40 湊斗の記憶・夏⑭~落日のドライブⅠ~
リナは何も聞かなかった。しばらく黙って湊斗を見つめた後、
「湊斗くん、今からドライブに行かない?」
いつもと同じ、軽い口ぶりでそう言った。
「えっ?」
面食らう湊斗。てっきり、殴られた頬について、もっと突っ込まれるのではと予想していたのだ。
「あたし、ちょうど夕飯ついでに車で一走りしようと思ってたの。湊斗くんもどう? けっこう気晴らしになるわよ」
思いがけない展開の連続に、湊斗の頭は停止寸前だった。祖母の来訪、母の錯乱、そして父との衝突と暴力。人生十年分、もしくはそれ以上の体験を凝縮して味わったような日である。
(……その次は、これなのか)
母と祖母を除いて、湊斗はクラスの女子とさえ、二人きりで出かけたことはなく、そもそも誘われたことも誘ったこともなかった。
「さ、乗って」
一方のリナは、湊斗が断る可能性など端から存在しないかのごとく、屈託なく笑って、赤いヴィッツのドアを開け、助手席へと誘った。
湊斗はふと、コンビニで初めてリナと出会った時のことを思い出した。その際も、彼女は車で送ろうかと言ってくれたのだ。
(あの時は、とても考えられなかったけど……)
もし誘いを断った場合、はたしてどこへ行くだろうか。湊斗は自問した。三景や中井、流郷たちの顔が浮かんでは消える。だがスマートフォンを家に置いてきたうえ、仮に彼らに会えても、今日の出来事を話せるかわからなかった。
(じゃあ、リナさんは――?)
同じ社宅で父の部下とはいえ、リナと話した回数はそう多くない。しかし、湊斗の中で、彼女は家族とも学校の友人とも違う位置にいる。それに加えて、飛び出したばかりの家と父から、今は少しでも離れたかった。
(えい、なるようになれ)
湊斗は全てを投げ出す心地でうなずき、リナの車へ向かった。
車内を覗きこんだ途端、エアコンの冷風が肌にふれ、柑橘系の香りとかすかなヤニ臭さが鼻をくすぐった。見ると、運転席そばのドリンクホルダーに、青い箱入りのタバコとライターが突っ込まれている。そして、後部座席には薄手のカーディガンやクッションが無造作に投げ置かれていた。
「あ~、もしかして匂う? 一応消臭剤も置いてんだけど。ご覧のとおり、あたし喫煙者だから許してね」
「あ、いえ、別に……」
嗅覚がそのまま面に表出してしまったのだろうか。軽いウインクを寄越しつつ、颯爽と運転席に座るリナに、湊斗はしどもどと返事をした。
「ほら、遠慮せず座って」
バシバシ助手席を叩くリナに促され、湊斗はまだどこか現実味のないまま、彼女の隣にかける。すると、今度はダッシュボードに横たわる、クマのぬいぐるみつきのティッシュケースが目に飛び込んできた。
(何か、リナさんの部屋に来たみたいだな……てか、行ったことないけど)
家族や親戚の車しか知らない湊斗にとって、これは初めての体験だった。小さな車に過ぎなくても、リナという年上の女性のパーソナルな空間に身を置いている。苛酷な嵐に見舞われ、疲弊しきった湊斗には、それが夢の延長にも感じられた。
「湊斗くん、ドア閉めてよ」
リナに言われ、湊斗は助手席側のドアを開けっ放しにしていることにようやく気づく。
「すいません!」
慌ててドアを閉めると、自分たちの世界が、今度こそ外部とはっきり隔てられたようだった。
「も~。湊斗くん、実は天然?」
シートベルトを締めたリナが、けらけらと笑う。
「ち、違いますよ! 少しぼうっとしてただけで、いつもならこんな失敗はしません」
リナにしょうもないところを見せてしまった恥ずかしさが思いのほか強く沸き上がり、湊斗は必要以上に反応していた。
「そーお? 天然も可愛くて良いじゃない。あ、シートベルトつけたら、そこからCD出して。湊斗くんの好きなやつでいいわよ」
カーナビの画面を確認するリナの軽快な注文に、湊斗はおずおずと手前のグローブボックスを開ける。中には数枚のCDが入っていた。ケースを手に取ると、いずれも洋楽のアルバムで、湊斗の知らないアーティストばかりである。
(へえ。リナさんって、こういうジャンル聴くんだ)
時たま顔を合わせるだけでは知りえなかったリナの一面を垣間見たようで、湊斗はちょっとこそばゆくなる。
「じゃあ、これを」
結局、湊斗はジャケット写真だけでCDを選んだ。それは『ALLY』というタイトルで、タンクトップにストライプ柄のボトムを着た若い白人女性が写っている。おそらく歌い手と思われる彼女の雰囲気が、少しだけリナに似ていた。
「あら。アリーをチョイスするとは、湊斗くん、なかなかセンスあるわね」
「いや、何となく選んだだけなんで……」
「彼女の歌は最高よ」
リナは湊斗からCDを受け取るや、手際よくデッキにセットする。束の間の静けさの後、ハスキーでしっとりした女性の歌声が車内に広がった。
「それにしても、あたしの車に乗せた、記念すべき初めてのオトコが湊斗くんだったとはねえ」
ハンドルを軽く握りながら、茶目っ気たっぷりに言うリナに、湊斗はのけ反りそうになる。
「はいっ!?」
悲鳴に近い声を上げるのが精一杯だった。シートベルトがなければ、湊斗は本当にひっくり返っていたかもしれない。
「どっか行きたい所はある?」
ところが、リナは湊斗の動揺などどこ吹く風で、すぐ別の話題に移ってしまう。
「……どこでもいいです」
湊斗はひっそりため息をついて答えた。彼女の戯れにいちいち振り回されていたら、心臓がいくつあっても足りないのではないか。
「おっけー。じゃ、出発ね」
リナの気楽な言葉と同時に、二人を乗せた車はゆっくり走り出し、社宅の門を越えていった。




