42 湊斗の記憶・夏⑯~落日のドライブⅢ~
「うちはもともと両親と妹の四人家族だった。でも、あたしが十歳の頃、親が離婚してね」
淡々としたリナの声が車内に響く。湊斗には、CDから流れるアリーの歌が、心なしか小さくなったように感じられた。
「あたしと妹は母親に引き取られたわ。父親はそのあと再婚したとか聞いたけど、一度も会ってないから、今どうしてるかは知らないの」
「そうだったんですか……」
ポツリと相づちを入れる湊斗。いつも自由で明るい印象のリナに離婚という言葉はそぐわず、他に何を言えばいいかわからなかった。
「母親と妹と三人で、狭いアパートに引っ越して一~二年経った辺りかな。母親があんまり家に帰ってこなくなってさ。週の半分は、あたしと妹だけで過ごすようになってた」
「帰ってこないって、仕事が忙しかったんですか?」
湊斗が訊ねると、
「仕事もしてたけど、それは理由じゃないわ。はっきり言っちゃうと、母親に新しいオトコができたの。で、そっちの方へ行ってたってわけ」
リナは投げやりといってよい口調で答えた。
「――は?」
湊斗は絶句した。『オトコ』という単語が意味するところを、とっさに呑みこめなかったのだ。
「……お母さんに、付き合う人ができたってことですか?」
「そ。まあ、離婚したんだし、悪いことしてたわけじゃないのよ。もっとも、あたしも今だからそう思えるんだけど」
リナがどうして冷静に話せるのか、湊斗には理解し難かった。
(うちで言えば、お母さんがお父さん以外の人とそういう意味で付き合うってことだろ? ないよ、絶対。しかも、家をほったらかしなんて)
そんな湊斗の胸中を見透かしたように、リナが語を継いだ。
「ちょうど、あたしも中学に入った頃でね。その時は母親が許せなかったわよ。母親が無性に不潔に思えたし、男がいなきゃ生きていけないのかって軽蔑もした。だから、たまに母親が家にいる時はケンカばっかり。あたしは家にいるのが嫌になって、夜は外を出歩くようになった。そしたら、今度はそれで妹と言い合いになってね」
リナの語り口はあくまでサバサバしていたが、湊斗はもし自分が同じ環境だったらと、思いを馳せずにいられなかった。
「ぼくのお母さんは、いつも家にいるけど病気で……リナさんのお母さんは、元気だけど家にいなかったんですね」
それでも、自分には父や祖母がいる。湊斗は彼らの顔を脳裏に浮かべ、そっと目を伏せた。
「ええ。うちも色々あったけど、今となっちゃ、母親の気持ちもわからないでもないのよ」
ハンドルを握り、前方を見据えるリナから出た意外な言葉に、湊斗は驚いた。
「だって、働くって結構大変なんだもの」
湊斗の視線を浴びたリナが、苦笑まじりの一瞥を返した。
「未来ある湊斗くんの夢を壊したくはないけど、お金を稼ぐって楽じゃないのよ。あたしは会社に入ってまだ半年も経たない新人で、仕事はわかんないことだらけなのに次々と降ってきて、学生より断然キツイんだから」
人生終わった気分よ、と大げさに続けるリナのようすは嘆きというより滑稽で、湊斗は思わずクスリと笑ってしまう。
「あ~、そこ笑わない! で、考えてみたら、母親も同じようにしんどかったんだろうなって。しかも、家賃払って、あたしと妹まで食べさせなきゃいけなかったわけでしょ。背負うものが重すぎて、誰かにすがりたくなってもしょうがないかもしれない」
その時、車はちょうど大きな橋にさしかかっていた。すれ違う車のライトが薄闇に浮かび、眼下には幅の広い川が黒く横たわる。
「だから、湊斗くんのお父さんも大変なのは確かだと思う。職場では自分の仕事プラス部下のことも見て、家では病気の奥さんや湊斗くんを養って。もちろん、どんな事情があっても、湊斗くんに手を上げたのは良くないけど」
リナの意見が父について及ぶと、湊斗は考えこんだ。
(お父さん、大変なのかな。そんなの考えたことなかった)
もっぱら、家より会社にいる時間の方が長い父だが、嫌な顔をして出勤するところを見たことがない。職場の宴会や上司とのゴルフにも颯爽と向かう父の姿が思い出された。
「湊斗くんのお母さんも、きっとすごく辛いんでしょうね。義理の両親と同居するって、やっぱり気を遣うし窮屈なはずよ」
「そうでしょうか……」
母に関してのリナの言葉は、湊斗にはやや耳が痛かった。自身も見てきたことだが、祖母の存在が母を苦しめる一因と言われたような気がしたのだ。
「思ってることをはっきり言う人なら、少し違ったのかもしれないわ。でも、話を聞く限り、湊斗くんのお母さんは多分そういうタイプじゃないでしょ? まあ、結局何が病気の引き金なのか、正確にはわからないし、断定はできないけどさ」
(引き金……)
その単語が妙に心に引っかかって、湊斗は目線を窓の外へ漂わせる。
(お母さんがあんなふうになったのは、お父さんのせい? おばあちゃんのせい? それとも、他に訳があるんだろうか?)
空にわずかに残っていた太陽の残光が消え、街は夜の帳に包まれようとしていた。




