2. 帝国の皇子達(3)
後の歴史家達は口を揃えて唱える。それがクルトニア帝国の転換期であったのだと。長きに渡って強大な力を持ち続けた帝国の終焉は、その時既に垣間見えていたのだと.....。
野営の準備の為に、兵達がここかしこで忙し気に動き回っていた。そんな中を青年が一人、ぶらりと歩いていた。青年の姿に気付き即座に姿勢を正す者もあれば、青年が脇をすり抜けるのに全く気付かぬ者もあったが、どちらにしろその青年は気にも止めはしなかった。鎖帷子の上に着込んだチュニックの、金糸銀糸の豪華な刺繍が彼の身分を物語っていたにも拘らず、青年は一人の供をも連れずに歩いていた。そんな事は珍しくも無かったのであろう、青年の姿に気付いた兵卒達も、敬礼をするとすぐに又手を仕事へと戻す。
兵達の喧噪の間を擦り抜けると、青年はふと立ち止まり空を仰いだ。木々に切り取られた空は、黄昏の色に染まっている。彼は、適当な木の根元に腰を下ろすと凭れ掛かった。額にかかる団栗色の髪を掻き揚げ、影のある瞳を閉じた。
又一つ、国が滅びた。
皇太子シルキア公ロスシールド率いる帝国軍は、南国フェリスを攻め滅ぼした。恐るべき勢いと言えば確かにそうであったのだろう。帝国はこの終焉へ来て、まるで運命の女神シェリアスに抵抗しようとでもするかの様に、周辺諸国を蹂躙した。後世、帝国最後の皇帝と呼ばれる事になるスルターク五世の御代、この大陸の地図がどれ程塗り替えられた事であったか....。
「殿下〜っ!アルディス殿下〜っ!」
少女の様な高い声が己の名を叫んでいる事に気付き、彼は瞼を上げた。アルディスは、木に背を預けたままふと微笑んだ。あの小動物の様な小姓は、あとどれ程でこの自分の姿を見つけ出すであろうか.....。アルディスは返事を返す事も無く、再び瞼を閉じた。
やがてばたばたと慌ただしい足音が近付いて来る。
「殿下っ!」
やれやれ、ようやく見出されたかと思いつつ、アルディスは片目を開けてこちらに駆けて来る痩せっぽちな小姓を見た。
「もう...、一言仰って下さいっていつもお願いしてますのに....、突然姿を消さないで下さい、殿下」
眉間に皺を寄せて訴える自分付きの小姓の表情に、アルディスは苦笑する。
「お前は過保護だな、レイク。俺がいない時は、お前も休めば良いだろうに....」
「そんな分けにはいきませんよ、殿下」
「何故だ?」
「だって、殿下のお世話をさせて頂くのが、僕の務めですもの」
「世話が必要な時は、こっちから言うさ。取りあえず、お前も座って休め」
「そうもいかないんです。エドキス殿下が殿下の事を捜しておられましたので」
「そんなの、後でいいさ」
「そうはいきませんよ、殿下っ!僕が叱られるじゃないですかっ!」
レイクの情けない表情に、アルディスは再び苦笑を漏らす。やれやれと呟きつつ、アルディスは腰を上げた。
レイクを従え歩くアルディスの耳に、女の叫び声が聞こえた様な気がした。足を止めた主に、少年レイクは不思議そうな顔を向ける。
「殿下?」
「聞こえたか?今の叫び声」
「えっ?」
アルディスは、足早に歩き出す。
「でっ殿下!?」
レイクは慌てて後を追う。
間も無くアルディスとレイクは、兵卒達の天幕よりも心持ち大きな天幕の前に立っていた。女の叫びが再び聞こえた。こんな野営の場にあって、果たしてそれは似つかわしくは無い声であったのか...、それとも鬼気迫る女の金切り声はその場に似つかわしかったのであろうか....。すでに騒ぎを聞き付け何事かとその天幕の辺りを取り囲んでいた兵達が、アルディスの姿に気付くと次々に道を空けた。アルディスが天幕の幕をはぐりレイクを従え中へと踏み込むと、暴れるうら若い女と、それを取り押さえようとしている者達の姿が目に映った。
「殿下っ!お助け下さいっ!」
アルディスに気付いた侍女達が蒼白な顔で泣きついて来た。二人の衛兵に両側から腕を掴まれ叫ぶ女の手は血に塗れており、鋭い何かをきつく握り締めていた。恐らくは鏡の破片であろう、地面に敷かれた敷物の上に割れた手鏡が落ちている。
「好きにさせてやったらどうだ?」
「アっ、アルディス殿下っ!?」
レイクが狼狽えた声を上げた。暴れていた女の動きが一瞬止まり、虚ろな瞳がアルディスの姿を捉えた。
「しっ、しかし、王女は自害を」
衛兵の一人が、実直そうな顔を困惑に歪めながら言う。
「させてやればいいだろう、尤もそんなもんじゃ息絶えるまで長くかかるだろうがな」
侍女達が息を詰めて見守る中を、アルディスは王女へと歩み寄った。
彼女の抜ける様な白い肌と濡れた濃紺の瞳、そして何よりその漆黒の髪は異国情緒に溢れていた。帝国に無惨にも攻め滅ぼされた南国の王女は、兄である第四皇子が娶る事となっていた。結局、北国メインデルトの王女との婚姻話が上手くまとまらなかった第四皇子も、もう間も無く二十四の年を迎える。第四皇子はこの王女との婚姻と共にフェリス公の称号を与えられる事になるだろう。
「放してやれ」
帝国の末の皇子の命に、王女の腕を捕らえていた衛兵の手が緩んだ。その事に戸惑ったのか、王女は身動きもしない。天幕の隅では、侍女達が蒼白な顔で手を取り合ったまま様子を伺っている。
「どうした?自害したいんじゃ無いのか?」
感情の削ぎ落とされた皇子の声に、王女がびくりと身体を震わせた。その深く蒼い瞳に憎しみの炎が瞬いた。王女の華奢な身体が突然動いた。血に濡れた手が振り上げられたかと思うと、紅い色が散っていた。侍女達の甲高い悲鳴が再び起こった。
「殿下っ!」
レイクがアルディスに駆け寄った。衛兵達の腕が再び王女を拘束していた。
「大丈夫だ、レイク」
「でっ、でも」
血に濡れたアルディスの頬に、レイクは慌てて手巾を取り出して心配そうな面持ちで差し出す。アルディスは、素直に手巾を受け取ると無造作に頬を拭った。拭われた血の下から紅い線が現れ、そしてそこから又血が流れ出す。
王女の憎しみに占められた瞳は、アルディスの頬を濡らす血を見詰めていた。アルディスが促すと衛兵達は渋々と王女の腕を放し、ほんの数歩だけ下がった。それとは反対にアルディスは王女に歩み寄ると、後退ろうとするその腕を取った。
「放してっ!汚らわしいっ!」
「なら、その破片を離せ」
フェリス語で叫ぶ王女に、アルディスも又フェリス語で返した。アルディスに取られた細い腕に更に力が篭った。鏡の破片をしっかりと握り締める小さな拳を染め上げている深紅は、その手首をも染め衣装の袖口をも染めている。そしてアルディスの手をも紅く染めた。
「あまりきつく握り締めると、手指の筋を切断するぜ。そうなれば手が利かなくなるだろう。利き手が物も握れなくなれば、自害するにも支障が出るだろうな」
抑揚の無いその言葉に、王女の手からふと力が抜ける。アルディスはもう片方の手で、そっと王女の掌を開かせると真っ赤な鏡の破片を取り上げ近くの衛兵に手渡した。
「水桶と薬を持って来い」
「はっ、はい、只今」
侍女の一人が弾かれた様に天幕を駆け出して行った。
アルディスは手巾で王女の切れた掌を押さえながら、衛兵達も下がらせた。
「手鏡の小さな破片で死ねると、本気で思ったのか?」
アルディスは、王女の掌を水で洗ってやりながら尋ねた。手桶の中の水は立ち所に真っ赤に染まった。王女は答えなかった。アルディスは答えを待つでも無く、侍女の差し出す清潔な布で王女の手を拭き取ってやる。
「まあ、急所さえ心得ていれば死ねない事も無いがな....。だが女の腕じゃ時間がかかるだろうよ。事切れる前に発見されて、助けられるのがおちだ」
王女は、俯いたまま悔し気に唇を噛んだ。
「がっかりするな。他にも死ぬ方法なんて探せばある」
王女の口から小さな呻きが洩れた。消毒液が沁みたのであろう。決して優しい手付きでの手当では無い。
「例えば、敷布を切り裂いて縄を縒って首を括るとか、酒を被って己の身に火をつけるとか.....、二目と見られない屍骸が出来るだろうがな」
「殿下、お止め下さりませ、そんな恐ろしいお話は....。王女殿下がそれを実行に移されたら何となさるのです?」
年配の侍女が泣き言を訴えた。
「困るのか?」
「当たり前でございます!王女殿下は、エドキス殿下のお妃となられるお方でございますよ」
「王女にとっちゃ、さぞ屈辱だろう。殺してやった方がよっぽど親切ってもんだと思うがな」
俯いていた王女が吃驚した様に目を見開いてアルディスを見た。アルディスは血の滲む王女の掌の幾つもの傷に薬をすり込むと、器用に包帯を巻き始めた。
「殿下.....、陛下のお決めになられた事にございます」
侍女の心配そうな低い声に、アルディスの手が一瞬だけ止まる。
「分かっている。フェリスを穏便に支配するには、王女の身柄が必要だ。そんな事は分かっている」
王女の手に包帯を巻き終えると、アルディスは徐に立ち上がった。その瞳は王女へと向けられている。
「だが、替えの王女なら他にもいる。お前が死ねば、僧院に送られる筈の妹姫が代わりを務める事になるだろう」
そう言い残すとアルディスは去った。残された王女は、やがて肩を震わせ嗚咽を漏らし始めた。
「フェリスの王女が騒ぎを起こしたそうだな」
「ああ」
簡素な夕食を取りながら、エドキスが思い出したかの様にアルディスに尋ねた。
「それは、そのせいか?」
エドキスの色素の薄い瞳が、アルディスの頬の絆創膏を捉えていた。
「ああ」
「許せんな」
「大した傷じゃない、レイクが大袈裟にしただけだ」
エドキスは忌々し気に溜息を吐くと、銀杯を傾けた。
「亡国の王女など父上が娶れば良い物を...、何故、私なんだ...」
「そんなの、良い年をしてまだ独身だからに決まってるだろう」
「くそっ!その辺の帝国貴族の娘あたりで手を打ってくれれば良い物を...」
「正室腹の皇子じゃ、そうもいかないんだろ、諦めろよ」
「可愛く無いな、お前...。人事だと思って...」
エドキスは、不機嫌にアルディスを睨む。
「可愛い年頃でも無いさ」
もくもくと食事を続ける末の皇子も十九になり、その顔立ちからは幼さも大分消えた。エドキスが、小さな溜息を洩らすのが分かった。
「お前が女だったらな....」
ぽつりと呟かれた言葉に、アルディスは食事の手を止め怪訝な顔を上げた。
「.....何故だ?」
「お前が女だったら、囲い女にでもしたのにな」
「なっ!?」
アルディスは気色ばんだ。
「誰にも見せずに大切に囲って、政略なんぞに使われない様、早々に子の一人でも産ませてな」
「気色悪い事言うなっ!怒るぞっ!」
「もう怒っているだろうが?坊や」
エドキスが口を歪めて意地悪く笑う。
「大体、俺が女だったとしたって、お前とは血が繋がってるだろうが!?近親相姦だぞ」
「この帝家にあって、そんな罪は取るに足らないだろう?過去を見ろ。親殺し子殺し、兄弟殺し、伴侶殺し、どれだけの大罪が重ねられて来たと思ってるんだ?」
皮肉気に笑うエドキスに、アルディスは珍しくも思い切り顔を顰めた。
「だからって気色悪い事言うな、くそっ」
「お前が女だったら、さぞかしルウィーラ姫に似て愛らしかっただろうにと思っただけだ」
結局はそこなのかと、アルディスは無言で息を吐く。
エドキスが亡国の王女を娶る事を極端に厭う理由を、アルディスは知っていた。それが己の母のせいである事をアルディスは知っていたが、何も言えなかった。言ったところで、どうにもならないのだ。
『お前も私も、所詮は帝国の駒でしか無い』
アルディスは、エドキスが以前言っていた言葉を思い出す。確かにその通りだと強く思う。意に染まない女を娶れと言われれば、娶るしかない。仮令、皇太子に次ぐ帝位継承権を持つエドキスであろうとも、それは変わらないのだ。
夕食を終えた頃、ブラコフ・ダウゼント候が姿を見せ、エドキスに何やら耳打ちをした。
「妹姫が?」
興味も無さそうに尋ねるエドキスに、候は頷いた。
帝都へと護送中のフェリスの王女達、その歳若い妹姫がその晩高熱の為に倒れ、そしてほんの数日後に呆気無く息を引き取った。元々身体の弱い姫であったらしく、あまりにも呆気無く息を引き取ってしまったのだ。その旨は姉姫の耳に入れられたが、彼女は只呆然自失し、がっくりと項垂れたまま侍女達に抱え上げられるまで身動き一つしなかった。
亡国の王女が再び自害を図ったのは、妹姫の死の翌晩の事であった。