狭く明るき
その男は緑深い山の中、草を掻き分けながら注意深く歩いていた。
森の中に造られた街道からは大きく外れ、本来ならば人の寄りつくような場所ではないそこを歩いているのは男の意志ではない。
20代の半ばを迎えるその男は、冒険者家業を始めて10年近くになる、この国では中堅どころ以上と言える存在ではあった。
しかし近頃の長雨によって冒険者家業を休まざるをえず、1週間以上も一つ所に足止めを食うはめになっていた。
それなりの成果を上げ、蓄財もあるためそこまで急ぐ必要はなかったのだが、これまでの習慣もあり何がしかの報酬を得ようと少し依頼の背伸びをしてしまったのが間違いの始まりだったのであろう。
対象となる魔物の討伐には成功したものの、逃げる魔物を追って森の中へと深く入り込みすぎてしまっていた。
これまで男はずっと身の丈をわきまえた依頼を続けていた。なのにどうして今回に限ってこんな依頼を受けてしまったのか。そう後悔の念が頭を何度もよぎる。
日は傾きそろそろ日没を迎えようとしている。
男は焦る。太陽が完全に沈んでしまえば森からの脱出もままならなくなる。
木々が密集しているため不用意に焚火をすることもできず、用意していたランタンも魔物との戦闘の最中に壊してしまっていた。
火を使わずに野宿などしようものならば山に棲む魔物たちからすれば格好の餌食となる。せめて少しでも開けた場所が見つかれば火を起こせるのだが……。
男は新米冒険者のように焦燥を募らせていく。
刻々と暗くなる空、道行を阻む草、降り続いていた雨によりぬかるむ地面。焦れば焦るほどそれらによって足は進まない。
「チクショウ……なんでこんなことに……」
誰に聞かせるわけでもなく独り悪態をつくが、その音は空しく風に揺れる木々の音に消されていくばかり。
チラリと視線を横へ向けると、その先には雨風に晒され風化した槍や鎧の一部が転がっていた。
以前この周辺は大昔の戦場跡であったと聞いていたのを思い出す。残された武具の数々が、戦場で散った戦士たちの墓標のようにも見える。
自身の装備もその仲間入りをしてしまうのではないだろうか。そのようなゾッとする妄想に支配されそうになり頭を振りその考えを追い出そうとした。
草を掻き分け進んでいくと、唐突に視界が開けた。
一瞬だけ街道にでも出たのかと思うもどうやらそうではないようで、眼前に広がるのは道ではなく、地面に大きく空いた空洞だ。
それは巨大な縦穴であった。日が沈んだ森の暗さよりもなお昏いその大穴は、何もかもを飲みこんでしまいそうな空気を漂わせ、男は息をのむ。
こんな所に落ちてしまっては助からないだろうと感じ、その場を離れようとした男であったが、力を込めた足元は運悪く長雨によって酷くぬかるんだ土の上であった。
土に足を取られバランスを崩す。咄嗟に眼前にある木の蔓へと手を伸ばすも、その手は空しく宙を切るのみであった。
男はその瞬間、死を覚悟した。
頬に当たる暖かい陽射しに男は目を覚ます。視界はボヤけるものの、思考は正常を保っている。
そのまま仰向けのまま空を見上げ、男は自分が運よく生き残ったことを悟った。
痛む身体を起こし周囲を見回せば、自身の居る空間が直径20mほどの円錐形のような空間であることがわかった。
男自身はその底に当たる場所へと倒れている。
再び上を見上げると遥か上、縦穴の入り口が見える。よくあそこから落ちて助かったものだと思うが、途中にある木の蔓が何本か千切れているのが確認できた。
あれで落下の衝撃が幾分か和らげられたのであろう。
周囲には登るための足掛かりとなりそうな凹凸は少なく、とてもではないが自力での脱出は困難そうに見える。隅には僅かではあるが水が沸き出ており、少しではあるが燃やせそうな枯れ木も散乱している。
食料は自らが持ってきた保存食が数日分。これだけの物資で誰かが発見してくれるのを待たなければならないであろう事実に愕然とした。
しかしこれに掛けるしか道は残されていないのだ、これが悪い夢でない限りは。
男は「ヨシ」と自身に気合を入れ立ち上がると、共に落下してくれた荷物の点検を始めた。火打石は無事、保存食も無事、と点検をしていると、視界の隅にある影で何かが動いているのを捉えた。
緊張し、腰に挿したナイフをいつでも抜き放てるよう構えていると、その陰から出てきたのは一体の岩で作られた人型のゴーレムであった。ゆうに男の3倍は大きいであろうその姿に強烈な圧を感じるが、どうにも襲ってくる気配がない。
恐る恐る近づくと、そのゴーレムは攻撃の意思はないと言わんばかりに両手を上げ、無骨な作りをした頭を左右へと振った。
そういえばかつては戦場でこのようなゴーレムが多く使われたのだったかと、以前に老人たちから聞いた話を思い出す。
それにしても随分と人間じみた動作をするゴーレムであるものだと男は思う。
兵器として作られたのであればこの様な仕草を仕込む必要などないであろうにと。
「お前は……ずっとここに居るのか……?」
答えを返されることなどあまり期待せず独り言のように問いかけたが、ゴーレムは首を縦に振り返答した。
まるで人のように魂が存在しているようだ、と男は感じていた。
「そうか……」
おそらくはこの一帯が戦場であった頃に、なんらかの理由で男と同じくここへと落ちてしまったのであろう。
「俺と同じマヌケな奴が他にも居たんだな」と言い、軽い苦笑いを漏らす。
「一人で静かにしてたのにスマンな、邪魔するよ。誰かに見つけてもらうまでな」
薄い苦笑いを浮かべながら、更にもう一言付け足しゴーレムへと揚々と語る。
「見つけてもらえなければ一生邪魔するけどな」
遭難から5日が経過した。
此処からは見えないものの、人が通りかかったような気配はない。本当に誰かが見つけてくれるのであろうか、と男は不安を強めていく。
節約しながらではあるが、既に持参した携帯食の数は心もとない。おそらくはあと2日もすれば底を着くであろう。
男は壁へと寄りかかって座り、隣に座るゴーレムへと話しかける。
「お前はいいよな、飯が要らないから。俺はそろそろヤバイと思い始めてきたよ」
そう言い残り少なくなった携帯食を見せる。
それを見たゴーレムは頷き立ち上がると、壁の隅にある水場近くへと向かい、すぐ横にある苔を指さした。
「どした……? ……まさかそれを食えってんじゃないだろうな?」
ゴーレムは静かに頷く。
「本気かよ……? 食えんのかコレ」
再び頷き、水とたき火痕を交互に指さす。
「茹でて食えってのか?」と男が問うと三度ゴーレムは首を上下へと振った。
縦穴に落ちてから幾つかの日を越えた。
壁の柔らかい部分へと短く刻まれた線を見れば、その数は12本に達している。
今日で遭難してから12日目。
持ち込んだ食料はとうの昔に底を着き、ゴーレムに教えてもらった苔と時折迷い込む小動物を狩って飢えを凌いでいた。
以前の長雨が嘘のように天気が良く、昏いはずの縦穴内を明るく照らしている。
もっともこの状態で大雨など降ろうものならば、ゴーレムはともかく男はひとたまりもなく溺れてしまうであろう。
「この天気が唯一の救いか……」
男を始め、この内陸のにある国で育った者たちの多くは泳げない。遭難したタイミングが晴れた時期であったのは数少ない幸運な要素であろうと思う事にし、そこまで信じてはいない神にむけて形だけの印を切って感謝をした。
ここでは食事と睡眠意外にはなにもやることがない。
あるとすればゴーレムとコミュニケーションを取るくらいであろうか。それもほぼ一方通行であり、相手は首を振るか少ないジェスチャーを返すのみではあるが。
「なあ……お前さんどのくらい前にからここに居るんだ?」
この地が戦場であった時代がどれほど前であったかがわかればその質問もしなくてよかったのだろうが、それを思い出せずにいた男はその当時に作られたであろうゴーレムへと聞いてみることとした。
その問いに対しゴーレムはしばし迷ったかのように動かずいると、小さく首を横へと振る。
「わかんねえってことか?」
頷く。その通りであったようだ。
このゴーレムは永い永い時をここで一人で過ごしたのだろう。
ゴーレムにはおそらく寿命というものがない。風化しその形を保てなくなった時が寿命だ。
誰かが引き上げてやらなければこのまま、この狭い場所でその動きを止めていくのであろう。
「寂しくはねえのか?」
その問いに対しての答えを指を使って返す。
その指は問いかけた男に向けられていた。
「……? ああ、もしかして俺が居るから寂しくねえって言いたいのかお前」
ゆっくりと頷く。
「はははは! 嬉しいこと言ってくれるじゃねえか! ゴーレムのくせに機嫌とる才能もあんのかよ!」
男は愉快そうに笑う。体力を温存するために可能な限り動かないようにしていたことすら忘れて。
男は思う、こんなに愉快で温かい気持ちになったのはいったいいつ以来であろうかと。長くこの様な気持ちは忘れていたと。
ガリッ……
男は力なく壁にナイフで線を刻む。
これで20本目。遭難から3週間近くが経過し、ゴーレムに教えてもらった苔も食べつくした。
小動物も異常を察したのか近寄らなくなり、散らばっていた枯れ木もそのほとんどを薪として消費し尽くしてしまっていた。
男は思う、ここが自身の墓場になるのだろうと。
落ちてからずっと脱いでいた装備は再び身に着けている。死ぬときは冒険者らしいままの姿で在りたいと願って。
それが男自身の冒険者としての矜持であるためであろうか。
変わらず隣に座るゴーレムは顔を男へと向ける。表情などないため判らぬが、心配をしているのか。
「すまねーな……。またお前に寂しい思いさせちまうかもしれねえ」
その声には以前のような力強さは感じられない。
「でも助かったよ。お前がいなけりゃもっと早くに死んでたし諦めちまってた」
そうなのだろう。食料の問題だけではない、言葉を返さぬゴーレムの存在が、男を支えていた。
会話をする相手の存在が男に生きるための活力を維持させていた。
ゴーレムはその大きな手を男の手へと当て、ゆっくり……優しくさする。
石でできた手は冷たくも温かい、そう男は感じた。
「こんな因果な商売してるんだ……いつ死んだっておかしかないさ。きっとどっかで魔物にでもやられてのたれ死ぬんだろうって」
「それがまさかこんな形で……しかもゴーレムに看取られるなんてな……」
「でもよ……お前が見送ってくれるなら……それも悪くない」
ゆっくり、ゆっくりと男は物言わぬゴーレムへと語りかける。
自身の生きた痕跡を残そうとするかのように。
その言葉をゴーレムはただひたすら聞き続けていた……。
ゴーレムは壁へと寄りかかったまま空を見上げていた。
数日の間降り続いた雨は見事にあがり、焼けつくような日差しを向けている。
ゴーレムは視線を足元へと移すと、そこには風化し今にも崩れそうな部分鎧が転がっていた。
どれほどの月日が経過したのか、残されたのは男が愛用していた鎧とナイフのみ。男の遺骸は死後ゴーレムの手により縦穴の中にある少ない土へと埋められた。
再びゴーレムは一人となっている。
過ごしてきた永い年月からすれば男と過ごした時間は一瞬だ。元の一人きりな昏い縦穴へと戻っただけだ。
ゴーレムはそれでも毎日のように見つめ続ける。今もうっすらと壁に残されたナイフの傷を。残された鎧を。毎日、毎日。
足下へと視線をやり続けるゴーレムは、頭上から静かな重い音がするのを感じた。
見上げるとパラパラと小石や土が落ちてくるのが見える。
地滑りだ、長雨によって緩んだ地面が木々を支えきれなくなったのであろう。
徐々に落ちてくる石も大きくなり、次第に木や岩が落下してくる。
足下にある鎧は既に土砂に埋まり、ゴーレムの身体も既に半分近くがかくれてしまった。
上を見上げるゴーレムの視界に、大きな岩が映る。流れる土砂が運んできた大岩が。
真っ直ぐゴーレムに向けて落下してくる大岩を見ながら、ゴーレムは声に出せぬまま思った。
嗚呼……ようやく終われるのだ、と。
死亡ルート的な