9 影
校舎の屋上で三景と向き合った瞬間、陸の耳から、一切の喧騒が遠ざかる気がした。
昼休みになり、校内や食堂に多くの生徒が行き交っているはずだった。だが今はまるで、自分と三景がいるこの空間だけが切り取られ、隔絶されていた。
上空遥か前方から、大きな烏が翼を広げ、二人の側にくっきりと黒い影を落としながら通りすぎていく。それを横目に、三景が完全にこちらへ振り返り、陸と相対した。
「なあ、昨日のあれ何!? あのでかい蜘蛛! お前あそこにいたよな? あいつをぶっ倒しただろ? 一体どうなってんだよ!?」
陸は前置きや雑談を挟む余裕など全くなく、一人でずっと抱き続けていた疑問をぶつける。
昨日、社宅の駐輪場に現れた蜘蛛。そしてそれを不思議な力で倒した三景。よく考えると、陸が不気味な蜘蛛を目撃したのはそれが初めてではない。夢の中、更にデパートでも、兆候めいたものがあった。
三景の闇色の目が、正面から陸を捉える。深く塗りつぶされたような瞳は、陸が蜘蛛に遭遇する直前に見た空虚な世界に似ていた。しかし一つ違うのは、三景の双眸には陸の姿がはっきり映っているということだった。
「篠田」
三景の低い呟きで、陸はこの同級生から、初めて自分の名を呼ばれたと気がついた。
「うるせえ。いっぺんに聞くな」
「無理!」
もしかすると自分はどこか狂っていて、妄想に囚われているのだろうか。そして何の関係もない三景に、くってかかっているのだとしたら。
陸は繰り返し悩んだ。まともな人間なら、誰だってそう考えるだろうとも。そして三景の態度からすれば、頭のおかしな奴だと思われ、相手にされない可能性が高い。
だが三景は、呆れと諦めの入り雑じった表情を浮かべながら、
「お前が見たのは、蜘蛛の形をした影。影から生まれた蜘蛛だ」
そう断言してみせた。
「……え?」
自分で自分を疑いたくなる奇妙な出来事だったのに、自分が見、体験したことが肯定された。それは陸にとって大きな驚きであったが、三景の言葉は謎めいて、理解しにくいものだった。
「影……?」
「光のさす所なら、影は何にだってある。俺にもお前にも。あいつらは、その影を通じてやって来る」
「――……」
不条理なことだからこそ、納得のいく答えが欲しい。自身の恐怖や不安を鎮めたい一心で三景に問うた陸だったが、話をきくほど、逆に混乱と戸惑いが深まってしまう。
本当は、夢でも見たんだろうと、三景に否定してほしかったのかも知れない。
(……何言ってんだ、こいつ……)
仏頂面は相変わらずだが、ふざけた素振りもなく淡々と話す三景に、陸は無性に苛立ちが募った。
「山那、それ本気で言ってんの? 冗談だよな、その顔で。ありえねえ。絶対ない。ないよ、お前」
陸は呪文でも繰り返すように、三景を詰った。おかしいのは自分ではなく、こいつじゃないか。そう思い込む一方で、無意識に拳を作った陸の手は震えていた。
「……あ?」
三景は鋭い目を剣呑に細め、
「お前がどう思おうが、今さら関係ねえんだよ。標的にされた以上、何もしなけりゃ喰われるだけだ」
頭一つ分、小柄な陸を見下ろし、突き放すように言った。
「なっ……!」
標的。
喰われる。
三景の言葉はただ理不尽にしか聞こえず、陸の怒りは頂点に達した。
「お前、いい加減にしろよ! あんなバケモンがいるなんて、何で普通に言えるんだよ、ありえないだろ!? その辺にうじゃうじゃいるのでも見えるのか!? 頭おかしいんじゃねえの!?」
「話はそんだけか」
陸の怒声を弾くように、三景が硬い氷壁を思わせる冷たい表情で切り返した。
「俺がどうしてお前に影のことを喋るか、わかるか」
「…………」
何故か肌が粟立つのを感じて、陸は小さく身を竦めた。
「その方が後々、話が早いからだ」
「――話……?」
「あいつはまだ死んでねえ。必ずまた、お前のところに出てくる」
三景の台詞は刃の切っ先のごとく、陸に突き刺さった。
「昨日、奴は一瞬だが、お前を自分の領域に引きずりこんだ。そんな力を持つほど成長してる以上、お前に気づかれずに相手を退けることは、もう出来ねえ」
あの蜘蛛がまた現れるのか。銀色の姿を思い浮かべるだけで、陸の全身に戦慄が走った。それは目の前にいなくとも、恐怖の象徴として心に侵入し、棲みついたのかも知れない。三景の言葉はもう陸の耳に入らず、ただ虚しく頭の上を通り過ぎていった。