8 接近
昼休みを告げるチャイムが鳴って、数分後。
全速力で階段を駆けのぼったせいか、屋上へ通じる扉の前まで来た時には、息が切れていた。扉にはめこまれた磨りガラスから、外の明るさが白く垣間見える。
陸はいったん深呼吸すると、迷わず一歩踏み出し、扉を押し開けた。
すると春風が頬を撫でていき、鮮やかな陽射しに包まれる。その眩しさに、陸は思わず目を細めた。
屋上には、陸の予想通りの先客がいた。手すりから景色を眺めていた黒いシルエットが、逆光を背に、ゆっくりとこちらへ振り返る。
紺のブレザーに濃い緑のチェック地のスラックスと、胸元にはえんじ色のネクタイ。そして空から全てを俯瞰する鷲のような瞳が、陸を捉えていた。
「山那……」
陸の呼びかけに、三景は会釈や返答を返すことなく、ただ微かなため息をついた。
その前日、日曜日。
ドラッグストアで中井と別れた後、陸はトイレットペーパーを積んで社宅へ戻った。
自転車をこぎながら、陸は中井の話を思い出していた。
『……中学ん時の先輩の、おばちゃんや』
陸が出会った、A棟に住む女性。彼女は中井の中学時代の先輩の母親だという。
そしてその『先輩』は、
『亡くなったんや、三年前に』
岡という名字であったことと、交通事故による死だという以外、中井は話そうとしなかった。その雰囲気から、陸も詳しくは聞けず、帰路についたのだ。
(……岡さんっていうのか、あの人)
一昨日に、A棟の前で偶然話しただけの女性である。もちろん名前さえ知らなかった。
彼女は陸たちより先に店を出たが、徒歩だった。社宅まで歩いても十分ほどの距離だ。自転車なら追いつく可能性もあったが、陸はそれを考えると複雑な気持ちになった。
――もし次に顔を合わせたら、どんな態度で接すれば良いのだろう。
子どもを亡くしたという人に会ったのは初めてだった。亡くなったのは全く知らない人物だが、自分とそう変わらない年齢で死ぬことがあるという事実が、ある種の衝撃をもたらしていた。
ただ同じ社宅に住んでいるというだけの間柄である。何も知らない素振りで、普通に挨拶するのが無難だろう。
頭ではそう結論づけながら、胸のどこかがスッキリしない。
悶々と悩む内に、陸は気がつけば社宅の敷地へ到着していた。アスファルトが砂利道に変わり、自分たちが住むB棟の脇に駐輪場の屋根が近づいてくる。小春日和のためか、芝生のあちこちで遊ぶ子どもの姿があった。女性らしき人影は、見当たらない。
陸は少しホッとして、駐輪場の空いた所に自転車を停めた。サドルの下部にある鍵を抜くと、後ろを振り返った。
すると、今まで目の前に広がっていた筈の景色が、一変していた。
世界が灰色に染まっている。
道の向こうに続いていた緑の芝生、薄汚れているが白いA棟の建物。そして青空。
それら全てが独自の色を失い、灰をかぶったように見えた。つい先刻まで楽しげに走り回っていた子どもたちも消えている。自分の他に誰の姿もなく、道路を走る車さえない。色や音がどこかへ吸い込まれてしまったかのような空間に、陸は立ち尽くしていた。
「えっ……え?」
自分の目がおかしくなってしまったのだろうか。
陸は変貌した光景を前に、茫然と左右を見回した。地面も自転車も、何もかも灰色だった。転げ出るように駐輪場の屋根から、建ち並ぶ四つの棟を見上げた。しかし家々の窓にも光はなく、ただ灰色の壁が抜け落ちた穴のごとく、ぽっかりと黒い口を開けていた。
「何だよ、これ……」
陸は何が起きているのか理解できない恐怖に、足がよろめいた。
「うわっ――」
停めてあった自転車にぶつかったが避けることも出来ず、そのまま将棋倒しになってしまう。前カゴに載せていたトイレットペーパーが、奥へ投げ出される。
(痛ぇ……)
腕や背中を打ちつけた痛みに顔をしかめながら、視線を上げる。
その先に、蜘蛛がいた。
駐輪場の屋根から垂れ下がる、一本の糸。それを伝って、銀色の蜘蛛が、陸の眼前へ逆さまに身を下ろそうとしていた。
それは、人の顔ほどもある大きさだった。
「わあああああっ!」
陸は反射的に叫び声を上げ、尻餅をついたまま後ずさった。が、自転車に阻まれて動けない。
灰色の世界の中で、その蜘蛛だけは銀に輝いて見えた。
頭胸部と腹部にうっすらと生えた銀の体毛。そこから伸びる、八本の節立った脚。手前にある二本の触肢が、獲物を求めるようにゆっくりと開く。
陸は恐怖で体がすくんで、逃げられなかった。
その刹那。
後方から一筋の光の刃が、蜘蛛の体を捉えた。真っ二つに切り裂くまでには至らないが、斬った箇所から体液のようなものが弾け散る。衝撃で、蜘蛛は芝生の先へ吹き飛ばされた。
「うわっ……」
灰色の視界に突如現れた白い斬光。陸は目が眩み、思わず瞼を閉じた。
その直前に見たもの。
蜘蛛が彼方へ消え去った奥に、鋭い瞳の少年が立っていた。黒い髪と瞳にジーンズ姿。彼もまた、この空間で鮮やかな色をまとっている。
陸がひとたび目にしてから忘れたことのない、獰猛で深い瞳。それが今、再び自分の前にあった。
少年――三景は蜘蛛が飛び去った方向へ視線を移すと、つり目がちな顔を苛立たしげに歪め、小さく舌打ちした。
その後、陸が恐る恐る目を開けると、元通りの日常が戻っていた。淡い春空の下、近くには子どもたちの遊ぶ姿がある。
なぎ倒した自転車にもたれかかったまま、陸はしばらくぽかんとしていた。
駐輪場の屋根に目をやっても、蜘蛛どころか虫の一匹すら見えない。そして三景も、いなくなっていた。
社宅の窓には、普段のように洗濯物がはためいていたり、室内のカーテンが映ったりしている。
(……今の、何だったんだ……?)
わずか一瞬の白昼夢でも見たような、奇妙な浮遊感。
やがて陸はのろのろと腰を上げると、地面に落ちたままのトイレットペーパーを拾い、その場を離れた。
腕に出来た打ち身の痣だけが、青黒い印のように残っていた。
あの時、自分は最後に三景の姿を見た。夢か幻だと考えるのが普通だろう。もしこんな話をしたら、自分は頭がおかしいと思われるかも知れない。だが陸は、どうしても確かめずにおれなかった。
そう思い続けて、翌日。三景と話す機会をうかがっていた陸は、昼休みを迎えたのだった。