2. 帝国の皇子達(1)
クルトニア......、この大陸の中原を占める帝国の名であり、永きに渡る歴史を所有する国、そして永らく軍事国家として、その名が知れ渡って来た国であった。
現皇帝スルターク五世は、歴代皇帝に劣らぬ程の好戦的人物であった。そして当然の如くその気質は大陸中に知れ渡っており、その子供達の悪評もまた、大陸中に轟いていた。
好事家でもあった皇帝スルタークは、正妻の目を盗み、多くの女達に手を付け子を成したと言われているが、正式に認められていた子等の中で生存していたのは、当時八名のみであった。その内男子は五名、正室腹の者が皇太子を含む二名の、側室腹の者が三名であった。
側室腹である五番目の皇子は、その年十七になった。
母は、その昔帝国に攻め滅ぼされたシルキア王国の王女であった。まだ十六の時に、手篭め同然に皇帝の子を孕まされ、十七でこの皇子を産み落とした。そして発狂し、皇子が十の生誕日を迎える前に儚くなった。
皇子の名は、アルディス・ユーリディン、滅多に笑顔を見せぬ影のある皇子であった。剣の腕は中々のものであり、それに関しては周りから一目置かれる存在ではあったものの、全く持って無愛想なその気質から、大層な変わり者扱いをされていた。
帝城内に儲けられた軍兵達の練武場には、今日も剣の打ち合う音が高々と響いている。気付けば人だかりが出来ているが、別段珍しい光景というわけでは無かった。その兵達の輪の中心にいたのは、団栗色の髪の、まだその顔立ちにあどけなさをそこはかと残す青年であった。練武用の、先の潰された剣を華麗な身熟しで振るう。対戦していた相手があっという間に剣をはね飛ばされると、すかさず輪の中から別の者が名乗りを上げ、青年に躍りかかって来た。その度に取り巻く輪からは、やんやの声が激しく上がる。そんな男達のむさ苦しい喧噪へと、静かに近付いて来る者があった。
その人物に逸速く気付いた兵達は、姿勢を正すや彼の為に道を空ける。自然と出来上がった道を、あたかも当然の如き表情で通り抜けると、彼はその青年の剣技を腕を組みながらしばし眺めた。顔立ちを見てみれば、輪の中心で剣を振るう青年に似ていなくも無い。青年の団栗色の髪よりもほんの心持ち濃い色の髪は、青年同様短く刈られており、並んで立てば恐らくは、その細身の体型も良く似ていた事が分かったであろう。だがその瞳だけは大きく異なっていた。その彼の、色素の薄い瞳の色.....、剣を振るう青年の瞳に比べると暖かみの全く無い寒々しい、ごく薄い茶とも黄とも言える色をしていた。
青年の相手をしていた兵が打ち負かされた時、端で見物していた彼は、突然地を蹴り腰の剣を引き抜いて、後ろから剣を振りかぶり青年に襲いかかった。周りの輪から鋭いどよめきの声が起こった。見物人の誰もが、手に汗を握った。しかし.......。
間一髪で半身を翻した青年の剣が、襲撃者の剣を受け止めていた。襲撃者が、ふっと鼻で笑った。
「良く受けた。アルディス」
「汚いぞ、エドキスっ。しかも真剣で....」
「敵が、そんな事を頓着すると思うのか?坊や」
皮肉な笑みを浮かべながら、エドキスはアルディスの剣を弾くや問答無用で襲いかかる。打ち合う事数合、周りが息を飲んで兄弟の剣技を見守った。
数刻の後、剣を空高く弾き飛ばされたのは、歳若い青年の方であった。
「お前の負けだ。罰として今晩は私に付き合え、いいな」
それだけ言い捨てると、エドキスは悔し気な表情を隠しもしない弟にさっさと背を向けた。
エドキス・アルゼイス、帝国の第四皇子であった。正室腹の皇子であり、皇太子に次ぐ帝位継承権を持つ皇子であった。八人の帝家の子息子女達の中では、一番の切れ者だと影では噂されていたが、大変な皮肉屋として知られていた。そして又八人の皇子皇女達の中では、一番酷薄な人物としても悪評高かった。彼の同腹の兄である皇太子は、幸いな事に情の深い面も持ち合わせていたが、この皇子にそんな面を認める者は、殆どいなかったと言って差し支え無かったであろう。実際の処、実の両親に対してさえ、彼は情などという物は持っていなかったのである。
「殿下、デザウ候主催の舞踏会にお出ましになられるのですか?」
「ああ、かまわないだろう?アルディスも連れて行く」
「構いませぬが、アルディス様が首を縦に振りますでしょうか...」
「今宵は嫌とは言わせないさ」
口元を歪め笑みを浮かべるエドキスに、彼の第一の側近であるブラコフ・ダウゼント候は密かに溜息を吐く。
「又、アルディス様の御機嫌を損ねる様な意地悪をなさったのですか?殿下」
その言葉に、エドキスは声をたて短く笑った。
「可愛いから、つい苛めたくなるのは確かだが...、今回は違うぞ」
「如何でしょうね....」
すでに髪には白い物もかなり混じる年齢のブラコフ候は、大柄であるせいかどうか、年よりも若々しい。二人の皇子達を、幼い頃より見守り補佐して来た人物であった。この世の中で、二人の皇子達の人となりを一番良く理解していたのは他でもない、このブラコフ候であっただろう。
「それでは、デザウ候の方へは急いで使いを出して、その旨伝えておきましょう」
「ああ、アルディス共々、楽しみにしているとでも伝えておけ」
そう言って、エドキスは楽しそうに笑った。
ブラコフ候の予想通り、着飾った第五皇子は不機嫌を隠そうともせずに馬車に乗り込んだ。
「汚いぞ、エドキス.....」
「何が汚いだ、お前が負けたのが悪い、恨むなら己の剣の未熟さを恨め」
皇族らしく、華やかな衣装に身を包んだ二人の皇子達は、馬車の端と端に座を占め、二人して長い足を投げ出していた。片や口角を上げながら、片や不機嫌な表情で窓の垂れ幕の隙間から外を眺めながら。
「お前も、十七にもなって、いつまでも社交的な場を避けるのはよせ、アルディス。人付き合いが下手なのは分かる。華やかな場が嫌いなのも分かる。好きになれとは言わないが、少しは慣れろ。ついでに女の扱い方もな」
「何の為にだよ」
「そんな事、人に聞かなきゃ分からないのか?だからお前は“坊や”だっていうんだ」
エドキスは、呆れ顔でこれ見よがしな溜息を吐いた。
「理由は幾つかある。ああいった処に顔を出しておくと、時たま思わぬ貴重な情報が手に入る事がある。又、各貴族達の動向を探るのにも良いし、ひょんな事で弱みを掴めば、それが又、役立つ事もある。あとは.....、まあ女だな、嫌でも色々寄って来る。皆、言い含められてる女ばかりだから、こっちが望めば簡単に足を開く。大貴族の娘から、あわよくば帝家の側室にでも入れればって程度の家柄の娘まで、様々だ」
エドキスは、忌々し気に息を吐く。
「だが、そういった女達も時として役立つ。まあ、お前に寄って来るのは、恐らく純粋にお前に興味を持っている女だろうから、安心しろ。気に入ったのがいたら抱いてやれ、きっと喜ぶだろうよ。子の一人や二人、孕ませたってお前なら政治的にも問題無い」
「俺は、お前のそういう処が嫌いだ」
ぽつりと呟くアルディスに、エドキスは心底可笑しそうに笑い出した。
「“そういう処”だけじゃないだろう?お前が嫌いなのは、アルディス坊や」
「手当たり次第、女に手を付けて回る処も嫌いだ」
「馬鹿を言え、きちんと選んで手を付けてる」
「手を付けては、すぐに捨てる。大抵一度で捨てるだろ?」
「当たり前だ、それなりの価値のある女ならまだしも、貴族等の思惑がらみの女なんぞ、後々厄介なだけだろう」
皮肉気な笑みを浮かべるエドキスに、アルディスは口を噤む。
「まあ、深く考えるな。要は、お前は女の扱い方をさっさと覚えろって事だ。帝家の男子が公の場で、女の相手も満足にこなせない様じゃ問題だぞ」
苛立たしく思いながらも、アルディスとてエドキスの言い分が正しい事くらい分かっていた。
二人の皇子達が、ブラコフ候を伴い現れると、広間の誰もが深々と頭を垂れ最高の礼を皇子達に対し取った。長身で細身で、その上中々の美男子であった皇子達は、評判はどうであれ、若い娘達にはそれなりの人気はあった。エドキスは、ことあるごとにアルディスに愛想良くしろだの、笑えだのと耳打ちして来た。それが鬱陶しくて、アルディスは隙をみて、さっさとエドキスから逃れると、杯を片手に人気のないバルコニーへと出た。冷えた空気が、酒で火照った頬には気持ちが良かった。
アルディスには、全く持って楽しい時では無かった。貴族等と上辺だけの会話を交わす事も、上流の女達の手を取り機嫌を伺ってやる事も、白々しく、又馬鹿馬鹿しいとしか感じられなかった。ましてや舞踏などとんでも無い。エドキスの言う事は分かるのだが、やはり自分には苦痛以外の何ものでもないのだ。
石造りの手摺に両肘を付いて、前屈みに寄りかかりながら独り静かに杯を傾けていると、後ろから密やかな衣擦れの音が近付いて来た。アルディスは密やかに溜息を吐く。もう邪魔者がやって来てしまったのかと....。頼むから自分の事は放っておいて欲しい...。そんな内心の言葉など、口に出さぬ限り相手に伝わる筈など無い。
「春とはいえ、夜は冷えます、殿下。あまり長くおられると、お風邪を召されますわ」
涼やかな若い娘の声であった。
「.....いらぬ世話だ。お前の方こそ、中へ引っ込んだ方がいいんじゃないのか?風邪を引くぞ」
アルディスは、振り返りもせずに答えた。
「こちらを向いても下さらないのですか?アルディス殿下。女性をそのように邪険になさるのもどうかと思いますわ、帝国騎士道に反するのではありませんか?」
きっぱりとした物言いは、しかし機嫌を損ねている様には聞こえなかった。
アルディスは、軽く息を吐くと、振り返って声の主を見た。
「別に邪険にしたわけでは無いんだが....、ただ興味が無かっただけだ」
無愛想なアルディスのその礼を失っした言葉に、だがしかし娘はにこりと微笑んだ。
「では、これから興味を持って下さいませ、殿下」
アルディスは訝し気な目を、その娘に向けた。年の頃は恐らくアルディスとそうは変わるまい。春らしい柔らかな色彩の衣装に身を包み、褐色の柔らかそうな髪を若々しく結い上げている。どこの娘かは分からなかったが、その豪奢な装いから、かなりの家柄の娘だという事だけは、いかなアルディスとて想像に難くなかった。
「何の用だ?」
アルディスは、娘の言葉を無視して尋ねた。
「用が無くては、お声をかけてはいけませんでしたか?」
「.....別に、いけなくは無いが」
その返答に、娘は実に嬉しそうな表情を見せた。
「わたくし、殿下とお話がしたいのです」
「何の話がしたいんだ?俺と話したところで、楽しい事なんか無いと思うぜ」
「それは如何でしょう。楽しい事があるやもしれませんわ」
娘は朗らかに言いながら、大胆にもアルディスの腕に自分の腕を絡めて来た。
「俺を誘ってるのか?」
アルディスのぞんざいな物言いにも、娘は動じるどころか挑発的な眼差しを返して来た。
「そうですわ、貴方様を誘ってますの」
つんと顎を聳やかせる娘に、アルディスは苦笑した。
「帝国貴族の娘の貞操観念てのは、一体どうなってるんだ?別に親に言い含められてるわけでもあるまい?俺に取り入ったって、何の得にもならないだろうに」
「わたくしは、ただ純粋に殿下に一夜のお情けを頂きたいだけですわ。親など関係ございません」
今まで、これ程あからさまに誘惑して来た女は他にいなかった。勝ち気な瞳を真っすぐに向けて来る様は、そんな言葉を口にのぼせながらも、一種清らかにさえ見えた。だからなのだろう、アルディスは、無言で娘の手首を掴むとバルコニーを後にしていた。