1. 第四皇子の独白(4)
凡そ一年半余りの後に、アルディスは帝国に帰還した。
一歩間違えばエスニアで処刑されていてもおかしくは無い状況下に置かれた彼が、無事に帰還した事は奇跡に近かったかもしれない。帝国が両国の不可侵条約を犯し、エスニアへ攻め入ったのである。父と兄は、初めからそのつもりであったのだろう。初めからエスニアを落とすつもりで、相手国を欺く為にアルディスを人質として送ったのだろう。
帝国軍は、侵略の火蓋を切って落とすと同時にアルディスを奪い返した。よくぞ奪い返せたものだ。この時ばかりは、軍を率いた長兄とその参謀に感謝したものだった。
私も前線では無かったが、この侵略戦争に参加した。ルウィーラの元を離れるのは不本意であったが、父である皇帝の命に逆らう事など出来よう筈も無い。私は戦場でアルディスと再会し、エスニア陥落後、帝国へ連れ帰った。
ルウィーラ姫が発狂した事を、私はアルディスに話した。だが、それがどういう事なのか未だ九つの彼には、はっきりとは分からなかっただろう。
私は、事実を知らせるだけ知らせると、アルディスをルウィーラの元へと連れて行った。
庭園で籐製の椅子に座り、あの唄を唄っていたルウィーラは、手元に何かを抱えていた。まるで赤子を抱える様に大事そうに何かを抱え、覗き込み、あの異国語の唄を唄っていた。
「あの丸めた掛布を、ユーリ様と思い込んでおられるのです」
アルディスの乳母が悲痛な面持ちで告げた。
私が出陣した後、残されたルウィーラは数日の間子を求めて泣き叫び、そしてアルディスの使っていた子供用の掛布を見つけ出すと、それを抱え込み大人しくなったのだという。
掛布を我が子と信じてあやしているルウィーラの表情は穏やかで、とても気が触れている様には見えなかった。
静かに歩み寄る私達に気付いたルウィーラは、微かに首を傾げた。
「母上、ただいまかえりました」
アルディスの挨拶の口上に、ルウィーラは更に首を傾げ、不思議そうな表情でアルディスを見、そして私を見た。
「だあれ?」
やはり....、ルウィーラには私の顔どころか、己が息子の顔さえも分からなくなっていた。アルディスが傷ついた表情を浮かべた。
「ユーリだよ、ルウィーラ姫」
私は困惑を押し隠し、無理に微笑みながら彼女に伝えた。
「ユーリ......?」
「無事に帰還した」
「ユーリ...、何故...?ユーリが二人いるの?」
ルウィーラはアルディスと私の顔を交互に見比べながら、困った様な表情を浮かべた。
「私は、エドキス、ユーリの兄だ。ユーリはこっちだ」
そう言って戸惑うアルディスの背を押してやると、彼はゆっくりと母親に歩み寄り、彼女の首に両手を伸ばしてその肩に顔を埋めた。
ルウィーラは抱えていた掛布を放り投げると、幸せそうな表情を浮かべて素直にアルディスを抱き締めた。
「ユーリ、わたくしのユーリ」
アルディスは涙を零していた。
「ユーリ?泣いているの?ユーリ?」
ルウィーラが、俄に顔色を変えた。
「あの男に、あの男に酷い事をされたのね?何をされたのです?ユーリ」
ルウィーラはアルディスの両腕を掴むと、鬼気迫る表情で問い質した。
「あの男、許さない、呪ってやる、わたくしのユーリに、わたくしのユーリに」
母親の、狂気の宿った瞳を目の前にし、アルディスは何を思っただろう....。
私はルウィーラを宥め、だましだまし、母親の剣幕に硬直していたアルディスから引きはがした。衝撃が大き過ぎたのか、アルディスの涙も止まっていた。
もうその頃には、ルウィーラの寝室の扉の外には錠前が取り付けられていた。彼女は以前に一度、寝ずの番の目を盗み真夜中にふらりと庭園に出てしまい、ちょっとした騒ぎを起こした事があったのだ。それからルウィーラの就寝後は、扉錠を下ろす様になった。
アルディスの教育係は、正気を失ったルウィーラのもとに暮らすのは、アルディスにとって精神上良く無いという旨を父に進言していた。父は、本城にアルディスの居室を与えたが、アルディスは移らなかった。
ルウィーラの狂気は、アルディスから笑顔を奪い、無邪気さを奪い、表情までをも奪った。あの呪詛の言葉を、彼は幾度母親の口から聞かされたのだろう。ルウィーラは、帝家の人間であるアルディスの前で一体幾度、帝家の人間を呪ったのだろう。帝家の血を引く彼の前で、幾度その血を蔑み呪ったのだろう......。アルディスはその後、決して泣く事はしなかった。少しでも自分が涙を見せると、母の狂気が顕著になると言う事を理解していたのだろう。
その後、彼女は病を得、アルディスの十歳の生誕日を待たずして亡き人となった。臨終の折、彼女は正気を取り戻し私の名を思い出した。私を見て、私の名を細い声で呼んだ。
「この子を、お願い、貴方にしか頼めないのです.....、エドキス皇子....」
やつれ果ててはいたが、ルウィーラは未だ儚く美しかった。私は、生涯アルディスを守ると、この時、もう一度ルウィーラに誓ってやった。今度はきちんと剣に誓ってやったのだ。ルウィーラは、ほっとした様に微笑み、忝く....と呟き、息を引き取った。アルディスは、泣かなかった。只、母親の手を握り、息をしなくなった少女のような顔を、硝子玉の様な瞳で見詰めていただけだった。
ルウィーラの葬儀はひっそりとささやかに行われた。後ろ盾も持たぬ側室であった為、一年の服喪を強制される事も無かった。その為、彼女の為に一年の間喪に服したのは、アルディスと私だけであっただろう。生前の彼女に仕えた者達でさえ、一年の服喪を行った物は無かったであろう。生前、帝国を呪詛する言葉を散々喚き散らした彼女の為に、そこまでしてやる者がいたとは考え辛かった。
ルウィーラが身罷った後、私はアルディスを本城の私の私室に連れて来た。どちらにしろルウィーラが身罷った以上は、アルディスもあの離れの館を出なければならなかった。彼が以前本城内に与えられた部屋は、私の部屋からは距離があり、又、私の部屋部屋に比べると、程遠い造りと広さであった。それ故、私は自室の内の一部屋にアルディスを住まわせる事にしたのだ。案の定、又、母が反対した。
「売女の息子を住まわせるのか?」
私は、母が激怒しながら言った言葉の意味が理解出来る程に成長していた。
「ルウィーラ姫が売女なら、貴女は一体何なんですか?皇后陛下」
私は、ルウィーラを侮辱する母を憎んだ。彼女を母と呼ばなくなって、どれ程になっていたであろう。私は父を嫌い、母を憎み、同毋の兄には何の情も持ってはいなかった。他の異腹の兄姉達に対しても同様であった。私にとっては皆、血の繋がらぬ他人以上に他人であった。唯一、アルディス以外は....。
母は、私の言葉に身体を震わせた。
「彼女が売女なら、貴女だって売女だ」
その瞬間、私は頬を張られていた。笑いが込み上げた。この女にこんな言葉を面と向かって言ったのは、後にも先にも恐らく私だけだろう。
「お怒りですか?なら私に毒を盛ればいい、末姫の母親に毒を盛った様に」
「何と言う事を、何と言う事をっ、そなた、この母を愚弄するか」
四つになる末姫の母親は帝国貴族の娘であり、父の寵愛を一身に受けた姫であったが、二人めの子を身籠った時に原因不明の死を遂げた。末姫がまだ二歳にも満たない頃であった。死因は公にはされなかったが、毒害であった事を私は知っている。悋気の為に、母が毒害させたのであろう。今まで母が毒害させた人数は、恐らく両の手指では足りない程だろう。
寵姫を殺された父は、誰の差し金かを知っていた筈である。だが、証拠を掴めなかったのだろう。仮令証拠を掴んでいたとしても、皇后に立てられた母を処罰するのは難しかったであろう。彼女には強力な後ろ盾が付いていた。それ故に皇后に立てられたわけである。
私がアルディスを引き取る事に関して、父は別段異を唱えはしなかった。私には、ブラコフ・ダウゼント候が後見として付いていたが、アルディスはまだ後見人を持っていなかった。その旨を父に進言すると、父はブラコフに、私共々アルディスの後見をも務める様命じた。
悋気の感の強い母にとってはさぞかし面白く無かった事であろう。父が他の女との間に成した子を、己の実の子が手元に引き取るなどという事は.......。
案の定、間もなくしてアルディスの食事に毒が盛られた。普段は二人で食事を摂っていたのだが、たまたま私が留守をしたある日の事だった。私達にも、それなりに毒味役は付いていたが、その他に私は毒味用として小型犬を何匹か飼っていた。侍女がそれらの犬達にアルディスの食事を毒味させようとしたら、どの犬も匂いを嗅いだきり、口にしようとはしなかった。毒に関して良く仕付けられた犬達であり、余程の毒でない限りは、敏感に嗅ぎ分ける。
私の留守を狙って毒が盛られたのだ。誰の差し金かなど、私にとっては考えるまでもなかった。命を奪ったとて、政治的に何の得にもならない、外腹の五番めの皇子に毒を盛るなど......。
その時から随分と長い事、一家での晩餐の際、又、公の席での際にアルディスが口に入れる物は、私が総て毒味をして見せた。そう、母に見せつける為であった。二人の男子しか持たない母に取って、私を死なせるわけにはいかなかったであろう。さもなくば、兄である皇太子に何か事があった場合、皇帝位はやがて他の女の産んだ皇子に取られ、母の権力も失墜するであろうから...。
「アルディスを害して、得をする者がいるとは思えぬが....」
確か、兄達の誰かが言った。
「得はしなくても、喜ぶ人間がいるようです」
私は答えた。
「本当に毒が入っていたら....、エドキスが死ぬぞ...」
その時傍らのアルディスがぽつりと呟いた。
「構うものか」
その時、私は本当にそう思った。十五にしてすでに私は生に対し、それ程強い執着を持ってはいなかったのだ。それ以上に私は、アルディスを失う事を怖れた。何故だろう....。ルウィーラに誓ったからか....。私はあの誓いに縛られていたのであろうか......。今でも縛られているのであろうか......。ならば、もしもあの様な事を彼女に誓っていなかったなら私は、父や、他の兄姉同様、彼の事を捨て置いていたであろうか.......。否、誓いなど、只の口実に過ぎないのだろう....。ルウィーラの忘れ形見を捨て置く事など、どうして出来よう.....。私は、ルウィーラを愛していたのだ。それが、母に対する様な愛情だったのか、女に対する愛情であったのかは分からない。只、私は彼女の面影に捕われた。彼女の死後、時が経つにつれ彼女の面影は鮮烈になって行くばかりであった。様々な女達に手を出しても、実際に彼女達自身を見ていた事など無かった。その証拠に、これまで係わった女達の顔を上手く脳裏に描く事が出来ない。私がそこに重ね見ていたのは、いつでもルウィーラであったのだ。 そう....、いつだって..............。
1. 第四皇子の独白 終