2. 帝国の皇子達(5)
十五になる帝家の末姫は、白っぽい金髪に翡翠色の大きな瞳をした、中々に愛らしい姫であった。物心付く前に母を亡くしていたが、父である皇帝には溺愛されて育った。末姫以外の七人の子等に対し、この皇帝が父親として接した事など皆無に等しかったというのに.......。寵姫の産んだ娘だからか、それとも皇帝も年老いたという事なのか.......、娘を愛でる皇帝の姿に、周りの臣達は影でそのように取り沙汰する。
だが実際に末姫は、幼い頃より人見知りをする事も無く誰にでも可憐な笑顔を振り撒いたので、多くの者達に愛された。
「エドキス兄さま、アルディス兄さま」
兄弟の私室に、愛らしい顔がひょっこりと現れた。長椅子で私的な書簡に目を通していたエドキスは、溜息を一つ零して妹の顔へと目を向けた。
「またお前か。何の用だ?」
にこりともしない兄に、それでも末姫ラモーナは屈託無い笑顔を見せる。
「この処、ちっともお会い出来ないから、来てしまいました」
窓辺の長椅子に足を投げ出して本を開いていたアルディスは、微かに笑みを見せていたが、エドキスはと言えば、苦々し気な表情に拍車をかけたまま再び手元の書簡に目を落とす。
「十日程前に、会ったと思うがな」
「あら、十日も前よ、エドキス兄さま。しかも歩廊ですれ違っただけですわ」
「充分だ」
エドキスの冷たい言葉に、ラモーナの愛らしい笑顔が微かに翳る。
「たまには一緒に夕餉をと思って、お誘いに来たのよ、お兄様方」
「お前はいつも陛下と共に夕餉を摂るだろうが」
「ええ、だからお父様もよ」
「冗談だろう...」
エドキスは、年齢よりも幼く見える妹の笑顔を見上げた。
「お前は、本当に帝家の人間とは思えないな、末姫」
ラモーナはきょとんと首を傾げた。
「私達に、家族の真似事でもしろって言うのか?」
「エドキス」
エドキスの棘のある言葉を、アルディスが咎めた。
「陛下の夕餉の相手は、お前一人いれば充分だ。その方が陛下も喜ぶさ」
「エドキス兄さま....」
「用が済んだなら出て行け。それから、十五にもなって供も連れずに男の部屋にずかずか入って来るんじゃない。分かったな、末姫」
「....はい...、ごめんなさい、兄さま..」
ラモーナはしゅんと萎れて、とぼとぼと部屋を出て行った。その背を見送りつつアルディスは立ち上がると、エドキスを睨んだ。
「どうしてお前は、いつも末姫に冷たいんだ?」
「私は、ガキが嫌いなだけだ」
「....」
悪びれもせずに答えるエドキスを忌々しく思いながら、アルディスは素早く身を翻すと妹を追って部屋を出て行った。
哀れな程がっくりと肩を落として歩いているラモーナを捕まえると、アルディスは小さな肩を抱き寄せた。
「気にするな、ラモーナ」
「エドキス兄さまは、私の事がお嫌いなの?」
泣きそうな顔で見上げて来るラモーナが哀れになる。
「エドキスは、ああいう性格なんだ。誰にでもああだ。お前にだけじゃないから、気に病むな。部屋に来たかったら、好きな時に来ていいんだぞ。エドキスが何か言ったら、俺が来いって言ったって言え」
アルディスに頭を撫でられ安心したのか、ラモーナ姫は笑顔を取り戻した。アルディスは、妹姫の屈託も無い話に合づちを打ってやりながら部屋まで送り届けると、自室へと戻った。
アルディスが部屋へ戻ると、エドキスが皮肉気な瞳を容赦無く向けて来た。
「又、部屋まで送ってやったのか?」
「ああ」
「全く、甘やかし過ぎだ。十五にもなりながら、まだてんでお子様じゃないか。あんなんで、政略の材料になるか」
「いいじゃないか、あれはあれで可愛い」
「やれやれお前まで、呆れたもんだ」
「もう少し、優しくしてやってもいいんじゃないのか?泣いてたぞ」
「無理だな、私はあの姫が嫌いだ」
だが、その理由をエドキスは口にはしなかった。アルディスもそれ以上は何も言わず、ただ溜息を吐いたまま先程の本を手に取ると、長椅子に戻って再び繙き始めた。
夕暮れ時であった。独りになりたくて、供も連れずに彼は帝城の広い敷地内を歩いていた。昔よく通った早道を選び、懐かしい場へと辿り着いた。
長らく使われる事の無かったその離れの館は、うらぶれた感が否めなかったものの、そのこぢんまりとした庭園だけは、驚いた事にあの頃と変わらず、今でも美しい花々が処狭しと咲き誇っていた。まるで、あの頃に時が戻ってしまったかの様な錯覚さえ受ける。
初めてあの儚気なシルキアの姫に出会った日の光景が、エドキスの脳裏にまざまざと甦る。あの細い歌声が、哀し気な旋律が、甦った。シルキアの姫が亡き人となり、彼女の忘れ形見を自分の手元に引き取ってからは、ついぞここへ来る事は無かった。あれから十年以上の月日が流れた。未だ自分はあの姫の面影に囚われているのかと思ったらおかしくなり、エドキスは独り自嘲的な笑いを漏らした。
ふと末姫の事が心に浮かんだ。なぜ冷たくするのかと、アルディスに詰られた。誰あろうアルディスに責められた。確かに子供じみた真似である事は自覚している。末姫に罪は無い。罪深いのは父である皇帝だ。もしも....、とエドキスは考える。もしも皇帝が末姫と末姫の母を思う心の内の五分の一程でも、ルウィーラとアルディスを気遣ってくれていたら、ルウィーラは気が触れる事も無かったかもしれないと......。だがそれも、今更口にしてもせんない事だ。
エドキスは、時折花に触れながら歩いた。
ここ数年、大陸には再び不穏な空気が流れていた。その一端を担っていたのは、無論この帝国であったのだが......。
(又、戦が起きるのだな......)
皇帝は、以前から北国メインデルトの地を手に入れたがっていた。その為、メインデルト王女とエドキスとの政略的な結婚が画策されて来たのだが、メインデルトはあの手この手でそれを拒み続けた。それ故エドキスは、二十五を過ぎて尚、一人の妻も娶ってはいなかったのである。
東の地で戦の避けられない事変が起こると、帝国からも再びのんびりとした風潮は拭い去られた。皇帝が今日明日にでも、メインデルトへの遠征を命じたとしてもおかしくは無くなって来ていた。そして侵略の暁には無論、王女はエドキスが娶らされる事になるであろう。
「冗談では無いっ」
エドキスは、吐き捨てた。
「ルウィーラ姫と同じ境遇の姫など、冗談にも程がある」
知らず知らずの内に、手が近くの花を鷲掴みにしていた。皇帝が正式に命を下したとしたら、自分は従うしか無いだろう。それとも国も身分も捨てて、何処かへ逃げるか.....。たかが、意に染まぬ婚礼の為に総てを捨てるなど、馬鹿馬鹿しい。
独り苛立ちながら花を握り潰していると、ふと人の気配を感じた。エドキスは不思議に思い振り返ると、恐らくは庭師であろう、年老いた男が庭ばさみとバケツを手に現れた。庭師の方でも、ここに誰かいるなどとは予想していなかったと見え、エドキスの姿を認めると酷く驚いた様子で慌てて深々と頭を下げたが、まさか皇子だとは思わなかったのだろう、さっさと己の仕事に精を出し始めた。エドキスは暫くの間、その庭師の様子を目で追っていた。雑草を抜き、涸れた花を摘み、植え込みの伸び過ぎた部分を綺麗に刈り、庭師は黙々と働いていた。
「主のいないこの庭園を、お前はずっと世話してきたのか?」
突然話しかけられ、庭師はびっくりした様に顔を上げた。そして、“はい”と頷き答えた。
「何故だ?愛でる者もいないのに」
「主がおらなんだとも、愛でる方がおらなんだとも、花や植木達には罪はございません。ここに植わっているなら、世話をしてやらにゃあ、可哀想です」
「.....そうか..」
エドキスは、微笑んでいた。それは、いつもの彼特有のあの皮肉を帯びた笑みなどでは無く、滅多に人に見せる事など無いであろう、純粋な微笑みであった。
「お前に礼を言おう。この庭園をずっと世話してくれて、本当に忝い」
それは、彼の心からの言葉であった。庭師は、顔をくしゃくしゃにして笑顔を見せると、再び深々と頭を下げた。
北国メインデルト遠征の件が決議され、皇帝が正式にエドキスに命を下したのは、それから数日後の事であった。
「こうなるとは思っていたが、こんな時期に、よりによってメインデルトとは、鬼の様な父だな」
アルディスと共に私室へ戻るやエドキスは軽く毒突いた。
「メインデルト.......」
アルディスは、ぽつりと呟いた。
(よりによって、メインデルトとは......)
彼の脳裏に、金色のふわふわの髪をした幼い少女の面影が甦った。
「でもって、あの王家の男子を一掃した暁には、私にあそこの王女を孕ませる権限が与えられるってわけか」
エドキスは、皮肉気に口を歪ませ、低く笑った。
「全く冗談じゃない。あそこの王女は、男装で剣を振り回す様な姫だと聞いている。いつ寝首をかかれるか分からないじゃないか」
エドキスは、二つの銀杯に葡萄酒を注ぐと片方を弟へ手渡した。アルディスは、杯を受け取ると、長椅子に座り背を預けた。
「侵略して滅ぼしたら、エドキスが王女を娶るのか......」
アルディスは、まるで独り言の様に呟いた。
「ああ、攻め滅ぼす事が出来たらな。すると私は、お前の母と同じ境遇の女を妃にしなければいけなくなるわけだ」
「何故王女の後見人が俺なんだ?何の力も無い俺を付けて、何の意味があるんだ?」
「戦利品に力ある後見人など必要無いって考えだろう、お前の母がそうだった様に....」
エドキスは皮肉気な笑みを浮かべたまま、アルディスから目を背けた。
その後、間も無くして、兄弟は軍を率い帝国を後にする。二度と故国へは戻れぬ事も知らず........。
2. 帝国の皇子達 終