1. 第四皇子の独白(2)
アルディス・ユーリディン_________亡国シルキアの王女が産み落とした子は、そう名付けられた。成長してから知った事だが、赤子の命名に関して父は全く関与しなかった。それだけでも、父がシルキア王家の血を引く赤子にどれだけ無関心であったかが分かる。国土を帝国に併合されたシルキアの民達の手前、父はシルキア王家の血を帝家に入れたが、ただそれだけの事であった。
“アルディス”の名は、大聖堂の祭司により付けられたものであったが、“ユーリディン”の名を付けたのはルウィーラであった。シルキア風の名であった。シルキアの民達の感情を慮り、父は末の息子にシルキア風の名を付ける事を許したのである。
「ねえ、ルウィーラひめ、“ユーリディン”って、どんないみ?」
赤子が名付けられて間も無く、私は尋ねた。
「“ユーリディン”は、シルキア王国建国の祖の名、最初の国王の名よ」
彼女は赤子をあやしながら、そう教えてくれた。建国の祖の名を、その王家最後の王子に付けたルウィーラは何を思っていたのだろう。何か深い期待があっての事だったのか、もしくは.....彼女特有の哀しい洒落ででもあったのか.....。
ルウィーラは赤子を“ユーリ”という愛称で呼んだ。自然私も、ルウィーラの前では赤子をその名で呼んだ。彼女はよく赤子に唄を唄って聴かせていた。私が初めて彼女を垣間見た時に唄っていた、あの異国語の唄だ。
「シルキア王家に生まれた者は皆、この唄を子守唄替わりに聴かされて育つの。この唄は遠い昔から王家に伝わって来た唄なの」
シルキアの古語で唄われているというその唄を、ユーリと共に散々聴いている内に私もすっかり覚えてしまった。意味も知らぬそのシルキアの古語を、もの哀しい旋律に乗せて、幼い頃は私も唄った。
広き蒼き空の果て 涙無き地 そこに有り
涙無き地の その園の 白き花の開くるを
白き鹿は 良く守りて
白き娘 空に向かいて 花を恋ひ
幸ひの地 求め出でたらむ
白き花々 咲き乱れたる 白き園
その地を守るは 白き鹿
鹿の瞳は常しえに 花を思はむ 花を思はむ
後にルウィーラはその唄の意味を教えてくれたが、この通り、存外大した意味の唄では無かった。
幼い頃のアルディスの世界は、実に狭かった。あの離れの館が、彼の世界の総てであり、母であるルウィーラと乳母と数少ない侍女達と教師、そして私だけが彼の世界の住人であった。
“母上”という言葉の次にアルディスがたどたどしく覚えたのは、私の名だった。それが“エー”であったり、“エド”であったり、“エドキー”であったり、“エドキチュ”になったり、毎回違った名を呼ばれたが、小さな両手を伸ばし上機嫌で私の名を呼ぶ幼いアルディスが、可愛く無い筈は無かった。あの無愛想な弟を考えると、本当にそんな頃があったのかと、疑いたくなって来る。そのアルディスが“父親”の意味を知ったのは、確か四つを過ぎてからだったと記憶している。人間であろうが、動物であろうが、誰にでも父親というものがいるという事実を、彼はその歳まで知らなかった。無論その歳までには、彼も年に幾度かは父である皇帝に対面している。だが、碌に口をきいた事も無い、声をかけられた事も無い男が父だという実感など、持てる筈など無いのだ。彼よりも多く父と接する機会を持っていた私でさえ、皇帝が我が父だという実感は無かった。皇帝を世間一般の父親像の枠に当てはめる事は出来ない。むしろ私を後見していたブラコフ・ダウゼント候の方が、どれ程私にとっては父と呼ぶに相応しかったか....。
アルディスは“父親”の意味を知った時、自分の父親は誰なのか、何処にいるのかと母親に尋ねた。その時のルウィーラの衝撃を受けた表情はよく覚えている。今にも泣きそうな顔をして、部屋を飛び出していってしまった。アルディスは驚き、戸惑い、私に助けを求めた。
「お前は今まで、父上が誰だか知らなかったのか?」
私の問いに、アルディスはおずおずと頷いた。恐らく、叱られるべき悪い事をしでかしたとでも幼心に思ったのだろう、アルディスは上目遣いに私を見上げていた。
「お前と私の父上は皇帝陛下だ。もう何回も会った事があるだろう?」
私の答えに、幼いアルディスは少しの間考え、首を傾げた。
「あのえらいひと?おおきいいすにすわってるひと?」
「うん、大きい椅子に座ってる人」
アルディスは、今一つ納得のいかない顔をした。
「ぼく、あのひとじゃないとおもう....」
「どうして?」
「だって、ははうえはあのえらいひとのこと、きらいだもん」
何の裏も無い幼いアルディスの言葉に、私は驚き、言葉が続かなかった。そうだ、国を滅ぼされたルウィーラが皇帝に好意など持てる筈が無いのだという事を、私はその時初めて強く実感したのだ。そして恐ろしい事に思い当たり、胸が苦しくなった。私は皇帝の子だ。彼女にとっては敵の、憎い男の息子だ。ルウィーラが私の事も嫌っていたらと考えたら、目の前が暗くなった。実の母に厭われようとも、他の誰に嫌われようとも私は構わなかったが、ルウィーラにだけは嫌われたく無かったのだ。
「エドキス?どうしたの?エドキス?」
アルディスが、愕然としていた私の衣服を心配そうに引っ張った。
「あ....、何でも無い」
私は幼いアルディスの両手を取り、その邪気の無い瞳を真っ向から見詰めた。
「なあ、ユーリ。ルウィーラ姫が皇帝の事をきらいでも、あの人はお前の父上なんだ。一応おぼえておいた方がいい」
アルディスは、素直に頷いた。
アルディスが七つになった時、帝国は、隣国エスニアへ彼を人質として差し出す事を決めた。その後帝国に責め滅ぼされる事になるエスニア王国は当時、国土こそ帝国には及ばなかったものの、その豊富な天然資源の採掘により国は潤っており、軍事力の方も無視出来ぬ程の物を持っていた様だ。そのエスニア王国とクルトニア帝国、両国間で不可侵条約が結ばれ、互いの牽制の為、人質の交換が行われる事になったのだ。
ある日の昼下がり、いつもの様に離れの館に足を運ぶと、ルウィーラが床に座り込み長椅子に突っ伏して、声を上げて泣いていた。アルディスの乳母がその背を撫でながら、やはり涙を拭きつつ何か話しかけていた。アルディスは困惑顔でその様子に目を向けたままで立ち尽くしていた。人質の件など、その時はまだ知らなかった私は驚き、ルウィーラの元に駆け寄ると屈み込んだ。
「何があったんだ?ルウィーラ姫?」
髪を振り乱して泣くルウィーラが、私に気付き顔を上げた。だが言葉も口に出来ない程取り乱しており、私は何も聞かずに、ルウィーラをぎこちない手付きで抱き寄せた。ルウィーラは私に縋り付き泣き続けた。そしてやがて泣き疲れて私に縋り付いたまま眠ってしまった。私はその後、人質の件を乳母の口から聞いた。
「くそっ!ユーリ、一緒に来い」
私はアルディスの腕を掴むと、その場を飛び出した。
「どこへいくの?」
「皇帝の処だ。何もお前が行かなくたっていいはずだ」
私は、アルディスを連れて父の執務室へ出向くと、従者に取り次ぎを命じた。だが腹立たしい事に、父は私に会おうとはしなかった。戻って来た取次人は私に伝言を求めるばかりであった。堂々巡りの押し問答に私は業を煮やし、取次人を押しのけて強引に執務室に踏み込んだ。衛兵達が止めに入って来たが、さすがに皇太子に次ぐ帝位継承権を持つ私に、強い態度は取れなかった様だ。
「先程から騒がしいな、一体何の用だ?」
執務中であった父は、ペンを止め、不機嫌な顔を上げると私とアルディスに目を向けた。アルディスを連れていた時点で、父は私の訴えんとしている事を察した様であった。
「エスニアの人質の件か?」
「はい」
私とアルディスは跪き、頭を垂れた。
「恐れながら、エスニアへはアルディスの変わりに私をお送り下さい。お願いします」
「エドキス....」
アルディスは驚いたらしく、顔を上げて私に目を向けた様であったが私は顔を上げなかった。父が苛立たし気に息を吐く気配が伝わって来た。
「それは出来ぬ、そなたは皇太子に次ぐ帝位継承権を持っている」
「では、他の者をお送り下さい」
「何故に?」
「アルディスはまだ七つになったばかりです。何もこんなに幼い子を送らなくとも良いではありませんか、陛下」
「もう七つであろう」
私は思わず顔を上げ、実の父を睨みつけていた。
「だがまだ七つだ。皇子皇女達の中で一番役に立たぬのがそれだ。人質に送り出すくらいしか使い道が無い」
「父上......」
私は怒りの為に拳を強く握り締めながらも、必死でそれを押さえ、再度深く頭を下げた。
「お願いです。ルウィーラ姫からアルディスを取り上げる様な事はなさらないで下さい」
「他の妃の子を代わりに送れというか?」
「私をお送り下さい。帝位継承権は放棄させて頂きます」
「身勝手な考えだ」
「壊れてしまいます」
「何?」
「ルウィーラ姫が、壊れてしまいます」
「下らぬ戯言は聞く耳持たぬ」
「戯れ言ですか......?.....父上には戯れ言でも、私にとってはそうでない。父上は、ルウィーラ姫がどんな生活を送っているかをご存じないからそんな事を仰るんです。父上が捨て置いて顧みない姫にとって、アルディスは総てなんです。そのアルディスを取り上げたら、ルウィーラ姫は、きっと壊れてしまう」
父は眉間を押さえながら深々と溜息を吐いた。
「なれば壊れぬ様、そなたが慰めてやればよかろう、エドキス。さあ、もう下がれ。余は忙しい、これ以上邪魔立てすると、承知せぬ。誰か、子供等を連れて行け」
.....この時程、父を憎んだ事は無かったかもしれない。
執務室から追い出された私は、アルディスの手を握ったまま暫く何も言えなかった。そんな私を、アルディスは心配そうに見上げていた。
「ごめん、ユーリ.....、変わってやれなかった...」
アルディスはにこりと微笑み、首を横に振った。
「ありがとう、エドキス、でもぼくはだいじょうぶ。ははうえもエドキスがいればだいじょうぶだとおもうよ」
本当に....、本当に大丈夫だろうか....。私は案じた。本気でルウィーラ姫が壊れてしまうと、案じた。
そして..........、その通りになった.........。