢だろうか。
ともかく消費喚起やら色々狙いはあるのだろうが、そんな形で開始された世間の波に、俺の勤める会社も意外な事に乗っかっていた。
普段は残業上等。馬車馬になれ。車輪でも可。を、地で行く我が社にしては、随分と思いきった事をする。
というか。乗ると通知が来たのが今日だった。
一部の上役を除き、他は全員退社。これには周りの同僚も少し驚いていた。
SNS上では一部が「プレミアムフライデー? 何それ美味しいの?」「一部の企業には無縁だ」「無縁なところは稼げるじゃないか」「その利益が還元されるなら喜んで馬車馬になろう。還元されるならな」と、嘆きの声を上げる中、こうして「いいよ。いいよ。皆上がりなよ」と、にこやかに言ってくれるボスがかっこよすぎて、俺には後光が射して見えた。
帰宅準備を済ませ、周りがそそくさと帰るときなんて、未だにディスクに座していたので「ボスは帰らないんです?」と問えば。なんとまぁ彼ときたら周りを見渡し、聞いている人がいないことを確認してから、そっと人差し指を口元に。
「僕は普段楽させてもらってるからね。こんな時位は働くさ」
思わず素敵! 抱いて! と叫びそうになった。いや、俺男だけどさ。
そんな訳でほら帰った帰った。と背中を押され。俺はまだ夕焼けにすら染まっていない空の下に放り出された。
いつもなら、この時間にはもう少し落ち着いているであろう、駅へと続く大通り。心なしかいつもより賑わっているように見えたのは、このプレミアムフライデーとかいうビックウェーブに乗った連中が、思っていた以上にいたことの証明だった。
日本人は働き蟻だ。と何処かで言われていたが、今日だけはキリギリスの方が多いらしい。
「……帰るか」
とはいえ俺は特に予定がある訳でもなく。この場はさっさと帰るの一択だ。
時間的に中途半端なお陰で飯には早い。飲みにも行く気にはならない。この時間から飲んで、七時、八時に酔っ払って帰宅した日には、嫁さんの絶対零度の視線に晒されることは疑いようもない。世間ではそれでもやっちゃう奴はいるんだろうが、俺はそんな危ない橋は渡らない主義だ。
クールだがたまに可愛らしいとこもある妻と、まだ二歳の息子の顔が頭に浮かぶ。帰って家族サービス。それがきっと有意義な使い方だろう。最近は残業だらけ。帰って飯食べて風呂入り寝る毎日。だから今日の俺は家事もやってくれる素敵なパパに……。
※
「あらアナタ。何で帰って来たの?」
残念ながら酔わずに早めに帰宅しても、妻の目は冷たかった。
現実は非情である。いや、でも待ってくれ。酷くない? 「何で」ってわざわざつけなくてもいいではないか。
「プレミアムフライデーだよ」
「……ああ、今朝ウチはどうなるかわからないって言ってた」
「ボスが快く俺達の背中を押してくれたんだ。休みが明けたら前以上に頑張るさ」
あら流石。と、わざとらしく驚いた顔をしながら、妻は俺から鞄と外套をひっぺがす。
「まぁ、ともかく。お帰りなさいアナタ。お風呂にする? 沸いてないけど。ご飯にする? 出来てないけど。それとも私? 拒否するけど」
「酷くない!?」
「だってしょうがないじゃない。帰るなら帰るって連絡してちょうだいな。そしたらせめてお風呂くらいは大丈夫だったのに」
「……あっ」
いかんな。忘れていた。どうもいつもと違う時間に会社を出たからか、そんな当たり前な事も忘れていた事に気づく。
それを見た妻は仕方のない人。と、肩を竦めながら俺をリビングに誘った。
見慣れた家具配置。帰って来たと実感すると共に俺は即席で敷かれた小さなお布団にて眠る宝物、もとい息子に目尻を下げ、思わず「ただいまぁ!」と、叫ぼうとした。……もっとも、それは先手を打った妻の指が、俺の腰にズボッ! と、洒落にならない勢いで突き立てられることで阻止されたが。俺が声にならぬ悲鳴をあげそうになると、妻は俺の耳元に顔を寄せ……。
「今寝たとこ」
有無を言わさぬ低い声。俺は黙ってコクコクと頷いた。
ここで変に反論しないのが夫婦円満のコツである。子育ては殆ど妻に丸投げだし、休日は若さゆえに会社でコキ使われる反動か。疲れて全然動けない。子どもや家事に関することは相談こそ受けても、殆ど決定権は俺にはないのである。
「ご飯食べる?」
「いや、時間的に微妙だろう? お前の都合に合わせる……」
そこで俺に電流走る。そうだ。せっかくの機会ではないか。早上がりのお陰で身体は動く。ならば……。
「あ、なら俺が夕飯……」
「却下。アナタが料理作ると、全部しょっぱいんだもの」
「……い、インスタントラーメン」
「あれを料理と?」
「ごめんなさい」
炒飯なら上手に作れるぞ! と言おうとしたが、以前作ったら具材や油が撒き散らされた台所の惨状を見て、妻の顔が般若になったことを思い出したので、口を閉ざす。
料理は……止めよう。
「じ、じゃあ! 掃除やる!」
「終わりました。というか、アナタがやるとやり残しが出て結局私がやる事になるから……いらない」
グサッ。と、言葉の刃が胸をつく。
いつも家族サービスに掃除やっても、何故か機嫌悪かった理由コレか……。ええぃ。ならば……。
「ふ、風呂沸かす!」
「あら、入るの?」
「いやそうじゃない」
「じゃあまだいいわ。私も入るには早いし」
嫌な沈黙が流れる。うん。ならいらないよなぁ。別に。
時計の秒針が刻まれる。俺は思わず天井を仰ぐ。ちくしょうめ! 考えてみたら十五時って絶妙に中途半端なんだが!?
結局ああでもない。こうでもないと思案して、俺が出した答えは……。
「な、何か俺に出来ることない?」
「椅子に座って大人しくしてて」
「……イエス、マム」
人には適材適所があるんだなぁ。そう思った夕方だった。
ああ、おかしいなぁ。何か目の前が歪んでる……気がした。
すると妻は盛大にため息をつきながら、そのまま台所に立つ。「カフェラテ、どうです?」の言葉に、俺は「ああ」と頷きながら、ノロノロと食卓の席につき、ぼんやりと妻を見つめていた。
付き合いたての頃から綺麗だった黒髪は、今もしっかり手入れされている。小さな頃に教わったという編み込みを髪に入れたりするお洒落さんだったが、今はただ無造作に後ろで縛ったポニーテールだ。
服も結構しっかりしたこだわりのブランドを着ていたが、今はタイムセールで買った地味目の服。家庭に入り。母になった妻がそこにいる。そうしたのは自分な癖に、何だか少し寂しく感じたのは、俺がまだ青いからだろうか。俺ももう、父親だというのに。
「別に特別なことなんてしなくてもいいでしょう? どうしたのよ」
「い、いや……そ、そうだ! ならお出かけとかどうだ?」
「私なんの準備もしてないわ。寝ちゃったあの子も叩き起こせと?」
「うっ……なら……ほら、何かないか? 世間は有意義に時間を使えと……」
「世間に流されるより、自分の船をしっかり漕いでくれる人の方が素敵だと思う」
ぐうの音も出ないとはこのことだった。
妻が操るエスプレッソマシンの音を聞きながら「うぅ……」と、変な声を出す俺。それをチラリと横目で見ながら「変なの。本当にどうしたのよ」と、妻は呆れ気味にそう言った。
何故と聞かれたら、一応理由はある。気づいてしまったのだ。
最近本当に残業の嵐で、たまに自分を歯車か何かと本当に錯覚するほど。まさにお金だけを運んでくる機械と化していたから、今回のプレミアムフライデーとやらは久々の安らぎだった。だが、同時にそれは俺に長い間家庭を省みていなかったことを思いださせた。
だからこそ、今日は父親であり、旦那でありたかったのに……。
「なぁ、お前……俺は」
止めろと内心では思っていても、吐いてしまいそうになる弱音。が、それが出されるその前に、マグカップがコトンと置かれた。
「はい、今日までお疲れ様。……バカな台詞は、これと一緒に飲み込んでね」
いつまでも沈むな。そう軽めに指で俺の額をつついてから、妻は俺に背中を向ける。
行き場もなくなった何とも言えぬ負の感情は喉につっかえそうになり……。
「……あ」
直後、炭酸の泡みたいに弾けて消えた。
妻が最近始めたらしいラテアート。泡立てたミルクのキャンバスには、優しく丸みを帯びた字で、メッセージが描かれていた。
『スキ』
弾かれたように、妻を見る。耳が茹で蛸みたいに真っ赤だった。
カフェラテにオマケ程度に付けられたたった二文字の言葉。
それだけで疲れや陰鬱さなど全部どうでもよくなる辺り、俺はきっと単純な男なのだろう。
オマケ付きの特別な金曜日なんて目ではない極上の温もりは、俺の心をほっこりと暖めてくれた。