1. 第四皇子の独白(3)
幼いアルディスは、エスニアへ人質として送られた。ルウィーラの嘆きは、私にとって拷問以外の何ものでもなかった。出発の日も、彼女は酷く取り乱し、アルディスの身から彼女を引きはがすのに、侍女達は随分と手間取り、挙げ句の果てには衛兵達が彼女の身を押さえつけなければならない始末であった。子を取り上げられたルウィーラは、この世の終末を見たかの様に泣き叫んだ。母親の激しい慟哭に、これから人質としてエスニアへ送られんとしていたアルディスは、幼いながらも心配そうな顔で幾度も母親を振り返った後、館を後にした。
「ははうえ....、かわいそう....」
アルディスは沈んだ表情で私を見上げ呟いたが、泣いてはいなかった。
「そうだな....」
可哀想....、全くだ。ルウィーラもアルディスも、全く持って“可哀想”だった。ルウィーラには、本当にアルディスが総てだったのだ。彼女には、アルディスが唯一の生きる為の理由だったのだ。例えば、私が人質として他国へ差し出されるとして、実母であるあの皇后が、ルウィーラの様に我が子の為に身も世も無く嘆き悲しむだろうか?答えは否だ。己が駒を奪われる危険に、皇后は怒り狂うであろうが、決して子の命を案じて泣き叫ぶ様な真似はしまい。又、父の他の側室達にしても、ルウィーラの様な脆さは無い。恐らくは、子を案じ、悲しみはしたであろうが、ルウィーラの様に正気を失う事は無かっただろう。ルウィーラは、弱い女だったのだ。彼女の心は、硝子の様に、いやそれ以上に、あまりにも脆く儚かったのだ。私の父は、興味本位にうら若かったルウィーラに手を出し、孕ませた挙げ句、全く顧みなかった。本当ならば長兄の妃に...、皇太子妃となる筈であったルウィーラを、あの様な低い地位に貶めた。
私は、手を伸ばしアルディスの頭を撫でた。本当ならば、皇太孫となるべき皇子であったかもしれない。
「必ず戻って来いよ、ユーリ」
「うん」
頷く幼い弟を、私は背を屈めて抱き締めた。アルディスを抱き締めたのは、この時が最後であったと思う。
館へ取って返した私の姿を認めるや、ルウィーラは侍女達の手を振り切り泣きながら私に縋り付いた。
「何故ユーリなのっ!?何故あの子なの!?何故他の皇子か皇女じゃないの!?何故っ!?」
ルウィーラは私のチュニックを破れんばかりに掴み、喚き散らし、そのまま床に頽れた。私は己のチュニックを掴むルウィーラの両手をそれぞれ握り、悲痛な泣き声を上げるルウィーラの震える肩を見詰めたまま立ち尽くしていた。
そして、やがて泣き喚く事に疲れた彼女は、表情の無い顔でぼんやりと私を見上げ、呟いた。
「何故.....、貴方じゃないの......?」
胸を抉られる様な呟きだった。
思えば、彼女の狂気はその日から始まっていたのだろう。ルウィーラは、少しずつ常軌を逸していった。本当に少しずつ.......。
毎日泣き暮らしていた彼女は、やがて泣かなくなった。少しずつだが笑顔を取り戻したルウィーラに、侍女達は胸を撫で下ろし、私もほっとしていた。だが彼女が泣かなくなったのは、悲しみが薄れたからでは無く、エスニアに送られたアルディスの存在が彼女の心から拭い去られたからであった。彼女の心からは、いつの間にか人質に送られたアルディスはいなくなり、そして私の存在も消えていた。彼女の中では、アルディスは常に彼女の傍におり、彼女は私の名を忘れた代わりに、私をユーリと呼んだ。
幾度説明したか分からない。私はユーリでは無いのだと.....。だが、最早彼女の耳にはそんな私の言葉も届かなくなっていた。
そして彼女は、一日でも私が姿を見せないと酷く取り乱す様になった。私の姿が見えないのは、父のせいだという思考に繋がったのだろう、父への呪詛の言葉を吐き散らす様になった。父に対して吐かれた憎しみの言葉が、父に対する物だけでは無くなるまでに然程の時間はかからなかった。ルウィーラは父を憎み、帝家を憎み、挙げ句は帝国を憎んだ。否、こうして気が触れるまで、私の前では口にする事が無かったとはいえ、彼女はずっと憎んで来たのだろう。国を奪われた彼女が、父を、帝家を、帝国を、憎まずにいられた筈など無かったであろうから.....。
「あの男を、呪ってやる!呪ってやる!クルトニアを呪ってやるっ!死んでしまえっ!死んでしまえっ!」
ルウィーラが長い髪を振り乱して、喚き散らしていた。侍女達は、もういい加減宥める気力も失なったのだろう、只、傍観するだけであった。
「帝家の人間など、皆呪われるが良いっ!あの男の血筋など、死に絶えてしまえっ!」
己が息子も、その男の血筋だという事実は、彼女の中では最早事実では無くなったのであろうか....。
「ユーリ...、ああ、ユーリ」
ルウィーラが私の姿を見付け駆け寄って来るや、私を抱き締めた。すでに彼女と同じ程に背丈の伸びていた私を、アルディスと信じて疑わなかった彼女の狂気は、己が息子の年齢さえも忘れ去らせたのだ。
「ユーリ、わたくしのユーリ、あの男に連れ去られていたのね、可哀想に、酷い事をされなかったか?」
そう言って、彼女は私の無事を確かめるかの様に、私の全身を狂気の宿った瞳で幾度も見回し、私の髪を掻き揚げる様にして幾度も幾度も私の頭を撫でた。
「何もされていないよ、大丈夫。昨日は皇后の生誕の式典があったんだ。」
「皇后....?」
「私を産んだ母だよ」
「何を言っているの?この子は....。そなたを産んだのは、このわたくしではないの。それはそれは苦しい思いをして、わたくしはそなたを産んだのですよ」
「ルウィーラ姫...」
「皇后などの..、帝家の人間などの式典に出ていたのですか?そなた?.....ああ、あの男に強制されたのね?」
確かに強制はされた。母の生誕式典など、出なくてすむなら出たくなど無い。己自身の生誕式典も含め、ああいった類いの式典が、私は大嫌いだった。
ルウィーラが再び私を抱き締めた。ルウィーラのしたい様にさせてやった。
「可哀想に、可哀想に.....」
「声が、涸れているね、姫」
「可哀想に....」
「もう、喋らない方がいい、ルウィーラ姫」
私が訪れなかった間、ずっと喚き散らしていたのだろう.......。私は、ルウィーラ姫の華奢な肩に顔を埋め、その背に手を回した。こんな母親を見たら、アルディスは何と言うだろう.........壊れてしまった母親を見たら........アルディスは............。
私は、父を恨んだ。