2. 帝国の皇子達(4)
アルディスは王女の天幕の中にいた。寝台に横たわる王女の首の白い包帯が目を射る。昨晩王女は、敷布を裂いて首を括ろうとしたという。
「呆気無く失敗したな」
王女は無表情なアルディスの顔へと虚ろな瞳を向けた。敷布で縄を縒ろうとも、こんな天幕の中で首など括れる筈も無いのだ。それでも王女はそれを実行に移し、夜更けに天幕を半壊させたのだ。王女は、その日の内に寝台の中で舌を噛み切った。
「又か?昨日の今日ではないか」
エドキスは、眉間に深々と皺を寄せた。
「発見が早かったですのですぐに止血致しましたが、恐らく満足に口をきく事は最早....」
「だろうな」
第四皇子の冷たい反応に、側近のブラコフは口を噤む。
「明日は予定通り出発する。妹姫の一件といい、あの姫の騒ぎといいで帰還が遅れている。これ以上遅らせるわけにもいかん」
「御意」
ブラコフが辞すると、エドキスは銀杯に葡萄酒を注ぎゆっくりと傾けた。アルディスは先程から、いるのかいないのか分からぬ態でエドキスの寝台に寝そべったまま黙りこくっていた。
「舌を噛み切って死ねるとでも思っていたのか、愚かな姫だ」
「あの監視の中じゃ、自害を試みる端っから見付かるだろうに....。それこそ真夜中にでも舌のかわりに己の手首でも噛み切ってれば成功したかもしれないのにな....」
「縁起でも無い事を言うな。死なれたら実際厄介だ」
「戦利の姫を娶るのは、嫌なんじゃなかったのか?」
「ああ、虫酸が走る程嫌さ。だが政なら致し方無かろう?」
「.......」
戦で滅ぼした国の血筋を娶る事は、その時代ごく普通に行われた事であった。そうしてその亡国の正統な支配権を主張し、亡国の民の感情を何とか和らげようとしたのだ。だが、戦利の証とされる姫君達にとっては血を吐く程に辛い事であろう。一族を死に至らしめた男のものにされ、子を産む事を強要されるのだ。アルディスの中で、女の狂気を帯びた呪詛の声が甦った。この自分を産み落とした女の気の触れた声が、帝家の血を引く息子に向かって帝家の血を呪う。そんな母を哀れみこそすれ、怨んだ事など一度も無い。あまりに弱過ぎた母は、いとも簡単に己の世界へと逃げ込んだ。
王女の為に馬車の中には俄造りの寝台が設えられた。王女は移動の間中その寝台に横たえられ、野営の天幕が張られると衛兵に抱え上げられて天幕の寝台へと移された。
アルディスの足は、何となく王女の天幕へと向かっていた。王女は目覚めているというので中へ入ってみると、寝台の傍らにいた侍女が彼に頭を下げ、王女が薬湯を飲まないと言って困惑顔で訴えてきた。
「何故飲まないんだ?飲まなければ死ねるとでも思ってるのか?」
横たわる王女は、アルディスを見ようともしなかった。
「噛み切った舌の痛みが長引くだけだろうに...。死に結びつく程のもんじゃ無いと思うがな。そもそも、舌を噛み切った位で死ねるとでも思ったのか?」
王女がぴくりと反応し、僅かに顔と瞳だけを動かしてアルディスを見た。恐らく死ねると思ったのだろう。
「浅はかだったな。舌を噛み切った位じゃ人間は死ねない。只、満足に喋れなくなるだけだ」
王女の唇が震え、悔し気な瞳からは涙が溢れた。アルディスは寝台に歩み寄り腰を下ろすと、王女を抱き起こした。彼女は嗚咽を苦し気に堪えながら、弱々しく抗った。
「取りあえず、薬湯を飲んだらどうだ。拒むなら口移しで無理矢理飲ませるぞ」
言いながら寝台脇のテーブルから薬湯の椀を取って王女の前に翳すと、王女は泣きながらその椀を取って口を付けた。ほんの二口程飲み下すと、王女は嗚咽を堪えきれなくなったのか、寝台に突っ伏した。アルディスは椀を傍らの侍女に手渡すと、王女の震える肩に掛布を掛けてやった。
その翌日、アルディスは一行と共に森の中で馬をゆるく駆けさせていた。すぐ傍らにはレイクが馬を走らせている。エドキスとブラコフは、ずっと前の方にその背が見て取れる。木々の間を縫って陽が差し込んでいるその処どころに、鮮やかな蒼い花が咲いていた。アルディスは先程から横目にその花々を眺めながら馬を駆けさせていた。恐ろしく鮮やかな、目を引く色であった。その毒々しい色はアルディスの目前に、フェリスの王女の身も心も憔悴し切った顔を散らつかせる。あの花を人知れず贈ってやったら、あの王女は喜ぶのだろうか......。いや、恐ろしい苦痛を伴う死を怨まぬ筈が無いだろう.......。
昼餉の休憩の為に馬車が止められた。
「さあ姫様、少しお外の空気をお吸いなされませ」
侍女の一人がそっと声をかけると、沢山のクッションに身体を預けていた王女は、微かに頷き半身を起こそうとした。侍女達はすかさず手を貸し、王女を抱き上げる様にして馬車から助け下ろすと、すでに表に用意されていた敷布のクッションの上に王女をそっと座らせた。無骨な軍兵達の目からこの異国の王女を隠す様に、辺りには申し訳程度の布が張られていた。
王女は、無言のままその身に許された景色を眺めていた。紺碧の瞳の辿るのは、鮮やかな蒼色の嵶やかに揺れる美しい花であった。間も無くして舌の半分を失った王女の為に調理されたスープが運ばれて来た。すでに冷たく冷まされている。舌の傷の完全に癒えない王女には、固形物も、ましてや熱いスープも拷問でしか無かったであろう。王女は、殆ど味のない冷めたスープを年配の侍女に促されるままに、素直に口にした。舌を無くした為に、時折口の端から零しながら.....。
「ようお召し上がりになりました、姫様。上出来ですよ。何ぞ甘い物でもお持ち致しましょうか?」
珍しくスープの半分以上を胃の腑に納めた王女に、侍女達は破顔して尋ねるも、王女は静かに微笑み微かに首を横に振った。そして王女はぎこちない仕草で立ち上がった。
「姫様?如何されました?」
慌てて王女に手をそえる侍女に、王女は片手を上げて鮮やかな蒼い色を指し示した。
「あの花々をご所望ですか?」
歳若い侍女の問いに、王女は微笑みと共に頷いた。侍女達はその花の元に敷布とクッションを移してやると、王女をそっとその場へ座らせてやった。
「まあ、綺麗な花ですこと。帝国では見た事も無い花だわ」
「真に....、わたくしも初めて見ました。何て鮮やかな色なのでしょう」
「姫様のお国では、ごく普通に見られる花なのでございましょうか?なれば幾株か持ち帰って、帝都にも咲かせましょうか?もしも姫様のお気持ちをお慰め適うならば...」
指先でそれらの花を愛でながら、王女は微笑み頭を横に振った。
「真でございますか?姫様の漆黒の御髪には、その鮮やかなお色はとても映えますのに」
一番年若な侍女が笑顔で言うや、手をついと伸ばしてその花を数本手折ると、まとめて王女の黒髪の元にそっと翳した。背に垂らした王女の張りのある絹糸の様な黒髪に、その鮮やかな蒼い色は確かに良く映えた。
「まあ、真に良くお似合いになりますこと。姫様の艶のある黒い御髪には、大抵の色は映えましょうとも、殊、鮮やかな蒼い色の何とお似合いになる事でしょう」
「やはり幾株か持ち帰りましょう。こんなに愛らしいお花ですもの。まるで一つ一つのお花が小さな鐘の様ですわ。帝都に着いたらエドキス様にお願いして、早速この様な色のお衣装を誂えて頂きましょう。そしてこのお花を御髪に飾ったら、さぞかしお似合いになりますわ、姫様」
敵国の女達の言葉に、口をきかぬ王女は微笑むだけであった。
やがて侍女等が立ち上がり出立の為の準備を始めた時、亡国の王女は侍女等の目を盗んで件の蒼い花を懐に隠した。
その晩、アルディスはいつまでも寝付く事が出来なかった。脳裏に散らつくのは、あのフェリスの王女の哀れな姿ばかりであった。鏡の欠片の深々と食込んで深紅に染まっていた掌....、細い首にくっきりと残った赤黒い縄の後....、そして...、舌を噛み切り言葉を失った絶望の表情。出来る事ならば死なせてやりたかった。フェリスの王女としての誇りと共に、死なせてやりたいと思った。
アルディスは観念して暗闇の中を起き上がった。傍らの愛剣を手に取り天幕を出ると、眠そうな衛兵達が咄嗟に居住まいを正した。
「眠れない。その辺を散歩して来る」
「なっ、なれば殿下っ。お供仕ります」
「必要無い、すぐに戻る」
「しかし、こんな夜更けです、殿下。何が起こるか分かりません故、それに、その様なお姿では....」
アルディスは鎖帷子も着けてはいない姿である。寝ずの衛兵達が良い顔をしないのも当然と言えば当然であろう。
「好きにしろ」
アルディスは小さな溜息と共に言うと、何処へとも無く歩き出した。野営の篝火が所々に燃えていた。エドキスの天幕を守る兵達が、アルディスの姿に気付き姿勢を正す。これと言って驚いた態でも無かった。第五皇子の気紛れなど別段珍しくも無い。取りあえず後ろに二人の兵達が付き従っているのを見て、口を開く事は差し控えた様である。
アルディスは長剣を片手にぶらりと歩き、やがて足を止めて木々に切り取られた夜空を眺めた。月が明るく、星が瞬いていた。
「明るいな...」
ぽつりと呟いてみた。
「はい、今宵は満月です故、殿下」
兵の一人が朗らかに答えた。
「そうか....、そう言えばそうだったな」
「月が痩せ細る頃には、帝都ですね、殿下」
その言葉に、アルディスは気の無い返事を返す。
「嬉しく無いんですか?殿下」
「いや...、そんな事は無いが...」
微かに驚く気配を見せた兵達に、アルディスは言い淀む。本心では、嬉しいなどとは感じられなかったのだ。このまま何処かへ出奔してしまいたい気もする。総てをかなぐり捨てて、何処か遠くで傭兵家業でもしながら気ままに暮らすのも良いかもしれないと、幾度考えたかしれない。それを実行に移さないのは何故だろうと、アルディスは改めて考えてみる。エドキスのせいであろうか.......。
「お前達には、故郷に待たせている者達がいるのか?」
アルディスが、何とはなしに尋ねてみると、二人とも嬉しそうに頷いた。
「女房と、六歳になる息子がおります」
「私は、母と妹が」
「そうか....、さぞ、お前達の帰還を首を長くして待ってるんだろうな」
アルディスは微かに微笑んだ。
そんな夜更けの和んだ雰囲気を突如、女の甲高い悲鳴が遮った。三人の男達は、同時に息を呑んだ。真っ先に駆け出したのはアルディスであった。フェリスの王女が、又自害を企てたのだと確信した。
「御医師をっ!早うっ!!」
王女の天幕の前で、侍女が叫んでいた。駆けつけたアルディスは、その侍女の腕を荒々しく掴んで問い詰めた。
「姫様のご様子が、ご様子がっ!」
動転する侍女の言葉は、要領を得ない。アルディスは素早く王女の天幕に飛び込み、獣脂の蝋燭の灯りに浮かび上がるその光景に目を見開いた。寝台の上の王女は、酷く悶え苦しんでおり、白い夜着の胸元や袖口、そして掛布に紅い色が散っていた。両側から侍女達が叫びながら、酷い苦しみ様の王女の背を必死に擦っていた。
「どうしたんだっ!?」
アルディスの詰問に、しかしこの二人の侍女等も同様に動転しており、年若な侍女の方は既に泣き出していた。アルディスの脳裏に、昼間見たあの鮮やかな蒼が思い浮かんだ。
「どけっ!」
アルディスは二人の侍女達を押しのけると、王女の身体を後ろから掴んだ。
「あの花を食ったのかっ!?馬鹿な事をっ!吐けっ!吐くんだっ!!」
血相を変え叫びながら、苦しむ王女の血を垂れ流す口に己の指をつっこもうとしたアルディスに、突如王女は抗った。弱った王女の、死の苦しみの中の王女の、何処にそんな力が残っていたのか.....。呼吸もままならぬ態で血反吐を吐きながら、王女は苦しみに濡れた濃紺の瞳でアルディスを見上げ首を振る。その口が不明瞭な音を紡ぐ。
「い..あ....え........え........」
王女は、ぶるぶると痙攣する腕を伸ばしてアルディスの胸元を掴み、縋り付く。
「お..え...が....い.......」
王女の紅く染まった口は、それらの音を幾度か紡ぎ出すと、再びごふりと血反吐を吐き出した。
シナセテ......オネガイ........
寝台の隅に、あの花の茎と毒々しい鮮やかな蒼い花びらの欠片が落ちていた。南国では、珍しくも無い毒花であった。俗に“シェルシアータ(美の女神)の吐息”との名で呼ばれるその猛毒花は、あまりの苦しみをもたらす為に、フェリスなどでは極悪人の処刑に用いられるという毒花である。その事をフェリスの王女が知らぬ筈は無かった。全身を炎で焼かれるよりも尚恐ろしい苦しみを味わう事になると知りながら、王女がそれを飲み込んだのかと考えたらアルディスはいたたまれなくなった。敵の胸に縋り付きながら、死を懇願する王女が哀れであった。身も心もぼろぼろになり、血反吐を吐き散らしながら呼吸も満足に出来なくなっている王女が、あまりに哀れであった。アルディスの片腕は、酷く痙攣している王女の肩を抱き寄せていた。
「分かった....、今すぐ楽にしてやる....」
アルディスは王女の耳元に囁くと、苦しむ王女をそっと寝台に横たえた。その時、彼の瞳から雫が一滴王女の頬に落ちた事に、彼自身気付いていたであろうか...。そして彼は剣を抜いた。アルディスに付き従っていた兵等が仰天して声を上げたが、アルディスは聞き入れはしなかった。この王女を殺す事によって生じるであろう問題など、どうでも良かった。咎めを受ける事になろうが、かまわなかった。ただ哀れな王女を、これ以上苦しませるのが忍びなかったのだ。アルディスは王女の急所を定めると一気に貫いた。侍女が一人、気を失い倒れ込んだ。
王女は心の臓を一撃に貫かれ一瞬の後に動かなくなった。ただ、その口元が確かに、“ありがとう”という形に動いたのを、アルディスは見逃しはしなかった。
フェリス王女殺害について、アルディスは何の申し開きもしなかった。エドキスに状況を説明したのは、王女に付けられていた侍女達と、アルディスに付き従っていた二人の衛兵達であった。
「全く....、お前には呆れる。王女を哀れんで殺したか?滅ぼした国の者達を、いちいち哀れんでどうする?馬鹿者が」
エドキスは声を荒げる事はしなかったものの、苦々し気な表情で弟を詰った。
「いつまでそんな“甘ちゃん”でいるつもりだ?」
アルディスは、一言も発する気は無いのか、ふいっとそっぽを向いた。エドキスは苛立たし気に息を吐いた。
そして、月の女神の姿が細くやせ細った頃、エドキス率いる軍隊は帝都に帰還した。
フェリス王国の姉姫の死の真相は、エドキスにより巧妙に隠され、毒花摂取による自害として片付けられた。エドキスは、事の真相を知る者達に対し箝口令を敷いていた。
『事の真相が洩れた時には、お前達全員の命は無い物と思え』
第四皇子の酷薄な瞳に睨みつけられた三人の侍女達と二人の衛兵達、そして医師達は、文字通り震え上がった。帝家の皇子達の中で、一番残虐な気質を持つ皇子として怖れられている第四皇子である。事が洩れれば、本当にその場にいた者達は皆消されるのだろう。口封じの為にその場で消されなかっただけましであると、その場の誰もが考えた。
帝都帰還後、三人の侍女達はその責任を問われ謹慎処分に処されたが、その内の一人は精神的な打撃が大きかったらしく、そのまま城を辞した。
クルトニア帝国滅亡の、僅かに二年前の出来事であった。